8年ぶりに白石城【白石市指定史跡】を訪れ、
以前、文字通り門前払いを受けたという城門を越え、
白石城のシンボル・三階櫓【白石市指定文化財】に入りました。
その1階の奥に、なにやら思惑を秘して微笑む老紳士と若淑女がたたずんでいます。
「戦国武将になってみませんか」
一言でいえば、コスプレです。
白石城ゆかりの戦国武将たちの兜と陣羽織が、すでに用意されているではありませんか。
白石城の城主・片倉小十郎。
小十郎の主君・「独眼竜」伊達政宗。
そしてなぜか、「日の本一の
こんなコスプレなど、普段の私ならばにべもなくはね退けるのです!・・・
片倉小十郎重綱、ここに推参!
(なお顔は、ナムコ「独眼竜政宗」の片倉小十郎景綱を使わせていただきました)
兜は神符八日月前立筋兜。
片倉景綱・重綱父子が所用していた兜ですが、重綱は大坂の陣に赴くにあたって「愛宕山大権現守護所」の御札を授かり、前立ての半月(八日月)に貼って戦に臨んだといいます。
ここは白石城。
伊達さんも真田さんもいいのですが、やはり片倉小十郎になってしまいました!
1階に掲げられている「白地黒釣鐘」。
天正16年(1588年)ごろに小十郎景綱の姉・喜多より授けられ、以後片倉家の旗印となりました。
「鐘のように、片倉の武勇を天下に響かせよ」という願いが込められているといいます。
また片倉家は神官の家柄なので、「死んでいった者たちが怨霊にならないように、心安らかに眠れるように」という願いが込められているともいわれています。
現在の白石市の市章は、この旗印をモチーフとしたものになっています。
階段を上って、上層階へ。
史実を忠実に再現したのでしょうか、傾斜もなかなか急なものです。
2階に上がりました。
ここには、白石城の復元に使われた木材についての説明書きがあります。
柱は吉野の檜、化粧材は青森のひば、山陰の松丸太や赤杉などの国産を用いているそうです。
最上階へ。
最低限の消防器具が備わっているのは消防法の制約上やむを得ないことですが、それでも木造の大櫓は圧巻ですね。
天井には棟札が据え付けられていますね。
三階櫓からの本丸。
芝生や樹木が茂る一帯は、かつては本丸御殿が建っていました。
本丸大手門。
入口の一ノ門【再建・白石市指定文化財】から二ノ門【再建・白石市指定文化財】に進むにつれて空間が狭くなる、変則的な枡形構造になっています。
さすがに櫓門の二ノ門の前は広くなっているように見えますが、進路に注目するとカギ型になっていて、進軍しづらい構造になっていますね。
白石の街・・・あいにくの雨でかすんでしまいました。
横に伸びる白い筋は東北新幹線の高架と、JR白石蔵王駅です。
在来線のJR白石駅は平屋のため、よく見えませんでした。
それでは、三階櫓のてっぺんで・・・「城攻め」!
続日本100名城・第105番、白石城攻略!
同じく白石市内にある地蔵院館も攻略できました。
2代目小十郎・片倉重長!・・・ほか3名を登用。
2代目小十郎・片倉重長は、初代小十郎・景綱の嫡男です。
天正12年(1584年)に生まれ、同19年に元服、はじめは「重綱」と名乗りました。
ときの権力者・豊臣秀吉への奉公から、重綱は京都伏見に滞在することとなりますが、その間に見目麗しい青年に成長します。
主君・伊達政宗ともきわめて親密な関係であったそうです。
その容姿は諸大名の間でも語られ、関ヶ原で大活躍した小早川秀秋は熱心にアプローチをかけてきたそうな。
時代は下り、戦国最後の合戦・大坂夏の陣では、病身の景綱に代わり出陣します。
このとき重綱は主君・政宗に対し、伊達軍の先鋒を志願します。
「お前以外、誰を先鋒にするのか」
政宗は重綱の手をとって引き寄せ、頬へ御喰付きなされたそうな。
こうして大阪に参陣した重綱は、玉砕覚悟で野戦に打って出た豊臣軍を相手に奮戦。
猛将と名高い後藤又兵衛基次と、武芸者とされる
しかし大将でありながら自ら槍働きをしたために、白石に戻ると父の叱責を受けてしまったといいます。
父・景綱が死ぬと白石城主の座を受け継ぎました。
のちに4代将軍徳川家綱が将軍位に就くとその諱を避け、「重長」と改名しました。
「頬へ御喰い付き」・・・要するにほっぺにチュウしたのだそうな。
しかも喰い付くくらいだから、かなり情熱的なものだった?!
