宣教 マルコ1章14~15節
本日は大阪教会創立60周年を記念する特別な時であります。昨年の9月が宣教60周年、天王寺のこの地、正確には少し北に行った逢坂にA.Lギレスピー先生ご夫妻の宣教師館を構え、広島教会の伝道所として私たちの教会の前身は始まりました。そのわずか4カ月も満たない1月28日に、大阪教会の教会組織がなされたということであります。
今日は折しも、私たち大阪教会の旧会堂時代に教会員として学生時代を過ごされ、又この大阪教会から献身されて関学と西南の神学部で学ばれ、名古屋教会の牧師として尊いお働きを永年に亘りなさっておられます池田巍義先生よりお証しを戴くことができましたのは、ほんとにタイムリー、時に適ったことで、主の御名をたたえ、先生にも感謝しています。お証しから当時の大阪教会の様子が伝わってきました。時代は変わっても、その福音の本質、み言葉の真正、教会に託された福音伝道の使命は変わるものではありません。そこにまず教会の存在意味がございます。
本日は新約聖書マルコによる福音書1章14~15節のみ言葉が与えられ、特に「時、満ちて」というみ言葉に目が留まりました。
この個所は、主イエスが福音を宣べ伝えられた始まりのところでありますが、それはバプテスマのヨハネが捕えられた後であったというのですね。どうしてわざわざここにそういう事が書かれてあるのでしょうか。ヨハネはまっすぐに神の言葉を説き、神に立ち返ることを教えた正しい聖なる人であったのですが、その正しさのゆえにヘロデ王から恨まれ捕らえられてしまうのです。やがてヨハネは惨殺されてしまうのでありますが。それは世の王をはじめ、人々の心がまことの神の方へ向いていない世相といいましょうか、そういった世の情勢を象徴していました。「王をはじめ人々の心が神の方へ向いていない」。神の招きを拒絶するようなまさに罪に閉ざされた闇のただ中に、主イエスさまは闇を照らす光として来られたのであります。「ヨハネの捕らえられた後」というのはそういう時代状況を示しているのです。
そのただ中で主イエスさまは、「時は満ち、神の国が近づいた」との福音をガリラヤから宣べ伝え始められたのであります。まさに、神のお定めになった時(救いの到来)ですね。これはカイロスという時であります。ギリシャ語には時を表す言葉としてクロノスとカイロスの2つがあるのですが、クロノスが時計に表される人の世の時間であるのに対し、カイロスの時は、神の計らいによって定められた神の介入の時を意味しています。それはまさに主イエスさまによって到来し、十字架と復活によって救いが完成されるその時のことです。それと共に、「神の国が近づいた」と主イエスさまは言われます。この神の国はヘロデ王に象徴される王国やイデオロギーによる人間主義の国家とは全く異なる、神のご支配、神の統治される国であります。
このイエス・キリストの到来から2000年余り経ちますが、主イエスさまの宣べ伝えられる「時は満ちた神の国は近づいた」との福音は、このガリラヤから始まり、今や全世界にも広がって、多くの福音を信じる人たちが世界中に興されてきました。しかし今日の時代にあってもなお神の国から程遠いようなこの世界であります。憎悪や恨みや妬みによる争いも絶えません。ヘロデの時代と同様、依然人々の心は神の方へ向いていないといえるのではないでしょうか。そのような人の世に向けてイエスさまは、「悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけるのであります。
このみ言葉は、確かに私たちが主イエスをまったく知らない、初心者や未信者の方に福音を伝え、福音唱歌などの勇ましい歌詞に「悔い改めて信ぜよ」というようなものがありますが、そのように伝道しなさいと言っているようにとれます。けれどもここで注意したいのは、この「悔い改め」や「信じる」という原語を正確に読みますと、それは単に一度限り「悔い改めなさい」「信じなさい」ということではなく、「悔い改め続けなさい」「信じ続けなさい」とイエスさまはおっしゃっているのです。ここが今日のメッセージの大事なポイントであります。
それは伝道ということ、あるいは福音宣教というのは確かに自分の信じている神と救いの恵みについて人に証しし、伝えていくという大切なことでありますけれども。同時に、いやこれよりも大事なことは、福音を伝え、証しする者自身がまず日々主と向き合いながら、「悔い改め続ける」「信じ続ける」ものでなければならないということであります。主イエスさまの「悔い改めて福音を信じなさい」との呼びかけは、まず福音に生きる私たち向けられたものであるのです。そこを抜きにした伝道や福音宣教は人々に響きませんし、届きません。実はそこから、その招きに忠実に応え続ける中から、ほんとうの福音伝道というものが、生きた証しができるのであります。主の前に感謝と、又悔い改めと、そしてそこに希望を戴いてまいりたいと願っています。
最後に、「時、満ちて」という神の定めた時(ご計画)について、先週お読みしました箴言5章21節のみ言葉を読んで宣教を閉じます。
「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」
