鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

白石城リベンジ・後編~小十郎になる

2019-06-16 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 1 日 ( 土 )

午 後 3 時 2 1 分

宮 城 県 白 石 市

白 石 城 三 階 櫓



8年ぶりに白石城【白石市指定史跡】を訪れ、





以前、文字通り門前払いを受けたという城門を越え、



白石城のシンボル・三階櫓【白石市指定文化財】に入りました。
その1階の奥に、なにやら思惑を秘して微笑む老紳士と若淑女がたたずんでいます。

「戦国武将になってみませんか」

一言でいえば、コスプレです。
白石城ゆかりの戦国武将たちの兜と陣羽織が、すでに用意されているではありませんか。

白石城の城主・片倉小十郎
小十郎の主君・「独眼竜」伊達政宗
そしてなぜか、「日の本一の(つわもの)」真田信繁(幸村)のものまで・・・・・・これにはれっきとした理由があるのですが。

こんなコスプレなど、普段の私ならばにべもなくはね退けるのです!・・・



片倉小十郎重綱、ここに推参!



(なお顔は、ナムコ「独眼竜政宗」片倉小十郎景綱を使わせていただきました)



兜は神符八日月前立筋兜
片倉景綱・重綱父子が所用していた兜ですが、重綱は大坂の陣に赴くにあたって「愛宕山大権現守護所」の御札を授かり、前立ての半月(八日月)に貼って戦に臨んだといいます。


ここは白石城。
伊達さんも真田さんもいいのですが、やはり片倉小十郎になってしまいました!



1階に掲げられている「白地黒釣鐘」
天正16年(1588年)ごろに小十郎景綱の姉・喜多より授けられ、以後片倉家の旗印となりました。
「鐘のように、片倉の武勇を天下に響かせよ」という願いが込められているといいます。
また片倉家は神官の家柄なので、「死んでいった者たちが怨霊にならないように、心安らかに眠れるように」という願いが込められているともいわれています。
現在の白石市の市章は、この旗印をモチーフとしたものになっています。




階段を上って、上層階へ。
史実を忠実に再現したのでしょうか、傾斜もなかなか急なものです。



2階に上がりました。
ここには、白石城の復元に使われた木材についての説明書きがあります。
柱は吉野の檜、化粧材は青森のひば、山陰の松丸太や赤杉などの国産を用いているそうです。

 

最上階へ。
最低限の消防器具が備わっているのは消防法の制約上やむを得ないことですが、それでも木造の大櫓は圧巻ですね。



天井には棟札が据え付けられていますね。



三階櫓からの本丸
芝生や樹木が茂る一帯は、かつては本丸御殿が建っていました。



本丸大手門
入口の一ノ門【再建・白石市指定文化財】から二ノ門【再建・白石市指定文化財】に進むにつれて空間が狭くなる、変則的な枡形構造になっています。
さすがに櫓門の二ノ門の前は広くなっているように見えますが、進路に注目するとカギ型になっていて、進軍しづらい構造になっていますね。





白石の街・・・あいにくの雨でかすんでしまいました。



横に伸びる白い筋は東北新幹線の高架と、JR白石蔵王駅です。
在来線のJR白石駅は平屋のため、よく見えませんでした。


それでは、三階櫓のてっぺんで・・・「城攻め」



続日本100名城・第105番、白石城攻略!
同じく白石市内にある地蔵院館も攻略できました。



2代目小十郎・片倉重長・・・ほか3名を登用。
甘粕(あまかす)(甘糟)景継白石宗実は、片倉家の前の白石城主です。
桑折(こおり)貞長は伊達家の重臣で、伊達稙宗・晴宗の壮大な親子ゲンカ・天文の大乱で晴宗を支持して勝利し、白石城のあった刈田郡の万行楯城の城主を務めました。


