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書籍紹介「ロベルト・デュラン "石の拳" 一代記」(4)

2014年09月19日 | ボクシング
ロベルト・デュランが居なかったらライト級の名王者として長期政権も
可能だったかも知れないエステバン・デ・ヘスス。

そのヘススが37歳の短い生涯を終えた3ヵ月後、拳友のデュランは予想不利を覆し
アイラン・バークレーからダウンを奪って4階級制覇を達成した。



そう、デュランはノーマス事件後に格下カークランド・レイングにも破れ
完全に終わったと想われたが、スタッフを一新し出直していたのだ。
※旧コーナーマンに見捨てられた面もあったが。その辺、本書は丁寧に
 調べて書いてあるのが素晴らしい。ノーマス試合の夜、それでも
 デュランはパーティーやってた・・・とか興味深い記述も多い。

若きデービー・ムーアをKOして3階級制覇、
「驚異の男」と言われた統一ミドル級王者マービン・ハグラーに挑み、
4階級制覇には失敗するも判定まで持ち込み、
続く「モーターシティコブラ」トミー・ハーンズに2R衝撃のKOで
降されて引退を発表しながらも、しぶとくカムバックを果たしていたのだ。

ライト級時代は荒々しさで隠れていた天性の防御勘、ナチュラルに右を
当てるタイミングの良さが晩年の彼を支えたのだ。
アイラン・バークレーは、トミー・ハーンズをKOしてミドル級王座を
奪取した選手だがラフな面もあり、私は当時「もしかして」と期待
してましたよ。



しかも、それなりの狡猾さ計算高さも持ち合わせたロベルトは
「判定でも俺がダウンの一つも奪って手を上げれば客は喜ぶだろう」と
タカを括っていた様子もあった。
晩年になって全盛時の試合をしようとしても無理だし、そもそも身体が
持たないって事は彼が一番分かってたって事だろう。
華々しい大きな勝利はバークレー戦が最後・・・という位置づけにも同意だ。

最後は交通事故で重症を負い、本当に引退せざるを得なくなったロベルト。
これには「神が与えたもうた時期」と素直に従っている。
※そこから日常生活に支障ないくらい回復するのが、また彼らしい。

最晩年は決して豊かそうには紹介されておらず、身内は恨み事っぽく
「他人にばかり金の配って、我々には富の恩恵がなかった」とコメントしている。

※でも「遥かなるデュラン」では末妹へのインタビューで
「ロベルトお兄ちゃん家に行ったら、ごちそうをいっぱい食べさせてくれて、
 帰りにはたくさんのお菓子をお土産にくれるの。私はロベルトお兄ちゃんが
 大好き!」なんてコメントされてるんだよなぁ。



本書では
ロベルト自身、このまま富から見放されて尻すぼみの晩年を送るかのような
論調で、まぁ中南米のボクシング元世界王者は身を持ち崩す人が多いから
そういう予想もさもありなんとは思いますが、

~とはいえ「ロベルト・デュラン・アリーナ」なんて、自分の名前が
冠された会場(キャパシティ8000人)が建設されて地元バスケチームの
本拠地になったり、ボクシング試合が開催されたり・・・で
結構恵まれた晩年だと思いますよ。
パナマは元世界王者には年金もあるし。

現在も大きなイベントでは会場に姿を見せて喝采を浴びてるデュラン。
統括団体のパーティーなどにも参加してカメラに収まる風貌は、さすがに太って
年をとった感じがするが、それでも元気そうな姿はファンからすると嬉しいものだ。

533ページを読み終え、改めてそんな感慨を覚えました。

やはり大変な労作でした。
著者のクリスチャン・ジューディージェイ氏の労を称えたいと思います。
杉浦大介氏の訳も充分なボクシング知識がなければなし得ないモノです。

著者はアレクシス・アルゲリョの伝記も手掛けられたそうで、そちらも
なんとか読む機会があればなぁ・・・と願わずにいられません。


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
王者にしろ (ゆきお)
2014-09-22 16:03:41
挑戦者にしろ勝ち続ければ強い奴とやらなきゃいけなかった団体2つの時代、

