鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

安土城・終章~見寺

2015-07-11 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 1 9 日 ( 木 )

午 後 2 時 5 5 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

安 土 城 天 主 台 址





天主址から下りました。



岐路のある伝織田信忠邸址まで戻りました。
そこから今度は大手道とは反対方向の道を下っていきます。



ほどなく広い曲輪に出ます。
ご覧のとおり三重塔が建っている空間、ここがかつて見寺があったところでした。


見寺は、安土城の城内に創建された寺院です。
安土の城下町から安土城に登城するときは、百々橋口から上り、見寺を必ず通るというルートとなっていました。
本能寺の変直後の大火では、天主などは焼失しましたが、見寺は災厄を免れました。
しかし江戸時代に炎上、ほとんどの伽藍を焼失してしまいました。
その後、寺の中枢は大手道脇に移され、現在に至ります。



ということで、当時の建物はほとんど残っておらず、



本堂は礎石のみが残ります。



創建当時のまま残っている建物のひとつ、三重塔【国指定重要文化財】。
三重塔が建っている辺りは崖が迫っていて、なかなかいいアングルがなかったです。



見寺からの眺め。
湖は琵琶湖、ではなく西の湖で、琵琶湖中最大の内湖だそうです。
そして、洪水で孤立してしまったかのような湖面ギリギリの集落がなんとも不思議で、なぜかシムシティを連想してしまいました。




眺望を堪能し、下へ。
このときには雨が上がっていましたが、石段は濡れていて、しかも急なので、大変滑りやすくなっていました。
私はここで転びました。
雨の山城を行く際には十分注意していただきたいものです(^_^;)

階段の下には・・・



二王門【国指定重要文化財】が建っています。
こちらも安土城が築城された当時のものが現存しています。
左右に立つのは金剛力士像【国指定重要文化財】です。

 



二王門の表側に出ました。



二王門の先は、安土の城下へと続いていた百々橋(どどばし)ですが、石段が急峻でしかも踏みしろが小さいので、現在は通行できません。
なので、このまま曲輪ぞいの道を歩いていきます。



伝羽柴秀吉邸址の横に出ました。



大手道を下って入口へと戻ると・・・

 

杖を立ててあったカゴの裏には、安土城の事蹟が記載されていました。

天正4年(1576年)正月、織田信長、安土山に築城を命じる。
天正5年(1577年)6月、13か条のおきてを定め、城下町を楽市楽座、諸役を免除して商業活動の自由を認める。
天正6年(1578年)正月、諸将を城中に招き、城内の見物を許す。
同年8月、近江や京都から相撲取を集め興行する。
天正7年(1579年)5月11日、吉日につき、正式に安土城「天主」に移る。
天正8年(1580年)、宣教師に安土城下での教会建設の敷地を与える。
同年5月5日、5月17日、6月24日、国中の相撲取を召し集め、興行、終日見物する。


・・・と、信長公は相当の相撲好きのご様子。

天正9年(1581年)安土城の北、松原町に馬場を築かせ、1月15日左義長(三毬杖)(どんど焼き)を盛大に行う。
同年7月15日、天主および見寺に提灯を吊るし、江中に舟を浮かべ巡察師バリニャーニをもてなす。
同年9月8日、安土城築城に関与した職人頭に小袖を与える。
同年10月20日、セミヨナリを南北二道にするため町屋敷を築く。


・・・と、天正9年は安土城が規模の大きなエンタメの場になっています。
職人頭に小袖、というエピソードが、苛烈な魔王の面が表に立つ信長公の、民政を極めて重視したという戦国時代ではまれなる善政を敷いていた面を表しています。
そして事蹟表は激動の天正10年(1582年)へ。

天正10年元旦、諸将を礼金100文にて見寺と本丸御殿の見学を許す。

・・・さすがは覇王、臣下から抜け目なく上納金を取り立てます。

5月19日、見寺にて能興行をもよおす。
5月20日、徳川家康一行を城中の江雲寺御殿で接待。


・・・このとき家康を接待したのが明智光秀です。
俗説では、このときの接待に不手際があり、信長が光秀を厳しく叱責。
これと同時に、中国攻めを担当していた羽柴秀吉より援軍の要請を受け、光秀に秀吉支援を命じるわけですが・・・

5月29日、信長上洛し、本能寺へ入る。

そして・・・

6月2日、明智光秀、本能寺を襲撃、織田信長自刃。
6月5日、光秀、安土入城。


ですが・・・

6月13日、秀吉、山崎で合戦して、光秀を破る。
6月15日、安土城天主炎上、焼失する。


この炎上は、明智光秀の娘婿・明智秀満が山崎の敗戦後に退却の際に放火した説、織田信長の次男・織田信雄がとち狂って放火した説と、秀満の退却後に主がいなくなった安土城を土民が略奪した時に炎上した説があり、近年は略奪説が有力となっているようです。



受付で預けた荷物を回収し、



見寺のご朱印を拝領し、

 



信長号で安土城を後にしました。






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