2代目小十郎・片倉重長は、初代小十郎・景綱の嫡男です。
天正12年(1584年)に生まれ、同19年に元服、はじめは「重綱」と名乗りました。
ときの権力者・豊臣秀吉への奉公から、重綱は京都伏見に滞在することとなりますが、その間に見目麗しい青年に成長します。
主君・伊達政宗ともきわめて親密な関係であったそうです。
その容姿は諸大名の間でも語られ、関ヶ原で大活躍した小早川秀秋熱心にアプローチをかけてきたそうな。

時代は下り、戦国最後の合戦・大坂夏の陣では、病身の景綱に代わり出陣します。
このとき重綱は主君・政宗に対し、伊達軍の先鋒を志願します。
「お前以外、誰を先鋒にするのか」
政宗は重綱の手をとって引き寄せ、頬へ御喰付きなされたそうな。

こうして大阪に参陣した重綱は、玉砕覚悟で野戦に打って出た豊臣軍を相手に奮戦。
猛将と名高い後藤又兵衛基次と、武芸者とされる薄田兼相(すすきだかねすけ)を討ち取り、「鬼小十郎」と賞賛されました。
しかし大将でありながら自ら槍働きをしたために、白石に戻ると父の叱責を受けてしまったといいます。

父・景綱が死ぬと白石城主の座を受け継ぎました。
のちに4代将軍徳川家綱が将軍位に就くとその諱を避け、「重長」と改名しました。



「頬へ御喰い付き」・・・要するにほっぺにチュウしたのだそうな。
しかも喰い付くくらいだから、かなり情熱的なものだった?!
この話は、片倉家の記録にしっかり記述があるそうです。

♂♂の関係(衆道(しゅどう)は、当時としては当たり前のことだったようです。
♂♂を嗜まない有名人は豊臣秀吉くらいだといわれています。
また主君の相手に選ばれることはこの上なく名誉なことであり、また主君に示す最高の忠節であったそうです。



三階櫓を下りて、外に出ました。



三階櫓のそばにあった本丸井戸



さらには鐘堂【再建】。
本丸の枡形に突出している部分に建っていたそうです。
鐘は重長の子・景長のときに修理され、現在は福島県の桑折町に現存しているそうです。



三階櫓・本丸井戸・鐘堂

 

入口付近の三階櫓
こちらがスタンプの画角のようですね。





うーん そうとうすばらしいですぞ




本丸御殿跡地に立っている片倉小十郎景綱公頌徳(しょうとく)
「頌徳」が読めませんでしたが、初代小十郎の徳をたたえた石碑ということになります。


2代目小十郎・片倉重長は、なんと生まれる前に人生最大の危機を迎えます。
天正12年(1584年)当時、主君の政宗は18歳で家督を継いだばかり、まだ男子は生まれておりません。
「伊達家に嫡男が生まれるまでは、片倉家に慶事はまかりならぬ!」
恐ろしく主君第一主義の景綱は、
「もし生まれる子が男児ならば、殺すべし」
と妻に命じたのです。
この話を政宗が聞きつけ、慌てて景綱に手紙をよこします。

もうすぐ生まれる子を、殺そうとしていると聞いた。
もし本当なら、やめてほしいという私の気持ちに免じて、助けてやってくれまいか。
私自身、この先どうなるかもわからないのに、お前のことをとやかくいうのは如何なものかとは思うが、お前のことも子のことも私に任せてほしい。
もし私の願いを聞き入れず子を殺してしまったら、お前のことを深く恨むぞ。
だから、どうか助けてやってくれ。

しきりに子を殺すと聞いたので、急いでこの手紙を書いた。
お前にも考えはあるのだろう。
だが、人にとって子は大切なものだから、あえて口を出すことにした。
何度も言うが、どうか私を信じて任せてほしい。

   かた小                       政


政宗のこの手紙もあって景綱は考えを改め、重長は無事に生を受けることができたのでした。



政宗への忠義のあまり、ときにとんでもない言動に出る小十郎景綱さん。
晩年は糖尿病を患ってしまい59歳で亡くなるのですが、このときに景綱を追って家臣数名が殉死したといいます。

