日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

魚から銀貨

2010-06-13 07:18:46 | メッセージ
宣 教 マタイ17:24-27

イエスさまは、ペトロにこう言われましす。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨1枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」。
イエスさまは神の子どもたちは税金を「納めなくてもよい」と、その自由を主張いたしましたが、それを正論として振りかざそうとはいたしません。正論は時として人を問答無用に審いたり、事態を硬直化させてしまう危険性があることを、イエスさまはご存じでした。
イエスさまは、税金を納めないのは自由だけど、そこで人々をつまずかせるようなことになるのなら、つまずかせないためにあえて納める自由を選択する道を示されます。
そこには長年神殿税を納めることを大事にしてきたユダヤ人たちへの配慮があったのでしょうか。イエスさまの信仰の思いははっきりあるけれども、それを押し通すことで人々をつまずかせていてしまうのなら、自分の正論を押し通すことをも放棄し得るという事です。
変な言い方ですが、たかが神殿税のことで人々を躓かせ、主への信仰まで見失うような事になるのなら、それを否定するのではなく、一緒に納める道をイエスさまは選択されます。

この個所で実に興味深いのは、イエスさまが、即二人分の税金をペトロに渡されなかったという点であります。普通だったらすぐに「はい、これで税金を納めてきなさい」とおっしゃってもいいように思いますが。
しかしなぜか、「湖に行って釣りをしなさい、、云々」というふうに、わざわざ回りくどいような仕方でもってその道筋をお示しになられるのです。なぜでしょうか。
そういうことを、私は今日の宣教を準備する中でずっと考えていました。

釣りと税金、一体何の関係があるでしょうか。いや、、、何もありませんよね。私も魚釣りが大好きなんですが。何で好きなのかと言いますと、「今日は一体どんな魚が釣れるのか」とわくわくの期待感。「今夜のおかずを釣るぞ」というモチベーションなどあります。そういう思いを持って魚釣りをしていますと、竿さきや浮きだけに集中し、時間も他のことも忘れて没頭します。心地よい波の音、潮風が鼻をくすぐり、釣れた時の手ごたえとその嬉しさはひとしおです。まったりとした時間をもつことによって気持ちをリセットし、ほんとうにリフレッシュされるんですね。まあ、皆さんもそれぞれに、違った仕方でそういうリセットやリフレッシュをされていることがおありだと思いますが。

ぺトロは唐突なイエスさまの「釣りをしなさい」とのお言葉をどう思ったでしょうね。
けれども、このようなある意味ばからしいと思えるような、ユーモアのあるイエスさまのはからいには、ペトロの重たい気持ちをいやし、解放する力があったのです。

釣った「魚から1枚の銀貨」。それはイエスさまとペトロの二人分の税金に値するお金です。
それを納めなさい。何ともユーモラスなこの計らいで、湖に出かけたペトロはきっとその重たい気持ちに覆われた心がリフレッシュされたのではないでしょうか。
この魚がどんな種類の魚かはわかりませんが。魚は、2000年前から救い主イエスさまを表すシンボル(象徴)です。魚をギリシャ語でイクトウスと言います。この5文字のイはイエス、ク(クリスト)はキリスト、ト(テオス)は神、ウ(フィオス)は子、ス(ソテ―ル)、これは救い主という意味です。

心重きペトロの解決の道は、やっぱりイエス・キリストというお方のうちにあるのです。いろいろあってもイクトウス、やっぱりイエスは神の子、私の救い主。その中に救いと解放があるのです。ここを読んでうれしいのは、イエスさまはペトロがうっかり即答してしまったことを非難するのではなく、ペトロの思いや気持ちに温かく寄り添い、ほんと粋なはからいでもって前に進んで行けるようにしてくださったことです。

私たちも時として失敗したり、思ったとおり事が行かなかったりということがあります。重い気持ちになることや、がっかりして悲しみに捕まってしまうこともあるでしょう。
けれども、目を上げれば思いがけない主の助け、ユーモアととれるほどの温かな主のはからいがきっと与えられます。主に倣う私たちもまた、あらゆる人たちとの関わりの中で、温かな配慮や愛情ある言葉を心がけ、主の御国の豊かさを共に味わうものとされてまいりましょう。
コメント
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