4つ出来て暫定出来てお金さえ払えば拒否できるってのはよ

スライマン、あの時潰れれば良かったしメンドクさ親子などは打ち首しないと…
話脱線、ヘススが対石松で稼いだお金がクスリに消えてしまったこと

初めてのパナマ旅行でデュランの家に行くって税関で行ったら成功しちゃって デュランにも会えて歓待されたって昔ボクマガで読みましたなぁ
返信する
コメント御礼&れす (ある@管理人)
2014-09-23 21:50:26
Toゆきお さん
>王者にしろ挑戦者にしろ
>勝ち続ければ強い奴とやらなきゃいけなかった団体2つの時代、
――それでも「昔は世界タイトルは一つだった。ジュニア階級も無かった」なんて
言われましたもんね。
元世界王者が再挑戦するには世界ランク急上昇してきた新鋭と
戦って勝ち残らなければチャンスが来なかったりしましたし。

>4つ出来て暫定出来てお金さえ払えば拒否できるってのはよ
――論外です。
結局ファンに見透かされて終わりですね。

デュランvsデヘススや、デュランvsレナードは勝ち続けた者同士が激突する「本物の大一番」でしたから。

ああいう狂熱は、もうなかなか無いですよねぇ。

>ヘススが対石松で稼いだお金がクスリに消えてしまったこと
――「デュランが居なければ長期政権も有り得た」と書きましたが
現役時代から素行に問題あったような話ですし、デュランが居なかったら
お山の大将として節制を忘れてダメになった可能性もありますね。

>初めてのパナマ旅行でデュランの家に行くって税関で行ったら成功しちゃって
>デュランにも会えて歓待されたって昔ボクマガで読みましたなぁ
――そういう記事、ありました!
白黒の読者投稿だったと思いますが、掲載スペースなど破格の扱いでしたね。
それも納得の熱意ある旅行記でした。
返信する
真善美の探究 (Mos)
2014-09-25 12:52:23
真理と自然観

《真理》

結論から言って、真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。

“ある時、何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか、と。すると友人は、何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”

私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし、単純にからっぽという意味でもない。私という意識、世界という感覚そのものの原因のことである。この時、我々は『空・から』という言葉によって、人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化から、その裏側に真の形があることを理解した。そして、我々はこの世界の何処にも居ず、この世界・感覚・魂の納められた躰すなわちこの裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》

目的は、何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路、それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは、或感覚を再び具現させる基盤としての目的経路の原因・因子が再び具現する能力と可能性を与える機構、手段によって、再具現可能性という方向性を得たものである。志向は複数あり、意識中にある凡ゆる感覚的対象に支配される。

『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは、表象下に複数の因子が存在するということである。』

『因子は経験により蓄積され、記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』

我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し、再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でも、因子の具現に対応した感覚的対象(条件)がない場合はこの志向は生じない。但し、意識を介さず機構に直接作用する物が存在する場合もある。


《生命観》

『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』

『再具現性を与える機構としての己と、具現の方向を決定する志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』


生命は、過去の意識の有り様を何らかの形に変換し保存する記録機構を持ち、これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。

生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり、この志向が再具現の機構としての肉体に作用して変化を生じる。この為廃れる志向が生じる。


*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。

己と自の発展とは、躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され、この志向が再具現の機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなく、その志向により然としてある意識と肉体を変革する存在である。

『志向(作用)→肉体・機構』



然の理・然性
自己、志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。

然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)



【世界創造の真実】

世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。
だから自我は客体認識の反射作用としてある。
これは逆ではない。

しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。
すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと
なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。

これは神と人に共通する倒錯でもある。
それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。

しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。
だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。
いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?

言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。
あれは空, それは山, これは自分。

しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。
山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。
自分というものはない。
自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。

これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。

例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。
それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。

そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。
鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。
なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。

そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。
言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。

だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。
そんなものはどこにも存在していない。
神, 霊, 悪魔, 人。
そのような名称に対応する実在はない。

それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。
私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。

私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。

これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。

だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。

「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」

同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。

「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」


神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。

あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。



【真善美】

真は空と質(不可分の質、側面・性質)、然の性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し、その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり、自己の発展と自分の理解。


善は社会性である。直生命(個別性)、対生命(人間性)、従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立、対には干渉のし難さから来る閉塞、従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。

△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)

千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し、尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく、状況によっては退き適した人間に任せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。


美は活き活きとした生命の在り方。

『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』

予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め、これを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。認識に囚われ自分の願望を諦めることなく、認識と相互して願望を成し遂げようとする生命の在り方。
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