なお、政宗の手紙で「かた小」は片倉小十郎、「政」は政宗を表します。
木村拓哉を「キムタク」(政宗的には「きむ拓」?)というように、政宗は手紙で人名をよく省略することが多かったそうです。





雨がしとしとと降る中、白石城をあとにしました。





白石城リベンジ・前編~天守の中へ

2019-06-16 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 1 日 ( 土 )

午 後 2 時 5 3 分

宮 城 県 白 石 市

J R 白 石 駅 前



 

白石うーめんを食べながら雨が止むのを待って、外に出ました。



JR白石駅うーめん処なかじま前のロータリーから伸びる道。
白石温麺のお店や、仙台銘菓のお店などが建ち並ぶ道をまっすぐ進んでいきます。



突当りにある白石市民バスターミナルの敷地に入ってしまいます。



バスターミナルの敷地からは、小石交じりのコンクリートの道が続いています。
これが白石の城来道(シロクロード)です。
敷地を出た突当りを、案内看板に従って左折します。



路傍を水路が走る城来道。
水の流れは豊かで、白石の街をおおいに潤しています。
この豊かな水を利用した名産品が「白石三白」
白石葛白石和紙白石うーめんの3つの白い製品です。



城来道を折り返して、白石城址である益岡公園に到着しました。




午 後 3 時 0 0 分

白 石 城 址 ・ 益 岡 公 園


益岡公園入口の坂はなかなかのもの。
レンタサイクルを手押しして上ります。

 

二ノ丸大手二ノ門跡地。
二ノ門は明治時代に移築され、現在は市内にある当信寺というお寺の三門となっているようです。
そして「二ノ門」ということは、「一ノ門」がどこかにあったわけであり、後で調べたらそれは城来道沿いにあったようです。
このあたりの門は完全にスルーしてしまいました・・・さらなるリベンジが必要ですな。



進路左手側が本丸であり、それを取り囲むように石垣が造成されています。
現在は下部のみ石垣が残っていますが、これは明治政府による石垣の破却があったためであり、往時は上まで石垣が造成されていました。



入口側の石垣は、自然石をそのまま用いた野面積み
造成された年代は文禄年間(1592年~95年)と推定されています。
中に入っていくと、成型された石で隙間なく積まれている切込接ぎ
最初はブロック塀じゃないのかと勘違いしたほどの成型ぶりですが、江戸時代に地震で崩落した石垣を改修して造成されたものだそうです。



本丸大手二ノ門【再建・白石市指定文化財】が見えてきました。



土塀付近で石垣の色が変わっていますね。
上部の石垣は建物の再建時に造成されたものですが、下部は江戸時代から存続しているものです。
公園入口から続く石垣も、白石市により文化財指定されています。


大手門がチラッと見える石垣の向かいに、白石城歴史探訪ミュージアムがあるので、ここの前にレンタサイクルを駐車させていただきました。
ミュージアムでは白石城にまつわるドラマが上映されているほか、お土産物も販売されています。
100名城スタンプはこちらではありません。


そして・・・



白石城御三階櫓【再建・白石市指定文化財】に8年ぶりのお目見えです。
白石城の建造物は、文政6年(1823年)ごろの姿を忠実に、当時の工法で木造で再建されました。
学術的にも評価が高く、再建建物でありながら市の文化財に指定されています。



三階櫓の足元には、二ノ丸井戸屋形【再建】が建っています。



井戸の向かいに立っている、「白石城の歴史」。
歴代城主の内容は、かなりマニアックに記載されています。


藤原清衡の弟にあたる刈田(かった)経元が白石の地に居館を築いたことが、白石城のはじまりとされています。
刈田経元は後三年の役での功績を鎮守府将軍・源義家に認められ、白石の地の支配を与えられたといいます。
のちに刈田氏は姓を白石氏と改め、戦国時代には伊達稙宗の支配下に入っていきます。

