鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

出石城~断念

2020-05-06 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 後 二 時 十 五 分

兵 庫 県 豊 岡 市 出 石

い ず し 観 光 セ ン タ ー



城下町出石に降りしきる、遊びのない雨。
その城下町で、私は皿そばをたらふく食べてしまいました。
城に登るにはマイナスの要因ばかりではありますが、これより出石城【豊岡市指定史跡】へ向かいます。



その前に、出石観光の拠点・いずし観光センターに立ち寄ります。



観光センターのインフォメーション窓口に、続100名城スタンプが置いてあります。



162番、出石城・有子山城!
162番だけは2城でひとつとなっています。
前方の石垣と櫓が出石城、後方の山にポツンとある石垣は有子山城【国指定史跡】です。
なぜここだけセットになっているのかというと・・・


応永5年(1372年)ごろ、出石の北にある此隅山(このすみやま)に、但馬国の守護であった山名時義により此隅山城が築城されました。
応仁元年(1467年)の応仁の乱では、時義の孫・持豊(宗全)は此隅山城から出陣しています。



なぜここで此隅山城【国指定史跡】が出てくるのかというと・・・
此隅山城と有子山城がセットで「山名氏城跡」として史跡指定されているのです。
この2城は歴史的にも密接な関係があります。


此隅山城は、室町時代後期から戦国時代まで山名氏が保持していました。
しかし祐豊(すけとよ)の代、永禄12年(1569年)織田信長の家臣・木下秀吉(豊臣秀吉)により落城してしまいます。
天正2年(1574年)祐豊は此隅山より急峻な有子山に城を築き、此隅山城は廃城となりました。
天正8年(1580年)祐豊は再び羽柴秀吉に攻められ、有子山城は落城してしまいます。
秀吉の弟の秀長が城主となり、石垣の城郭に改修されます。
天正13年(1585年)前野長康が城主となりますが、のちに豊臣秀次事件に連座して切腹。
文禄4年(1595年)小出吉政が城主となり、以降江戸時代中期まで小出氏が出石を治めることとなります。

小出吉政の弟・吉英(よしふさ)は有子山城の山上の郭を廃し、山ろくの郭と居館のみを出石城と名付けて幕府に届け出ました。
これにより有子山城は廃城となりますが、現在にも残る出石の城下町が整備されていきます。
元禄9年(1696年)跡継ぎがないため小出氏が断絶となると、松平忠周(ただちか)が出石に入封しました。
宝永3年(1706年)松平忠周が移封となり、代わって信州上田より仙石政明が出石に入封しました。
政明は上田よりそば職人を連れてきたため、出石にそば食の文化がもたらされたといいます。
19世紀になると白い磁器である出石焼の生産が始まります。




出石の名物である皿そばのルーツは、仙石氏時代までさかのぼるんですね。



皿そば、うまかったなぁ。


その後天保6年(1835年)「日本三大お家騒動」のひとつとされる仙石騒動が起きてしまいます。
この騒動で、石高を5万8000石から3万石に減封されてしまいますが、出石藩の取り潰しは免れ、そのまま明治維新を迎えます。
明治元年(1868年)に出石城は廃城となりました。



観光センターで出石城のスタンプとパンフレットをゲットし、いざ城へ。



出石の城下町に降りしきる雨は、その勢いが衰えません。
手持ちの折り畳み傘では防ぎきれないほどで、せっかくもらったパンフレットを見ることができません。
予備知識を頭に入れることのできないまま、登城することになってしまいました。



大手前通りをそのまま進み、



出石城三の丸へ。
悪天候のため、有子山の頂は雲がかかって見えません。



登城橋登城門【模擬】。
流れる川は谷山川です。

江戸時代には、ここに(うずみ)がありました。
そして谷山川は別のところを流れていたので、橋は架かっていませんでした。

 

門の左右を固める石垣は、当時のものが残っています。




登城門を経て、二の丸下の曲輪に入りました。

 

西の隅櫓に向かって歩いていくと、続100名城スタンプの画角が見えてきます。
私が撮影したこの画は・・・有子山が全く見えていません。


二の丸をあっさり通過して、本丸へ。



本丸のさらに上にある稲荷曲輪を固める高石垣です。
高さは13.5メートルで、但馬地方では最大の規模を誇るのだそうです。
苔むして、石の間から草木が茂っていて、悠久の時の流れを感じる・・・なんとも味わい深い石垣です。



本丸に鎮座している、何らかのお社。
登城当時はそんな風に捉えていましたが、こちらは感応殿という建物。
出石藩主仙石家の祖である仙石権兵衛秀久の木像が安置されているそうです。


