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大きな石で組まれた石垣の虎口、黒金門址。
往時は、金箔が施された瓦が使われるなど絢爛豪華な造りで、天下人の住まうところにふさわしいものだったといいます。
本能寺の変後に起きた大火で、黒金門も焼失してしまいました。
しかし門の礎となっていた石垣はその後も残り、400年以上たった今もなお、豪壮な構えをなしています。
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黒金門より先は、信長が居住し、政務を執っていた中枢部分となります。
順路を外れた脇道の先には、織田家四代の墓塔がありました。
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しかしこのとおりの水ひたし、墓塔に近づくことはままなりません。
傍らに「誰々の墓」という看板はあったのですが、よく見えない。
織田家4代というと、有名どころで信秀、信長、信忠、秀信(三坊師)あたりかな?
信長のお父さんの名前は信秀ですよぉ~、決して恒彦ではありませんよぉ~。
まぁ、試験に出ないから覚えなくてもいいですけどね。
あとから調べてみたら、どうもこの4つの墓は信長の次男・「茶筅丸」信雄からの4代らしいです。
茶筅丸くんはとにかくいいエピソードがない。
信長に無断で伊賀を攻めて敗北、「お前を勘当してやる」と信長パパを激怒させます。
本能寺の変後のゴタゴタでは、なにをとち狂ったか安土城を焼いてしまったとも。(現在は、土民の略奪にあって炎上したとの説が有力)
豊臣秀吉と徳川家康の直接対決である小牧長久手の戦いでは、家康とタッグを組むも、秀吉に懐柔されて単独講和。
そして領国の尾張からの領地転換を提示されてダダをこね、秀吉が激怒、領地没収される、など。
茶筅丸くんの最大の功績といえば・・・信長の直系の血縁を現在に伝えていることでしょうか?
さて、順路に戻ります。
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400年の時を経て、今もなおそびえ立つ石垣。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/1c/3951fb2bada13870fc1bf75436514728.jpg)
順路を進み、石碑が立つところで、二の丸と本丸との分岐。
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岐路を左に曲がり、まずは二の丸へ。
水たまりが行く手を阻みますが、水のないところをなんとか選んで通過。
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二の丸には織田信長公廟が建立されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/0a/0ab31212204c08fa665fd7006a817296.jpg)
本能寺に斃れた覇者は、天主の脇にある二の丸にて祀られています。
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織田信長公廟のそばに設置されている100名城スタンプ。
ボックスのあちらこちらで試し押しをされていて、なんとも残念な心持ちになります・・・。
たしかにシャチハタ形式のスタンプは、きれいに押すのが難しいのではありますがねぇ。
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スタンプ自体は、2011年に収得済みではありますが、51番、安土城!
そして水たまりを越えて、道を戻ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/ac/ef722194243ef21a6f96b9118dcf791c.jpg)
二の丸の次は、本丸です。
(三の丸は順路を外れたところにあったので、行きそびれてしまいました)
本丸には御所の清涼殿を真似たという御殿がありました。
現在はただの広場になっています。この日は行く手を阻む水障害になってました。
その先の石段・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/a2/30462bbb93d1a04cd1b0e767b2316499.jpg)
ここを上っていくと・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/28/926156328979da5294d4d90f648c269b.jpg)
安土城のてっぺん、天主台址です。
普通、「てんしゅ」は「天守」と書きます。
しかしこの安土城だけは「天主」と書くのが正しいとされます。
安土城の「天主」が、その後の城郭建築の花形ともいうべき「天守閣」のさきがけとなりました。
しかし「天主」と「天守」とは決定的な違いがあります。
「天守」は「守」の字が表すように、防御施設のひとつでした。
城郭を防衛し、武器を収納するやぐら。そのやぐらに、権威の象徴という意味合いを込めたのが「天守閣」です。
それに対し「天主」は、防御施設の意味合いが(ないとはいえないにしても)薄いのです。
天主には武器を収納したのではなく、信長その人が住んでいたのです。
信長は、日本で最初に高層建築に居住した人物ともいえます。
天主台に立つと、雨は相変わらずでしたが、それ以上に強い風が吹き抜けていました。
大垣で買ったかわいい傘が、たった1日で壊れてしまうのではないか、と思うくらいの風。
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信長その人が住んでいた場所から、信長その人が祀られている廟を見下ろします。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/56/4d3db4fa6ca58e5a4dd671dcfa5a4651.jpg)
琵琶湖はもやがかかってあまりよくは見えなかったものの、そこそこ長い石段を上ってきた者にとっては、疲れをいやす景色でした。
それにしても、風に耐えながら傘を差し、デジカメをいじる。なかなか難儀です。
天主台から本丸、黒金門址へと下っていきました。
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