天正19年(1591年)の奥州仕置により伊達政宗は白石の地を蒲生氏郷に譲り渡すことになります。
氏郷の家臣・蒲生郷成が白石に入り、現在にも続く白石城と城下町が築かれました。
慶長3年(1598年)氏郷が死んで蒲生氏が減転封されると、会津若松に上杉景勝が入り、甘糟(あまかす)景継(清長)が白石城主となり、白石城の修築をすすめました。

慶長5年(1600年)徳川家康によって上杉征伐が起こると甘糟景継らの部将は会津に寄せ集められ、徳川方の伊達政宗は城主不在の白石城を攻め取りました。
政宗は白石城に叔父の石川昭光、次いで腹心の片倉景綱を配しました。
江戸幕府による武家諸法度・一国一城令の発布後も、白石城はその例外として公認され、片倉氏が代々城主を務めました。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、白石城で白石列藩会議が開かれ、奥羽越列藩同盟の結成へとつながっていきました。
列藩同盟軍が推戴した輪王寺宮(北白川宮能久親王)も、白石城に滞城されていました。

戊辰戦争後は明治政府の管理下に置かれ、明治7年(1875年)に民間に払い下げられ解体されました。
そのときの売却代金は、主に片倉家中の北海道移住にあてられました。
片倉家中が北海道で開拓した地が、現在の札幌市白石区となっています。





井戸から振り返ると、本丸への順路が見えてきます。
手前側の本丸大手一ノ門【再建・白石市指定文化財】、その奥に本丸大手二ノ門【再建・白石市指定文化財】。
このように門扉は開け放たれ、本丸へと立ち入ることができます!



櫓門となっている二ノ門。
双方の門が並列しているように見える珍しい枡形構造ですが、一二の門の門扉を結ぶ線はしっかり曲線となり、侵入軍の勢いを減殺できるようになっています。
一二の門で囲まれる枡形が細長く、私が歩いたときはなかなか窮屈な空間という印象を受けました。


二ノ門をくぐって、本丸に入ったところで・・・強めの雨。
本丸の検分は後回しにして、急いで三階櫓に駆け込みました。

三階櫓の入場料は、大人400円。
三階櫓+武家屋敷+ミュージアムの上映 の3点共通券は大人800円で、200円お得となっていますが、私はミュージアムでドラマを見るつもりはなかったため、黙って400円を支払いました。


靴を脱いで、中へ。



やはり木のお城はイイですねぇ。



石落としや、



鉄砲狭間もしっかり備わっていますね。
そして続100名城スタンプも、三階櫓の1階に置いてあります。



105番、白石城!
絵柄はもちろん三階櫓ですね。どのアングルなのかは後編で。
それにしても・・・



・・・・・・奥の方から、何者かの視線を感じる・・・・・・。





白石うーめん・なかじま

2019-06-16 | グルメ


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 1 日 ( 土 )

午 後 2 時 2 2 分

宮 城 県 白 石 市

J R 白 石 駅





ついにリベンジの地・白石へ。



駅で出迎えるのは、「伊達の先陣・片倉小十郎」のノボリと、小十郎のものと思われる甲冑。
しかし・・・



駅の外は、なかなかの雨・・・。



駅構内にある観光案内所で、1日300円で借りられるレンタサイクル。
これをもって強行突破を図っても、エキソンパイ&ままどおるの紙袋が持ちこたえられそうにありません。


仕方ない、どこかで雨宿りでもしよう。



駅ロータリーに面しているうーめん処なかじま
なんとも都合のいいところにあるじゃないですか。
三春と郡山で天ぷらそばを食べてきたところではありますが、なんのためらいもなく入店。


ランチタイムは過ぎ、店内はまったり感が漂っているものの、観光客と思われる先客が2組ほどいました。



壁に貼られている「白石温麺の由来」
私は仙台に住んでいたこともあって存じ上げておりますが、白石温麺をご存知ない皆様のために・・・


約400年前、白石の城下町に大畑屋という商家があり、鈴木久右衛門・浅右衛門父子が住んでいました。
父の久右衛門は胃腸が弱く、床に伏して絶食をしなければならない日もあったそうです。
孝行者の浅右衛門はこのことを心配し、「胃にやさしく元気も出る食物はないものか」と八方手を尽くしていました。