本丸のさらに上・・・



鳥居が林立する石段の参道を歩きます。
雨降りしきる木立の中に、ひときわ映える朱塗りの鳥居。
この先に、出石城の最上段の曲輪である稲荷曲輪があります。





参道の脇に目を向けると、稲荷曲輪を固める石垣が続きます。
こちらの石垣は苔むしていて、一段と味わい深いですねぇ。



稲荷曲輪に鎮座する有子山稲荷神社の拝殿。
「有子山」ということで、



稲荷神社の参道を上ったところで拝殿の反対側に進むと、有子山の登山口が見えてきます。
この登山口こそが、有子山城【国指定史跡】の入口です。



有子山城に到着!・・・ってことでいいですね。





有子山城から戻り、稲荷神社の参道を下りました。
本丸の角に建っている東の隅櫓【模擬】は、当時の豊岡町の町民の寄付で建てられた模擬建築なのだそうです。




二の丸に下りました。



二の丸から見た西の隅櫓
なかなか画にはなっていますが、模擬建築です。



下の曲輪
野面積みの石垣が見事です。



登城門から退城します。



そうそう、出石を後にする前に「城攻め」しなければ・・・!



続日本100名城・第162番、出石城攻略!



続日本100名城・同じく第162番、有子山城じゃなくて山名氏城館?!
いやいや、「山名氏城館」は此隅山城と有子山城を合わせた呼び方ですね。



有子山城主・山名祐豊と、その弟・豊定
秀吉の古参の部下で、同じく有子山城の城主となった前野長康を発見し、登用しました。





最後にもう一度振り返ってみましたが、有子山は相変わらず雨雲の中にありました。





激闘!出石皿そば

2020-05-06 | どうでしょうロケ地


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 後 一 時 廿 二 分

兵 庫 県 豊 岡 市

全 但 バ ス 出 石 営 業 所



「但馬の小京都」出石(いずし)にやってきました。



全但バス出石営業所から、出石の城下町を歩きます。
出石営業所は城下町のややはずれにあるので、



谷山川という小さな川を渡って、城下町に入ります。
そのまままっすぐ歩いていき、



信号のない細い道の丁字路。
斜向かいにある成田酒店さんが目印のところを入っていきます。



本町通りという小路へ。

 

最初の十字路・田結庄(たいのしょう)を過ぎると、



雰囲気ある街並みとともに、道沿いに現れ始めるそば屋



三つ目の十字路・大手前通りとの角にあるのが、



今回おじゃまする「正覚田中屋」さんです。



【今回の移動行程】



全但バス出石営業所 13時22分発
兵庫県道2号宮津養父線・出石城下町本町通り経由
正覚田中屋 13時30分着

*移動距離 550メートル
*移動時間 8分




午 後 一 時 三 十 分

田 中 屋 さ ん に 入 店


何十軒あるそば屋さんの中から選んだお店・「正覚田中屋」さん。
ランチタイムは過ぎていたにもかかわらず、おそばで舌鼓を打つお客さんが数組いらっしゃいました。

さて、どの席でいただこうか・・・・・・お目当ての席が見当たりません。
店内でまごついている不審な客=私に、店員さんが声をかけます。

「いかがなさいましたか?」
「『水曜どうでしょう』のスタッフが座った席は・・・」
「ああ、あちらですね」



入口近くのテーブル席の間から小さな障子戸を隔てた、小ぢんまりした座敷席。
この席こそ、どうでしょう班が皿そばを食べた席なのです。
私は、上座のミスター・鈴井貴之氏の着座した場所に腰を下ろしました。



先付のほうじ茶と素揚げそばが供され、ここでオーダーをします。
オーダーはもちろん皿そばなのですが、問題は何皿いただくか。

出石では、男性は20皿、女性は15皿の皿そばを食べると「そば通」の称号を得られ、記念品がもらえるそうです。
そこで目標は20皿!なのですが、皿そばは5皿で1人前とされています。
4人前のそばを食べきることができるでしょうか・・・?