本日は大阪教会創立60周年を記念する特別な時であります。昨年の9月が宣教60周年、天王寺のこの地、正確には少し北に行った逢坂にA.Lギレスピー先生ご夫妻の宣教師館を構え、広島教会の伝道所として私たちの教会の前身は始まりました。そのわずか4カ月も満たない1月28日に、大阪教会の教会組織がなされたということであります。
今日は折しも、私たち大阪教会の旧会堂時代に教会員として学生時代を過ごされ、又この大阪教会から献身されて関学と西南の神学部で学ばれ、名古屋教会の牧師として尊いお働きを永年に亘りなさっておられます池田巍義先生よりお証しを戴くことができましたのは、ほんとにタイムリー、時に適ったことで、主の御名をたたえ、先生にも感謝しています。お証しから当時の大阪教会の様子が伝わってきました。時代は変わっても、その福音の本質、み言葉の真正、教会に託された福音伝道の使命は変わるものではありません。そこにまず教会の存在意味がございます。
本日は新約聖書マルコによる福音書1章14~15節のみ言葉が与えられ、特に「時、満ちて」というみ言葉に目が留まりました。
この個所は、主イエスが福音を宣べ伝えられた始まりのところでありますが、それはバプテスマのヨハネが捕えられた後であったというのですね。どうしてわざわざここにそういう事が書かれてあるのでしょうか。ヨハネはまっすぐに神の言葉を説き、神に立ち返ることを教えた正しい聖なる人であったのですが、その正しさのゆえにヘロデ王から恨まれ捕らえられてしまうのです。やがてヨハネは惨殺されてしまうのでありますが。それは世の王をはじめ、人々の心がまことの神の方へ向いていない世相といいましょうか、そういった世の情勢を象徴していました。「王をはじめ人々の心が神の方へ向いていない」。神の招きを拒絶するようなまさに罪に閉ざされた闇のただ中に、主イエスさまは闇を照らす光として来られたのであります。「ヨハネの捕らえられた後」というのはそういう時代状況を示しているのです。
そのただ中で主イエスさまは、「時は満ち、神の国が近づいた」との福音をガリラヤから宣べ伝え始められたのであります。まさに、神のお定めになった時(救いの到来)ですね。これはカイロスという時であります。ギリシャ語には時を表す言葉としてクロノスとカイロスの2つがあるのですが、クロノスが時計に表される人の世の時間であるのに対し、カイロスの時は、神の計らいによって定められた神の介入の時を意味しています。それはまさに主イエスさまによって到来し、十字架と復活によって救いが完成されるその時のことです。それと共に、「神の国が近づいた」と主イエスさまは言われます。この神の国はヘロデ王に象徴される王国やイデオロギーによる人間主義の国家とは全く異なる、神のご支配、神の統治される国であります。
このイエス・キリストの到来から2000年余り経ちますが、主イエスさまの宣べ伝えられる「時は満ちた神の国は近づいた」との福音は、このガリラヤから始まり、今や全世界にも広がって、多くの福音を信じる人たちが世界中に興されてきました。しかし今日の時代にあってもなお神の国から程遠いようなこの世界であります。憎悪や恨みや妬みによる争いも絶えません。ヘロデの時代と同様、依然人々の心は神の方へ向いていないといえるのではないでしょうか。そのような人の世に向けてイエスさまは、「悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけるのであります。
このみ言葉は、確かに私たちが主イエスをまったく知らない、初心者や未信者の方に福音を伝え、福音唱歌などの勇ましい歌詞に「悔い改めて信ぜよ」というようなものがありますが、そのように伝道しなさいと言っているようにとれます。けれどもここで注意したいのは、この「悔い改め」や「信じる」という原語を正確に読みますと、それは単に一度限り「悔い改めなさい」「信じなさい」ということではなく、「悔い改め続けなさい」「信じ続けなさい」とイエスさまはおっしゃっているのです。ここが今日のメッセージの大事なポイントであります。
それは伝道ということ、あるいは福音宣教というのは確かに自分の信じている神と救いの恵みについて人に証しし、伝えていくという大切なことでありますけれども。同時に、いやこれよりも大事なことは、福音を伝え、証しする者自身がまず日々主と向き合いながら、「悔い改め続ける」「信じ続ける」ものでなければならないということであります。主イエスさまの「悔い改めて福音を信じなさい」との呼びかけは、まず福音に生きる私たち向けられたものであるのです。そこを抜きにした伝道や福音宣教は人々に響きませんし、届きません。実はそこから、その招きに忠実に応え続ける中から、ほんとうの福音伝道というものが、生きた証しができるのであります。主の前に感謝と、又悔い改めと、そしてそこに希望を戴いてまいりたいと願っています。
最後に、「時、満ちて」という神の定めた時(ご計画)について、先週お読みしました箴言5章21節のみ言葉を読んで宣教を閉じます。
「人の歩む道は主の御目の前にある。その道を主はすべて計っておられる。」