ある日、たまたま白石を通りかかった旅の僧から、油を一切使わない麺の製法を教わりました。
浅右衛門はさっそく麺作りを始め、苦心の末に麺を作り上げ、父に食べさせました。
食べやすい麺に父の食欲は増し、胃腸の病も治っていったそうです。

浅右衛門が作った麺は白石城下でも評判となり、城主であった片倉小十郎にも献上されました。
麺の味もさることながら、麺ができたいきさつに感銘を受けた小十郎は、

「人を思いやる温かい心を持つ麺」

という意味を込めて、「温麺」と名付けました。
またこの功績により、浅右衛門は味右衛門(みえもん)と名乗ることを許されたそうです。



ちなみに片倉小十郎というと、



片倉景綱が有名ですが、大功を成した景綱にあやかって代々「小十郎」を名乗ったので、どの「小十郎」が温麺の名付け親なのかは、イマイチわかりませんでした。
約400年前の話だというのなら、初代小十郎の景綱か、2代目小十郎の重長が名付け親なのでしょうか。

ところで、「温麺」を「うーめん」と読むのはなぜなのでしょうか?


片倉小十郎は、献上された麺を「これはうまい、うまい」と賞味したそうです。
そして「温麺(オンメン)」と名付けたそうですが・・・

意気揚々と帰宅した鈴木味右衛門は、あまりの嬉しさに「温麺(オンメン)」の名を忘れてしまったそうです。
「温麺」の名を思い出そうとする味右衛門。
そんな時に思い起こされたのは、小十郎の「うまい、うまい」と褒めながら麺を味わう姿。

「うまい」・・・「うまい麺」・・・・・・「うーめん」!!

こうして「温麺」は「うーめん」と読むようになったそうです。



さてさてメニューを見てみると・・・
もりうーめん(税込648円)
冷やとろうーめん(税込810円)
などの冷たいうーめんがありましたが、当時雨に濡れていた私は温かい温麺が食べたかったので、これらはオーダーせず、
海老天うーめん(税込1,026円)
かき揚げうーめん(税込756円)
などの温かい温麺の中から、
とろろうーめん(税込756円)
をオーダーしました。
天ぷらそばを三春や郡山で食べたということもあったのですが、なにより温麺の特長である油を一切使わないというところを味わうために、油のなさそうなものを選んだのです。


オーダーして約5分後・・・



白石うーめん! やさしいお味ですねぇ~
麺の味もさることながら、おつゆもうすめの優しいお味。
おつゆを見ると、油膜はひとつも浮いていません。
天ぷらそば2杯の影響などどこ吹く風、すぅぅ~っとわが胃袋に収まりました。たくあん以外は。



雨が弱まる時を見計らって、私は白石城へと進んでいきました。





大混雑!東北本線

2019-06-16 | 鉄道の旅


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 1 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 4 0 分

福 島 県 田 村 郡 三 春 町

J R 三 春 駅



三春城から戻りました。



駅に戻ってはじめて、伊達政宗の正室・(めご)の実家だったんだよアピールが見られました。


時刻は、午前11時40分。
この日は朝食を食べていないので、良い具合に空腹になってきました。



次の目的地は宮城県の白石なので、今度の電車は11時58分発 磐越東線 普通列車 郡山行きとなります。
発車時刻まで20分弱ですが、ここでなんとか食事をしておきたいところ。



天ぷらそば、うまい!

