逆井城【茨城県指定史跡】から、利根川を渡って千葉県へ戻りました。
時刻は午後4時前と、城を訪れるには時すでに遅しの感はありましたが、あえてもう1城へ。
千葉県野田市
チーバくんのお鼻の先っちょにあるのが・・・
千葉県立関宿城博物館です。
博物館の建物は、かつての関宿城にあった御三階櫓をもとにしているのだそうです。
残っている古い記録をもとに外観復元をしたようで、江戸城の富士見櫓【現存】を模しているようです。
しかしその記録が少なく、また立地もかなりずれているので、お城業界では模擬天守(史実に基づかない天守)とされています。
開館時間は午前9時から午後4時30分までで、入館終了時刻は午後4時までとなっています。
タッチの差でなんとか中に駆け込んだ、そんな感じでした。
関宿の地は、利根川と江戸川が分岐する水運の要衝地。
そこで展示も、関宿城・関宿藩と、関宿の水運に関する内容となっています。
閉館まで30分弱。
今回は展示を軽く見るだけとして、御三階櫓の最上階へ。
最上階から北東を望みます。
関宿城の城門が移築現存している逆井城は、だいたい10km弱の距離です。
北西方向。
銚子で太平洋に注ぐ利根川と、東京湾へと注ぐ江戸川が分岐しています。
関宿城は分岐した江戸川を阻むかのように築城されていて、水上交通の要衝となっていました。
関宿城は、長禄元年(1457年)、古河公方家臣・
天文15年(1546年)の河越夜戦に勝利した北条氏康が台頭し、古河公方家への圧力を強めていました。
天文21年(1551年)、古河公方・足利晴氏は北条氏の圧力に屈し、北条氏綱の娘との間に生まれた義氏に家督を相続させられてしまいます。
永禄元年(1558年)には北条氏の画策により、足利義氏が関宿城に移り、かわりに城主だった簗田晴助には古河城が与えられることとなりました。
北条氏康は関宿城を重要視し、「関宿城を抑えることは、一国を得ることに等しい」と評していたそうです。
永禄3年(1560年)になると越後の長尾景虎(上杉政虎・謙信)の軍勢が越山し関東を席巻、翌永禄4年には小田原城を攻めました。
このとき景虎は、北条氏の血を引く義氏を追放します。
景虎は小田原の攻略が成らないまま兵を退き、鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉家の家督を継いで「上杉政虎」と名乗ることとなり、越後へと帰還します。
政虎の帰国後は、北条氏康が関東を奪還していき、簗田晴助を関宿城に戻しました。
その後北条氏は数度にわたり関宿城を攻め、天正2(1574年)簗田持助はついに開城、以後は北条氏直轄の軍事拠点となりました。
天正18年(1590年)の小田原征伐で落城。
関東は徳川家康の所領となり、家康は異父弟・松平康元を関宿城主としました。
以降、久松松平・能見松平・小笠原・北条・牧野・板倉などと主を目まぐるしく変えることとなります。
久世氏が城主のときに明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となりました。
御三階櫓から南方を眺めます。
まあるい樹木が2本植わっているあたり・・・
このあたりが、かつての関宿城本丸だったところです。
博物館の外にある看板より。
治水の必要から江戸川の水流を変える工事を行ったため、関宿城の遺構は多くが取り壊されることとなったのです。
お次は関宿城の遺構をつぶさに拝見・・・といきたかったところですが、時間の都合でこの日は ジ・エンド。
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