そこでお店の方と相談して、とりあえず15皿オーダー。
その後様子を見て、残りの5皿をオーダーすることとしました。
お食事代は、最初の5皿が900円、以降1枚追加するごとに150円となっています。


おそばがやってくるまで・・・

 

「どうでしょう」の画角を探してみました。
そうこうしているうちに、おだしと薬味がきました。
薬味はおねぎ、わさび、とろろと温玉です。
おだしの徳利とお猪口は、白さ際立つ出石焼のものでしょうか。


オーダーから約10分後、最初の5皿がやってきました。



出石皿そば、うまい!!
まずはおだしをつけずにいただくと・・・そばの風味がとても色濃く感じられ、とてもおいしいです。
おだしの味は、甘みがない江戸そばのおつゆの味に似ています。
ですが、江戸のつゆほど塩辛さは強くはありません。



どうでしょう班、というより大泉さんはなかなか辛辣なことを言っていますが、おそらくおだしの味の好みが合わなかったのかもしれませんね。
甘みのあるおつゆに慣れている方は、じゃっかん違和感を感じるかもしれません。
私は甘いつゆも塩辛いつゆも好きなので、問題なくいただいています。

八鹿駅でパンを食べたとはいえ、まだまだ空腹に近い状況。
難なく5皿を平らげました。



最初の5皿から7分後、第2弾の10皿がやってきました。
そばが10枚も並ぶと、なかなかの画になりますねぇ~。



11皿目からは、とろろを投入。
時としてそばにわさびを一つまみ添えて、飽きが来ないように味わっていきます。
2人前を平らげてきましたが、私の胃袋はまだまだ余裕のようです。



15皿平らげたところで、そば湯がやってきました。
ここでさらに5皿を追加発注します。
やはり目標は「そば通」の称号、20皿です。



追加の5皿が登場。
ここでおだしに温玉を投入、最後の闘いへ。


16皿、17皿、ここにきて胃袋が悲鳴を上げ始めました。
18皿、19皿をなんとか食べて・・・

 

最後の1皿まできました。
ここで店員さんが登場。
なんとオーダーしていないはずのそば団子を出してくださいました!
なんでもどうでしょう藩士限定のサービスらしいです。


午後2時05分、23分間の皿そばの闘いを制し、完食。



「そば通」の称号を獲得し、「そば通」の証である通行手形が授与されました。
そして芳名帳にわが氏名を記入し、永く「そば通」として讃えられることとなったのでした。



サービスのそば団子も含め、すべて完食。
お食事代3,150円を支払って、「正覚田中屋」さんを後にしました。




午 後 一 時 廿 二 分

兵 庫 県 豊 岡 市




「正覚田中屋」さんの入口が面する大手前通り
その先に見えるのは、出石のシンボル・辰鼓楼【豊岡市指定文化財】です。



「嫌味なくらい『そば』だよ」
「これはそばアレルギーの人とか来れないよ、これ」

大泉さんのコメントにもあるように、本当にそば屋さんの多い城下町です。
どうでしょう班は、この大手前通りを辰鼓楼側から田中屋さんの方へやってきましたが、私はその逆を進み・・・

 

辰鼓楼がよく見える出石城大手門跡へ。
どうでしょう班もここで撮影を行ったようですね。
辰鼓楼は、札幌の時計台と並んで日本最古の時計台とされています。
時計台が完成したのは双方ともに明治14年(1881年)で、どちらがより古いものなのかはわからないそうですが、札幌時計台が官営(国が主導となって造られた)なのに対し、辰鼓楼は民間の資本で造られました。

もう少し先へ。



出石観光の拠点・いずし観光センター
ここから辰鼓膜を見ると・・・

 

「山あいの城下町 出石」
どうでしょう班が出石に入ってきたシーンと同じ画角を見ることができます。
辰鼓膜も、左の出石内町郵便局も、30km/h制限&駐車禁止の交通標識もいまだ健在です。



出石のどうでしょうロケ地めぐりも、ここまで。
このあとは、雨の出石城【豊岡市指定史跡】を登城します。





福知山から出石へ

2020-05-06 | 鉄道の旅


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 十 一 時 六 分

京 都 府 福 知 山 市

J R 福 知 山 駅





福知山城の登場を終え、少しばかり雨に降られながらもJR福知山駅に戻ってきました。



再び山陰本線で、西へ。
11時12分発 普通電車 豊岡行きに乗車します。


お次の目的地は、出石(いずし)【豊岡市指定史跡】有子山(ありこやま)【国指定史跡】です。
(有子山城は、大雨のため登城を断念しました)
但馬(たじま)の小京都」とも称される出石へは、いったん豊岡駅まで行ってから、バスに乗り換えます。

予定では、豊岡駅に12時32分に到着し、バスの発車時刻が12時50分、出石へは13時20分到着予定となります。



しかしこの日、兵庫県北部を豪雨が襲来していたのです。
画像の時刻は11時35分になっていますが、筋状の雨雲がのべつ幕なしに、これから向かう豊岡市付近にかかっています。