駅のファストフード、駅そば。
三春駅構内のばんとうプラザにあるそば屋さん。
ここで天ぷらそば(350円)と、炙り三角揚げ(200円)の食券を購入。
食券を出して数分たたないうちに、天ぷらそばは出てきたのですが・・・炙り三角揚げがなかなか出てきません。
やはり「炙り」は時間がかかるのでしょうか?
刻々と迫る発車時刻にやきもきしながらも・・・



炙り三角揚げ! うまい!!
厚みのある三角形の油揚げに、甘めの味噌がとても合います。
ゆっくり味わいたかったのですが、発車時刻の関係で急がなければならなかったのが残念ですね。


三春を発つ前に「城攻め」を行い・・・
三春駅からはだいぶ距離がある瀬戸川館(本宮市)を攻略できました。



列車は定刻どおりに発車し、



定刻どおり、2駅先の郡山駅に到着しました。




午 後 1 2 時 1 1 分

J R 郡 山 駅




約2年ぶりの郡山駅
とはいえ当時はただ通過しただけで、今回もほぼ通過するだけ。
ただ滞在時間は30分弱ほどあるので、



昼飯!
三春駅? あれは遅すぎた朝食ですよ。



天ぷらそば、うまい。
・・・ただ、三春駅で食べたそばのほうがうまかったかな。

さらに時間があったので、郡山が誇る菓匠「三万石」のショップへ。



「ミルクたっぷり ママの味」で有名なままどおる(5個入り540円)。
知名度ではままどおるに一歩及ばないものの、その味はままどおるを上回るというエキソンパイ(8個入り1,350円)を購入しました。



おみやげを買った時に、おまけでもらったままどおる。



「笑顔いっぱい ママの味」ですね!


さてさて、郡山駅からは・・・



12時42分発 東北本線 普通電車 福島行きに乗ることになります。
しかし駅構内アナウンスより、「須賀川方面からの電車が遅れている」ので、その接続を待つとのこと。

発車予定時刻から約5分後、須賀川からの下り電車が到着。
乗換客が大挙して乗り込み、2両編成の電車はなかなかの混みっぷり。
土曜日の昼間にしても、この混雑は・・・何かイベントでもあるのだろうか?
そう思いながらも、電車は8分遅れで郡山駅を発ちました。



混雑する車内、着席したのは通勤タイプのロングシート。
車窓からの景色も楽しめず、こうなりゃ「城攻め」あるのみ。



日本100名城・第11番、二本松城攻略!
二本松城の最寄駅・二本松駅では、ほかに田地ヶ岡館(二本松市)も攻略できました。



「伊達三傑」、武の伊達藤五郎成実&智の片倉小十郎景綱
まさか二本松で小十郎さんに出会えてしまうとは・・・彼はてっきり白石にいるんじゃないかと思っていました。
ですが伊達成実も片倉景綱も、政宗の奥州攻略の段階で二本松城の城代を務めていました。
そのため、二本松で伊達三傑のうちの二人が一挙に登用できたのですね。
こうなりゃあと一人、政の鬼庭綱元も見つけたいですね。

二本松義国さんは、その苗字が表すように元の二本松城主で、畠山氏の流れをくみます。
畠山氏は室町幕府の管領を務めた家柄で、各国に所領をもっていましたが、二本松畠山氏の所領は小さく、周辺大名の顔色を窺いながらの苦しい立場だったようです。
安田能元(よしもと)さんは上杉景勝の家臣で、景勝が会津120万石の所領を有していたころに二本松城の城代を務めていました。


13時21分、松川駅八丁目城(福島市)を攻略、遠藤基信を登用。
遠藤基信は、政宗の父・輝宗に重用され、景綱を政宗の傅役(もりやく)(教育係)に推薦した人物です。

13時32分、南福島駅大森城名倉城(いずれも福島市)を攻略、伊達実元、平林正恒を登用。
伊達実元は輝宗の叔父(政宗からだと大叔父)で、成実の父にあたります。
平林正恒はもと武田家臣で、武田滅亡の際に同盟を組んでいた上杉景勝の下に逃れ、その家臣となりました。


混雑している2両編成のワンマン電車。
電車は遅れを取り戻すどころか、遅れが広がっていきます。
終点の福島駅には、本来ならば13時27分に到着するはずでしたが、14分遅れの13時41分に到着しました。