この話は、片倉家の記録にしっかり記述があるそうです。
♂♂の関係(
♂♂を嗜まない有名人は豊臣秀吉くらいだといわれています。
また主君の相手に選ばれることはこの上なく名誉なことであり、また主君に示す最高の忠節であったそうです。
三階櫓を下りて、外に出ました。
三階櫓のそばにあった本丸井戸。
さらには鐘堂【再建】。
本丸の枡形に突出している部分に建っていたそうです。
鐘は重長の子・景長のときに修理され、現在は福島県の桑折町に現存しているそうです。
三階櫓・本丸井戸・鐘堂。
入口付近の三階櫓。
こちらがスタンプの画角のようですね。
うーん そうとうすばらしいですぞ
本丸御殿跡地に立っている片倉小十郎景綱公
「頌徳」が読めませんでしたが、初代小十郎の徳をたたえた石碑ということになります。
2代目小十郎・片倉重長は、なんと生まれる前に人生最大の危機を迎えます。
天正12年(1584年)当時、主君の政宗は18歳で家督を継いだばかり、まだ男子は生まれておりません。
「伊達家に嫡男が生まれるまでは、片倉家に慶事はまかりならぬ!」
恐ろしく主君第一主義の景綱は、
「もし生まれる子が男児ならば、殺すべし」
と妻に命じたのです。
この話を政宗が聞きつけ、慌てて景綱に手紙をよこします。
もうすぐ生まれる子を、殺そうとしていると聞いた。
もし本当なら、やめてほしいという私の気持ちに免じて、助けてやってくれまいか。
私自身、この先どうなるかもわからないのに、お前のことをとやかくいうのは如何なものかとは思うが、お前のことも子のことも私に任せてほしい。
もし私の願いを聞き入れず子を殺してしまったら、お前のことを深く恨むぞ。
だから、どうか助けてやってくれ。
しきりに子を殺すと聞いたので、急いでこの手紙を書いた。
お前にも考えはあるのだろう。
だが、人にとって子は大切なものだから、あえて口を出すことにした。
何度も言うが、どうか私を信じて任せてほしい。
かた小 政
もし本当なら、やめてほしいという私の気持ちに免じて、助けてやってくれまいか。
私自身、この先どうなるかもわからないのに、お前のことをとやかくいうのは如何なものかとは思うが、お前のことも子のことも私に任せてほしい。
もし私の願いを聞き入れず子を殺してしまったら、お前のことを深く恨むぞ。
だから、どうか助けてやってくれ。
しきりに子を殺すと聞いたので、急いでこの手紙を書いた。
お前にも考えはあるのだろう。
だが、人にとって子は大切なものだから、あえて口を出すことにした。
何度も言うが、どうか私を信じて任せてほしい。
かた小 政
政宗のこの手紙もあって景綱は考えを改め、重長は無事に生を受けることができたのでした。
政宗への忠義のあまり、ときにとんでもない言動に出る小十郎景綱さん。
晩年は糖尿病を患ってしまい59歳で亡くなるのですが、このときに景綱を追って家臣数名が殉死したといいます。
なお、政宗の手紙で「かた小」は片倉小十郎、「政」は政宗を表します。
木村拓哉を「キムタク」(政宗的には「きむ拓」?)というように、政宗は手紙で人名をよく省略することが多かったそうです。
雨がしとしとと降る中、白石城をあとにしました。