宣教 マタイ6:25-34
主イエスがこのところで強調しておられるのは「思い悩むな」:口語訳「思いわずらうな」ということです。この箇所でその言葉が6回も用いられています。
しかし、思い悩む、といえば人間誰しも生きるうえで何がしかの「思い悩み」はつきものです。悩むな、と言われても、それは悩んでいる人にはあまりに酷な事です。又、人は悩みながら成長していく面も確かにあります。悩む、という言葉の持つ響きは人として大事な要素を持っているようにも思うのです。
私はここでは、思い悩むというより、むしろ口語訳聖書の「思いわずらう」という訳に従いたいと思います。この思いわずらいは、心が一つの方向に定まらず、いろんな方向に向い混乱している状態を指す要素を含んでいます。特に先ほどの、神と富に仕えることはできないというみ言葉にあるように、心が二つ方向に割れている状態が、思いわずらうということをよく表しているといえます。
ここで、主イエスが「思いわずらうな」とおっしゃったのは、「神に信頼をおいている者は、神がすべてのことを配慮し、与えてくださるのであるから、思いわずらいに捕われなということであります。それは心が一つの方向、つまり神の方向に向いている状態であるからです。
しかし、現実の生活の中で、神を信じている者でも、ここに記されていますように、食べるもの、飲むのも、着るものをはじめ、先ほどの富についても、それらの所有に対してあれやこれやと思いわずらうことは、聖書の時代も今日も変わらない事柄ではないでしょうか。けれども、主イエスがこの話を弟子たちにお語りになられたということがみそだと思います。すなわちそれが、主を信じる者へのメッセージであるということです。
27節「あなたがたが、思いわずらったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とおっしゃいます。詩編90編にありますように、人の生涯というものはすべて主なる神さまのみ手のうちにあります。寿命というものも神が定められる事柄であります。今日の時代はまあこの当時とは異なり最先端の医学や医療によって昔よりは延命になっているということはあるかも知れません。けれどもどうでしょうか。むしろ、思いわずらう事によって病になり、寿命が縮んでしまうという可能性はあります。
先日の新聞でお読みになった方もおられるかも知れませんが。フィンランドという北欧の国の政府が比較的裕福な男性40歳代1200人を二つのグループに分け、一つのグループは健康管理をしっかりと行い、もう一つのグループは特に何もしないようにして15年間追跡調査をしたところ。さて、どういう結果になったと思われますか。これは実に意外な結果が出たそうです。ナンと健康管理をしっかり行ったグループの方が心身を病んだり、死亡率が高かったというのですね。あるコメディアンが健康のためなら死んでもいいとか言っていましたが。管理も度を超して思いわずらいになってはかえって命を損なうことになりかねないという一つの例でしょう。
まあ、健康に拘わらず、思いわずらうことによって、心が様々な方向に割れていき、逆にいろんな問題や事件も起こっているというのが現代の社会といえるのかも知れませんね。
「その日の苦労は、その日だけで十分である」。
主は、明日のことや先のことを思いわずらうのではなく、今、現在しっかりとなすべきことと向き合い、悔いの無いように生きることこそ大切である」と教えてくださいます。
「その日なすべきことだけでも十分あるのだから、それを精一杯やれば、「思いわずらう」暇などない。天の神に信頼し、一日一日を精一杯生きることが信仰者の生き方である」と主イエスはおっしゃっているのです。
詩編55・23をお読みします。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」
主イエスがこのところで強調しておられるのは「思い悩むな」:口語訳「思いわずらうな」ということです。この箇所でその言葉が6回も用いられています。
しかし、思い悩む、といえば人間誰しも生きるうえで何がしかの「思い悩み」はつきものです。悩むな、と言われても、それは悩んでいる人にはあまりに酷な事です。又、人は悩みながら成長していく面も確かにあります。悩む、という言葉の持つ響きは人として大事な要素を持っているようにも思うのです。
私はここでは、思い悩むというより、むしろ口語訳聖書の「思いわずらう」という訳に従いたいと思います。この思いわずらいは、心が一つの方向に定まらず、いろんな方向に向い混乱している状態を指す要素を含んでいます。特に先ほどの、神と富に仕えることはできないというみ言葉にあるように、心が二つ方向に割れている状態が、思いわずらうということをよく表しているといえます。
ここで、主イエスが「思いわずらうな」とおっしゃったのは、「神に信頼をおいている者は、神がすべてのことを配慮し、与えてくださるのであるから、思いわずらいに捕われなということであります。それは心が一つの方向、つまり神の方向に向いている状態であるからです。
しかし、現実の生活の中で、神を信じている者でも、ここに記されていますように、食べるもの、飲むのも、着るものをはじめ、先ほどの富についても、それらの所有に対してあれやこれやと思いわずらうことは、聖書の時代も今日も変わらない事柄ではないでしょうか。けれども、主イエスがこの話を弟子たちにお語りになられたということがみそだと思います。すなわちそれが、主を信じる者へのメッセージであるということです。
27節「あなたがたが、思いわずらったからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」とおっしゃいます。詩編90編にありますように、人の生涯というものはすべて主なる神さまのみ手のうちにあります。寿命というものも神が定められる事柄であります。今日の時代はまあこの当時とは異なり最先端の医学や医療によって昔よりは延命になっているということはあるかも知れません。けれどもどうでしょうか。むしろ、思いわずらう事によって病になり、寿命が縮んでしまうという可能性はあります。
先日の新聞でお読みになった方もおられるかも知れませんが。フィンランドという北欧の国の政府が比較的裕福な男性40歳代1200人を二つのグループに分け、一つのグループは健康管理をしっかりと行い、もう一つのグループは特に何もしないようにして15年間追跡調査をしたところ。さて、どういう結果になったと思われますか。これは実に意外な結果が出たそうです。ナンと健康管理をしっかり行ったグループの方が心身を病んだり、死亡率が高かったというのですね。あるコメディアンが健康のためなら死んでもいいとか言っていましたが。管理も度を超して思いわずらいになってはかえって命を損なうことになりかねないという一つの例でしょう。
まあ、健康に拘わらず、思いわずらうことによって、心が様々な方向に割れていき、逆にいろんな問題や事件も起こっているというのが現代の社会といえるのかも知れませんね。
「その日の苦労は、その日だけで十分である」。
主は、明日のことや先のことを思いわずらうのではなく、今、現在しっかりとなすべきことと向き合い、悔いの無いように生きることこそ大切である」と教えてくださいます。
「その日なすべきことだけでも十分あるのだから、それを精一杯やれば、「思いわずらう」暇などない。天の神に信頼し、一日一日を精一杯生きることが信仰者の生き方である」と主イエスはおっしゃっているのです。
詩編55・23をお読みします。
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。
主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」