午 後 1 時 4 1 分

J R 福 島 駅


福島駅からさらに北へ。



今度の電車は、13時45分発 東北本線 普通電車 仙台行きです。
乗換時間が4分弱ということで、駅名標の撮影も車両の撮影もナシ。
先ほどの2両編成からは倍増して4両編成ということで、混雑からは解放されるかな~と思っていたのですが、とんでもない。

乗車率、推定150%。

座席、つり革はすべて埋まり、立乗客の肩が触れ合うくらいの混みっぷりです。
なんでこんなに混みあっているのでしょうか???
隣りに居合わせた♂どもから伝え聞いたところによると、

「乃木坂46」

・・・とかいうのが宮城スタジアムでライブコンサートを行うのだとか。
やれやれ、あんなところまで行くなんて、お疲れさんだすなぁ~。
(※宮城スタジアムは、仙台ではなくて近隣の利府町にあって、最寄駅のJR利府駅から1時間ほど歩かされるという、アクセスが最悪なことで有名)
そんな同情なんかより、てめえら仙台まで新幹線で行けよ!と内心思っていましたが。


肩と肩が触れ合う車内で、福島駅発車前に「城攻め」を行い、



福島城(福島市)を攻略し、伊達晴宗、本庄繁長を登用しました。
伊達晴宗は政宗の祖父で、父の稙宗と対立して東北地方一帯を巻き込む天文の大乱を招きますがこれに勝利します。
晴宗が隠居して居住したのが福島城の前身である杉目城でした。
本庄繁長は上杉家臣で福島城主を務め、政宗の軍勢を松川の戦いで破った名将といわれています。


電車は4分遅れの13時49分に発車。



・・・・・・誰も降りねえなぁ。


13時59分、伊達駅大鳥城(福島市)を攻略、



岩井信能、伊達輝宗、中野宗時、牧野久仲を登用。
伊達輝宗は政宗の父で、天文の大乱後の伊達家を立て直していきましたが、降伏した二本松義継に拉致されてしまい、意を決した政宗に義継ごと射殺されてしまいます。
中野宗時・牧野久仲父子は伊達晴宗に仕えた権臣でしたが、輝宗の代に反乱を企てたために追放されてしまいます。
岩井信能は上杉家臣で、本庄繁長とともに松川の戦いで伊達政宗の大軍を破っています。

14時02分、桑折駅桑折こおり西山城(伊達郡桑折町)を攻略、



伊達稙宗を登用しました。
政宗の曽祖父にあたり、婚姻政策を駆使して勢力を広げ、また戦国時代最大の規模の分国法である塵芥集を制定したことでも有名です。
塵芥集は試験でよ~く出ます。伊達稙宗はほとんど試験では出題されませんが・・・。

それにしても政宗の曽祖父、祖父、父と登用できました。
果たして政宗本人にめぐり合うことはできるのでしょうか?!

14時03分、桑折駅発車後石母田城(伊達郡国見町)を攻略。
14時06分、藤田駅阿津賀志山防塁(伊達郡国見町)を攻略。



藤田駅、そして貝田駅を通過して、電車は宮城県へ。

県境を過ぎて最初の駅・越河(こすごう)の次・・・



ついに白石駅に到着しました。
しかし電車を下りた人数は、私を含めてごくわずか。
混雑したままの電車は、このまま北の街・仙台を目指して走り出したのでした。



【今回の乗車記録】

JR東日本 三春駅 2番線 11時58分発
磐越東線 普通 郡山行き 2両ワンマン
郡山駅 6番線 12時11分着

郡山駅 4番線 12時50分発(遅れ8分)
東北本線 普通 福島行き 2両ワンマン
福島駅 3番線 13時41分着(遅れ14分)

福島駅 4番線 13時49分発(遅れ4分)
東北本線 普通 仙台行き 4両
白石駅 1番線 14時22分着(遅れ3分)

*所要時間 2時間24分 (移動時間 1時間37分 待機時間 47分)
*移動距離 92.0km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、IC運賃 1,663円)