あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

その13)旧関東軍司令本部

2010年09月03日 04時43分57秒 | 旅順・大連旅行記
旅順博物館の目の前に塔がある。

これは中国とソ連の友誼の塔。1957年2月に「中ソ友好同盟協力条約」の締結7周年の際、落成したもの。画像奥に見えるのは旅順博物館本館。

友誼塔の向かいは旧関東軍司令本部という位置関係です。…ここに友誼塔を建てたのってわざとだよな…。だって向かい合う旅順博物館と旧関東軍司令本部の間に割るように塔を建ててあるんだもん。…深読みし過ぎ?

トップ画像は友誼塔の階段の上から撮影した「旧関東軍司令本部」です。
ここは日露戦争後、日本の関東軍の最高指揮機関だった。『旅順口大観』には1931年9月18日に起きた「柳条湖事件」の密謀をここでしたと書いてあります。最近まで中国軍の施設でしたが、今年博物館になりました。

1階を覗いてみると…。上へ向う階段があるだけでして。ちっ。これじゃ何もわかんね~…。

建物の前面に立っている木は「カイヅカイブキ」と言って、日本から持ち込んだ木です。旅順市内のあちこちにあります。大連にも同じ木を植えたそうですが、根付いたのは旅順だけとガイドさんより説明が。

右手に回ると、未だ建物の一部は軍の施設として使用されてるようです。

反対側は旧露清銀行旅順支店」。建物の落成は1902年。日本植民地時代には物産陳列所や千歳クラブ。その後1945年にソ連赤軍に引き継がれ、1955年、中国人民解放軍が引き継いだ。未だ観光客は中に入れない。現在何に利用されてるかは不明のまま。残念。


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その14)旧旅順大和ホテル

2010年09月02日 04時59分25秒 | 旅順・大連旅行記
旅順博物館ー旧関東軍司令本部の後、バスがやってきたのは「旧旅順大和ホテル」。移動距離は500メートル弱ですかね?街歩きしたい所ですが、ツアー行動なので我慢です。

大和ホテルはかつて南満州鉄道(満鉄)の作ったホテルの一つ。旅順だけでなく、満鉄の直営ホテルは関東州(遼東半島)と中国東北各地に全部で9軒もありました。中でも超一流ホテルとして知られたのが大連・シン陽(奉天)・長春(新京)・ハルピン・旅順・星が浦の大和ホテルでした。大連やシン陽にある旧ヤマトホテルは現在も街を代表するホテルとして営業してます。大連の大和ホテルは後日紹介しますね。
旅順の大和ホテルは現在1階は商店。
2、3階は一応現在もホテルです。
かつては旅順随一のホテルでした。ほらね。
外観で大幅に変ったのは屋根ですかね~?現在の建物に煙突はない。
「すっかり面変わりしてしまった外観ですが、内部は当時の面影が色濃く残っています」と、添乗員が言うのでついふらふらと。
「現在も営業してますから、怒られたら出て来て下さいね~」と。
怒られるまでならいいか~と。チャレンジャーは突撃しました。
タイムリミット戦なので、さくさく紹介。
まずはホテル入口。
続いて、上のビニールすだれをくぐって入った所。ただの空間。レセプションなんかは2階にあるよです。

時代を感じる階段。

木製の階段は年月を経てすり減っています。…これ、オリジナルかな?

階段を上がるとホールです。

このホールで昭和2年に男装の麗人、川島芳子が結婚式を行いました。
ホールのベランダから見えるのは…。

旧高等師範学校です。
これから先は客房へ…。

一番手前の部屋は客に見せる見本なんですかね~。入口が開いていたのでちょっとだけ拝見。
明治42年に夏目漱石が滞在したり、昭和6年には清朝最後の皇帝溥儀も滞在したそうですが…。改装を繰り返したようで、面影ありませんねえ。まあ、床のおんぼろ具合からするとここだけは元のオリジナルかもしれんが…。

上の画像は客房とホールを結ぶ廊下です。ここはかつての面影がありますが、いかんせん暗い。うまく雰囲気が画像に出てない~。(無念)

それはそうと、夏コミ参加された皆様お疲れさまでした会場内はどんだけ暑かったんでしょうね?なんかニュースで3日間の参加合計57万人とかゆーてましたよ!?マジか~。
私は今年はお家で大人しくしてました。なんかまたまた最近クラクラするもんで。いや、もしやせんでもそれは暑さ負けかもしれんのですが…。息切れしがちなのも暑さ負けなのかもしれんのですが…。溶けるように暑いのがもう少しマシにならんとおでかけする気も置きません。
昨日はどうにも耐え切れなくて、昼間に冷房を31度に設定して使用した所、すんごく快適に感じまして…。まあ、36度だか38度まで気温上昇していたので、外気と5度以上差があれば充分なのかも~?と思いつつ、久々に冷房の風を楽しんでみました。

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その15)旧旅順師範学校

2010年09月01日 04時00分48秒 | 旅順・大連旅行記
この建物の変遷も面白い。
昨日の旧大和ホテルの記事のベランダから見た画像。そこに見えたのがこの建物です。

ロシア植民地時代にアメリカ人のサスプログが「徳泰号雑貨店」として開設したもの。
1916年、日本植民地当局によって「旅順高等学堂師範科」と改称した。
1918年から「旅順師範学堂」「旅順師範公学校」と改名。
1945年には「ソ連赤軍病院」になる。
中国返還後は旅順に駐屯する軍の病院だったが、現在は空き家。
早急に保存なり次に利用を決めないと、建物が古いだけにすぐにダメになります。
既に痛みは始まってました。

何でもかんでも保存しろっては言いませんけど、こんなに立派で綺麗な建物なのに、風化に任せるのはもったいないなあ…。
つい愚痴が口をついて出る私って小市民~

建物が大きいので一部だけ利用するのは無理だと思いますけど、旅順の街って現在廃墟だらけです…。歴史的に有名な奴もそうでないのも…。
おそらく去年の秋に『軍港旅順を外国人観光客へ解放』と急に方針変換がなされ、現在は街が変化する過渡期に当るんだと思います。中国では潰して新しくするとなれば、まず立ち止まらない。時が止まったような旅順もこの先変るのか?ならば今こそおすすめの訪問地です。
……もしかして廃墟ファンには特にお薦めの場所かもしれん…。や、廃墟ファンの萌えポイントも知らないんですけど。あちこちお化け屋敷なんで。

旧大和ホテルと向かい合う通りは「文化街」と言う。ここにこんな建物が。

「繍楼(女子の部屋)」旧跡。
ロシア植民地時代の「徳泰号雑貨店」の社員寮だった。張作霖の妹の入居で「繍楼」と名付けられた。以降、旅順市長の家だったことも。
1945年ソ連軍に引き継がれたが、1955年に人民解放軍の旅順駐屯医療隊の所在地となり、軍の招待所となった。
コメント (7)
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