佐野駅を出ました。
朝早く開いている飲食店を探します。
駅前を見てみると、7があるだけでファミレス、ハンバーガー、牛丼の店は見当たりません。
7の隣りにレンタサイクルしのはらがありました。
朝早いからまだ営業を・・・おや、開いている?
本日の我が愛馬です。
ほの暗い室内から突然現れた翁にやや驚いたものの、営業は午前7時からということで無事に借りることができました。
レンタル料金は1時間110円、以後1時間ごとに70円ずつ加算されていきます。
3時間で250円、5時間でも400円弱ですから、お安いといえますね。
さあ、まずは朝飯を食べられるところを探しましょう!
あ、向かいにあった・・・。
けど、開いているのか?
あ、扉はカギがかかっていない、中にはすでに先客がいます。
佐野駅に一番近い飲食店、「松葉食堂」。
「本日、親子丼550円」という札が懸っているので、おすすめは親子丼なのかもしれませんが・・・
佐野ラーメン1杯目、うまい!
朝飯としてはちょうど良いラーメンを食し、550円を支払いました。
「こんなのでいいんだよ~」というような素朴だけどうまいラーメンで、幸先の良い旅のスタートです。
再び佐野駅前。
丁字路を右に進みます。
そのまま道なりに進むと細い道になりますが、そのまま進み・・・
センターラインが黄色の、幹線道路っぽい道が現れたら、左折。
JR両毛線の踏切を越え、その先の東武佐野線の高架をくぐり、
その先の丁字路を栃木市方面へ右折、栃木県道141号線に入ります。
唐沢山まで6km・・・ですが、最初の目的地はそちらではありません。
「真田丸農場直売所」・・・こんなところにも大河ドラマの影響が。
「犬伏町」。
最初の目的地が近づいてまいりました。
前方に見える低い山、その足元。
真田六文銭が翻る小さなお堂、新町薬師堂に到着しました。
【佐野駅前→新町薬師堂の行程】
佐野駅前(松葉食堂) 7時30分発
栃木県道141号唐沢山公園線・同75号栃木佐野線経由
新町薬師堂 7時47分着
*所要時間 17分
*移動距離 3.3km
太閤・豊臣秀吉が薨去し、徳川家康が次の天下人に名乗りを上げようとしている時節。
家康は会津の上杉景勝に
家臣の直江兼続から「直江状」を送られ・・・たかどうかはわかりませんが、家康は「上杉の謀反、疑いなし!」として、上杉討伐軍を起こしました。
上杉討伐軍には主に東国の諸大名が参加し、信州上田の領主・真田昌幸とその次男・信繁(幸村)、上州沼田の真田信幸も参戦すべく、軍勢を動かしておりました。
昌幸の軍と長男の信幸の軍は、下野国犬伏の地で合流しました。
その晩、はるか西の上方から重大な書状が届けられたのです。
「内府違いの条々」、内大臣・徳川家康に対する弾劾状。
豊臣五大老の毛利輝元と宇喜多秀家、そして豊臣五奉行の前田玄以、増田長盛、長束正家の5名が連署しています。
(石田三成はこのとき佐和山城に謹慎していたため、表向きは記名していません)
これに応じた西国の大名は軍勢を大坂に集結させ、石田三成とその親友といわれる大谷吉継も加わります。
これを受けて、真田親子は今後の去就を決めるべく、犬伏の地にあった薬師堂で話し合いをしたといいます。
父・昌幸は、その正室・山手殿が三成の正室の姉という説があります。さらに上田合戦以来、家康は仇敵。
兄・信幸は、その正室・小松姫が家康の重臣・本多忠勝の娘で、家康の養女でもあります。
弟・信繁は、その正室・竹林院が大谷吉継の娘です。
父と弟は西軍に、兄は東軍につくことを主張しましたが、両者は折り合いません。
そこで双方が敵味方に分かれ、東西どちらが勝っても真田の家は生き残るという策をとりました。
この犬伏の談合が、昌幸・信繁と信幸との今生の別れとなりました。
世に云う、「犬伏の別れ」です。
犬伏の別れから400年。
当時のままではありませんが、今もなおお薬師さまが祀られているようです。
お堂の中には、コスプレ用と思われる3領の甲冑が置いてありました。
信幸(信之)の甲冑の背後には、93歳もの天寿を全うした真田信之その人の辞世が掲げられていました。
何事も 移ればかわる 世の中を 夢なりけりと 思はざりけり
(どのような事も時が過ぎれば変わってしまうものであるが、それでも昔あった出来事を夢であったと思うことはできない)
(どのような事も時が過ぎれば変わってしまうものであるが、それでも昔あった出来事を夢であったと思うことはできない)
薬師堂で互いの去就を決断した親子は、近くの川にかかっていた橋で今生の別れをしました。
現在は川はなく、当然橋もかかっていないのですが、その橋は道路を挟んだ向かいの寿司屋付近にあったそうです。
別れ橋伝承地。
当時の川は、現在では暗渠になっているようですね。
薬師堂から佐野駅方面へ引き返します。
進んでいる道は日光例幣使街道。
江戸時代に天皇の代理として、日光東照宮へ幣帛(お供え物)を運ぶ使者が例幣使でした。
例幣使は中山道から東国に下り、高崎の倉賀野宿から脇街道を進みましたが、その脇街道が日光例幣使街道です。
上杉討伐に向かう真田の軍勢も、この道を通ったことでしょう。
1km弱進んだところで、大庵寺に着きました。
【新町薬師堂→大庵寺の行程】
新町薬師堂 7時57分発
栃木県道75号栃木佐野線・同141号唐沢山公園線経由
大庵寺 8時01分着
*所要時間 4分
*移動距離 0.9km
寺の境内へ。
朝早い境内には、まだ誰もいません。
本堂でしょうか。
ずいぶん現代的ではありますが・・・
「犬伏の別れ」の話し合いが行われたのは、薬師堂ではなくこのお寺だったという説もあるのです。
真田親子も名のある大名でありますし、親子とはいえ昌幸と信幸は別々の所領が与えられていたので、大名同士の会談としてはふさわしい場所かもしれません。
しかしながら小さな薬師堂で談合したというほうが、よりドラマチックではありますね。
唐沢山城【国指定史跡】に行く前に、少しばかり寄り道をいたしました。