天候に不安を抱きながらも、定刻どおりに福知山駅を発ちました。





福知山の市街を抜け、山あいの集落へ。
牧川という川をわき目に見つつ、電車は兵庫県をめざします。


11時30分ごろ、福知山駅から2つ目の下夜久野駅へ。
上りの特急列車の通過待ちをするため数分停車するとのことですが、ここで車掌氏より・・・

「特急列車は、現在約25分遅れで運行しています」

なんと・・・特急の通過待ちをするとなると、豊岡駅に到着するのは30分ほど遅れるかもしれません。
そうなると、出石行きのバスの発車時刻に間に合わなくなってしまいます。

しかしその後すぐに・・・

「特急列車の通過待ちをせずに、このまま発車いたします」

おそらくはJR西日本指令部の決断に助けられ、それほどの遅れもなく発車することになりました。
しかし兵庫県北部地方の大雨の事実に変わりはなく、私が乗っている電車もいつ運転を見合わせるかわかりません。





山あいの地を通り抜けて、電車はいつしか兵庫県に入っていました。







本日3回目、通算4回目の和田山駅へ。
今回は途中下車することなく、和田山駅を通過させていただきます。




和田山駅から先の山陰本線は、未踏の領域となります。
ここからは、城攻めアプリ「ニッポン城攻め旅」を起動しながら進みます。
車窓からでもすぐにわかる、強めの雨・・・。



養父(やぶ)八鹿(ようか)までのほぼ中間、大屋川円山川の合流付近で、朝倉城【養父市指定史跡】を攻略できました。
朝倉城は鎌倉時代のお城なのですが、この地より越前国(福井県)に移って戦国大名となった朝倉氏の発祥の地だそうです。



電車は12時19分、



定刻に後れること5分、八鹿駅に到着しました。



【今回の鉄道乗車記録】

JR西日本 福知山駅 3番線 11時12分発
[E]山陰本線 普通 豊岡行き 2両ワンマン
八鹿駅 1番線 12時19分着(遅れ5分)

*所要時間 1時間07分
*移動距離 42.7km
*運賃   秋の乗り放題パス使用(使用しない場合、770円)




午 後 十 二 時 廿 三 分

兵 庫 県 養 父 市

J R 八 鹿 駅




八鹿駅で下車しました。
どことなくレトロな雰囲気を醸し出している駅舎ですね。



駅の案内表示にも、大きく「山陰本線 大雨 列車の遅れ」とあります。
そのため豊岡駅まで行くのを早々にあきらめ、この八鹿駅から出石に向かうルートを採用しました。



駅前のロータリーには、全但バス八鹿営業所が面しています。
ここから出石行きのバスが出ていることは、事前にチェック済みでした。



待合所にもなっている八鹿営業所でバスを待ちます。
今度の出石行き(出石福祉ゾーン行き)は12時52分発と、待ち時間はそこそこあります。



この日のランチは、出石でガッツリ食べる予定・・・ではありますが、

 

朝食がニチレイさんだけだったので、繋ぎの軽い食事でもしておきたいところ。
GoogleMapで調べてみましたが、20分程度で往復&食事までできそうなお店はなさそうです。
駅の裏にミニストップがありましたが、駅から直接に行ける道はなく、思った以上の距離があるようです。

とはいえ空腹には勝てず、とりあえず駅近くを歩いてみることに。



近くを流れている小さな川。
水流の激しさからも、降水量の多さがわかります。
それよりも不思議に思ったのが、画像奥に架かっている橋の上には・・・家が建っているのでしょうか?
この橋&家(スーパーハウス?)、GoogleMapには記載されていません。
まったく謎の橋です・・・・・・河川法上の占用許可を得ているのでしょうか?



橋を渡った先にある、田中酒店さん。
酒店か・・・でも酒の肴になりそうな食料品くらいはあるだろう・・・。



この日のランチ(仮)。
田中酒店さんから購入したパン2個と、八鹿駅の自販機にあったアイスモナカを食べて、バスの到着を待つことにしました。




午 後 十 二 時 五 十 五 分

出 石 行 き バ ス に 乗 車




出石行きのバスがやってきました。
定刻より3分ほど遅れてはいますが、この悪天候を考えればまったくの許容範囲と言えます。
方向表示は「出石(いずし)」ではなくて「出(いずし)石」なんですね。


兎にも角にも、出石行きバスは発車。



円山川を渡ります。
相変わらずの強い雨です。



円山川の支流・出石川を渡れば、「但馬の小京都」と称される街並みももう少し。



13時21分、



全但バス出石営業所に到着しました。
豊岡駅経由の到着予定時刻とほぼ変わらない時刻で、この出石に到着することができました。
運賃も570円で、豊岡駅からのバスより20円安く済みました。



出石に着いたところで、まずは真の昼食をガッツリ味わうこととします。



【今回のバス乗車記録】

全但バス 八鹿営業所 12時52分発
出石八鹿線 出石行き
出石営業所 13時21分着

*所要時間 29分
*運賃   570円



【今回の「城攻め」成果】

[E]山陰本線
12時16分 養父駅(和田山から1駅)・八鹿駅間  朝倉城を攻略。





福知山城登城・後編~バチ当たりな石垣?

2020-05-06 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 十 時 廿 七 分

京 都 府 福 知 山 市

福 知 山 城 本 丸





資料館となっている福知山城の大天守【外観復元】を出ました。



天守出入口の目の前に建っている釣鐘門
その向こうに腰を掛けてたたずんでいる壮年紳士。
なんだか画になりますねぇ~。



釣鐘門前は記念撮影のスポットとなっているようです。
日付を表示する看板に描かれているゆるキャラは・・・



レンタサイクルのカゴについていたものと同じようですね。
洗練された知識人という光秀のイメージからはだいぶ離れている光秀くんと、その妻のひろこ(熙子)さん
作画は「忍たま乱太郎」の原作者でもある尼子騒兵衛氏です。
「このゆるキャラ、Eテレあたりで見たような気がするなぁ」と感じたのは、あながち誤りではなかったようです。

ちなみに尼子騒兵衛さん、じつは女性です。






釣鐘門から外へ。



ここでやっぱり気になるのが、「転用石」
矢印が指し示す方向をしらみつぶしに探します。



見事な扇の勾配
しかしながら、転用石は見つかりません。



本丸の裏手の石垣。
味のある野面積みの石垣ですが、どの石も自然石をそのまま使用しているようです。



天守台の足下まで来ました。
よく見ると、自然石とは到底思えないような方形の石が混じっています。

 

これらはまぎれもなく転用石です。
福知山城は転用石が多く使われている・・・事前にチェックしていたのですが、それほど多くないようですねぇ。
う~ん、ここはスマホで調べてみましょうか・・・。





再び本丸へ。
どうやら大天守の石垣に、転用石が多く用いられているとのこと。



ありました、ありました!
画像中央の模様のある石は、仏塔を解体したものが用いられているようです。
角の石の中にも、自然石とはとうていかんがえられない異なる方形の石があります。



転用石がこんなにもゴロゴロと。
私はなんでこれを見落としていたのか・・・・・・自問自答してしまうほどです。



転用石をよく見ると、梵字のようなものが刻まれているようです。



天守の石垣をよく観察してみると、石垣に境界線があるかのように見えます。
これは天守台の拡張の名残りで、境界線の手前(右側)が明智光秀の時代に築かれた石垣、その先が拡張されて新たに築かれた石垣なのです。
そしてよく見ると、転用石は右側の石垣だけに存在していることがわかります。


多くの国人領主が割拠していた丹波国(京都府中部)を武力で征服した明智光秀
戦国乱世、力こそ正義の時代ですから、逆らう者は武力で屈服させねばなりません。
当時の寺院は、現在のそれとは異なり、僧兵を擁するひとつの勢力でした。
比叡山を焼き討ちした織田信長と同様、光秀もまた、抵抗する寺院を武力でもって屈服させ、仏塔や墓石などを解体していったそうです。
その石を己の城郭の天守に用いることにより、一種の見せしめにしたといいます。

また一方、光秀は丹波でも善政を敷きました。
城郭を築くにあたり石材が不足したため、後にあがなうことを約束して、寺院の石材を得たのだともいわれています。



信長の部将として、比叡山焼き討ちを忠実に行った光秀。
謀反人のイメージが強かった江戸時代においても、福知山の領民に名君と慕われていた光秀。
硬軟両面の顔をもつ光秀なので、やはり硬軟両面の方策で石を調達したのかもしれませんね。



福知山城の登城、最後を飾るのはやはり天守。



東側の昇龍橋から。



西側の福知山市役所から・・・・・・あ!
天守のたもとにある銅門(あかがねもん)番所【移築現存】をスルーしてしまった!




午 前 十 一 時 ち ょ う ど

福 知 山 駅 ・ 観 光 案 内 所


途中小雨に降られながらも、無事に戻ってきました。



明智家の家紋・「桔梗紋」の御朱印帳を1,800円で購入。
今後はこれを御城印帳とさせていただくこととします。

そしてここでも取りこぼしが。
御城印帳を購入したのに、御城印をもらうのを忘れてしまったのでした。