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ヒゼキヤ王の宗教改革

2011-02-20 18:04:58 | メッセージ
宣教 列王記下18章1~12節  

今週、来週、再来週の3回の礼拝宣教はユダ王国のヒゼキヤ王に関する聖書個所からみ言葉を聞いてゆきます。今日の個所はその第一回目として、ヒゼキヤ王の宗教改革やその信仰姿勢についての記事であります。このヒゼキヤ王については、歴代誌下29~32章に詳細な記事がありますので、そこと読み比べてみるのもよいかと思います。

ヒゼキヤは、ユダの王アハズの子であり、25歳でユダの王になり、29年間王位にありました。それは他のユダの王と比べれば長期政権であったといえます。聖書にはヒゼキヤの人となりについて、3節「彼は、父祖ダビデが行ったように、主の目に適った正しいことをことごとく行い」、さらに5節以降「その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、かた彼の前にもなかった。7節「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した」と、列王記の記者はすべての点でヒゼキヤ王をほめちぎっています。他の多くの王たちが神に背き罪を犯すいわゆる悪王であった中、ヒゼキヤ王は主の目に適う正しい行いとともに、民の心を真の唯一の神、主に立ち返るために具体的な宗教改革を行いました。それは4節にあるように「聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、アシュラ像を切り倒し、モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた。」6節「彼は主を固く信頼し、主に背いて離れることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った」とあります。又、7節「彼はアッシリアの王に刃向い、彼に服従しなかた」と述べられています。それは思いますに、神の民として立てられた使命感と純粋性を重んじるゆえに異教の国に服することがなかったということでしょうか。

それにしても25歳で王に即位したとありますから、そんなに若くして国を治め、守っていくのは現実大変なことであったでしょう。北イスラエル王国やこのエルサレムのあるユダ王国は、地図で御覧になられるとおわかりのように、本当に小さな国であります。周囲にはアッシリア、ぺリシテ、バビロン、エジプトなどの大国に囲まれ、絶えず侵略の脅威にさらされ続けていたのです。そういう中で例えば、ヒゼキヤの父アハブが王であった時は、アッシリア帝国に貢ぎ物を贈り、協力することで軍事的脅威を軽減する政策を取りましたしかし、若きヒゼキヤ王は宗教改革を前面に打ち出し、アッシリアの王に従わなかったのであります。外からの外圧や侵略の脅威に対する怖れや不安があったでしょうが。それはいわゆる大国の傘の下で守ってもらう安全保障のようなものに依るのではなく、5節「彼は
イスラエルの神、主に依り頼んだ」6節「彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った」というのです。そうすることでユダの国は主の国として必ず栄えるということを信じて、改革を打ち出したのであります。

その彼の宗教改革はまず、「聖なる高台を取り除いた」ということであります。
イスラエルの人々はいつしか異教の神々を礼拝しながら、一方で真の唯一の神を拝むという神への信仰を混在させていました。その根は深く、これはイスラエル、ユダ王国のこれまでの歴代の王は誰もその事に対して手をつけることができなかったのですが。ヒゼキヤ王は偶像礼拝が行われていた異教の礼拝施設を取り除き、石柱を打ち壊し、アシュラ像を切り倒したというのです。

さらにヒゼキヤ王は驚くべきことをなします。それはユダの民たちの内なる罪を取り除くべく、「モーセの造った青銅の蛇を打ち砕いた」というのであります。それはかつて神の人モーセが奴隷の状態にあったエジプトから脱出し、荒野でその民が毒蛇に噛まれ命を落としていく中で、主の啓示を受けて造ったのが、このモーセの青銅の蛇であったのです。それは民が噛まれてもその青銅の蛇を仰ぎ見るなら死なずにすんだという伝説の像でありました。ヒゼキヤ王はそれを打ち砕いたというのですから、尋常なことではなかったでしょう。
しかしその像がイスラエルの人々にとって、主なる神よりもすごい力やご利益をもたらすものとして偶像礼拝の対象となっていたのです。唯一まことの生ける神以外のものを拝んではならないことは、モーセの律法に厳しく戒められているとおりであり、それはモーセの意に反することであったのです。

モーセの造った青銅の蛇は確かにイスラエルの歴史において重要かつ尊いものでありましたが。それ自体神でも、生ける主でもありません。神ならざるものを神のように崇拝し、拝む時、信仰は歪んでいきます。多くの偶像礼拝がそうであるように、人の欲望や願望を満たすだけのものになり、結局生ける神にではなく偶像に仕える者になってしまいます。
しかし、ヒゼキヤ王はよくもモーセの造った青銅の蛇を打ち砕いたものだと思いますが。
彼は偶像崇拝による罪の怖さを知っていたからでありましょう。それは前の17章に詳しく記されていることですが、つまり先に北イスラエル王国が陥落してしまったのは、真の神を礼拝せずに、神でないものを崇拝する偶像礼拝にその悪の根があると聞き知らされたからではないかと思われます。本日の18章12節の「彼ら(北イスラエルの人々)が自分たちの神、主の御声に聞き従わず、その契約と、主の僕モーセが命じたすべてのことを破ったからである。彼らは聞き従わず、実行しなかった」との記述からも伺えます。

ここのところから語りかけられますのは、「信仰の回復」ということであります。
私たちの信仰は、私たちの体の細胞が日々新しく活性化され、新しい血液が体中を絶えず循環しているように、日々新しく回復されなければなりません。古き自己の罪に日々死んで、新しくされていくことが重要であります。その柱としての週の始めに主の日の礼拝、又週の半ばに祈祷会があるのは本当に恵みであります。勿論日々の祈り、主との対話も欠かせません。そこで真の神に立ち返り(悔い改め)、神との関係が回復されていくからであります。真の主との関係をしっかりと築いていく、それは私どもの信仰の生命線であります。私どもの信仰も日々、ヒゼキヤ王が「聖なる高台を取り除いた」ように、あらゆる偶像を取り除いて回復されなければ、どんなに形や表面上はよく思えることでも、青銅の蛇の偶像崇拝のごとく、やがて主から引き離す罠になってしまいます。

先週ある方が私に、「礼拝に出席しなくなると怖しいです。自分の信仰が弱っていきます。世の力に支配されて乱れた言葉使いをしてしまいます。礼拝は本当に大事です」とそう話してくださいました。私どもの周りには神以外にも頼るものがたくさんあります。それは自分であったり、人であったり、お金であったり、世の間違いのないような保証であったり、会社であったりいたしますが。それを神のように崇め、偶像化する罪に陥りやすいという点で、この聖書時代も私たちも変わりません。そこで、真の神を知って生きるか、知らないで生きるかで、その人の生き方や人生はまるで違ってくるのです。

先日の宣教においても、聖書のみ言葉は単に「悔い改めなさい」ではなく、「悔い改め続けなさい」といっているということを申しました。その悔い改め続けるというのは、単なる反省や後悔ではありません。聖書のいう悔い改めは、真の神の懐に立ち返り続けていくことであります。帰るべきふところがあるのです。そこに魂の平安を伴う魂の回復があるのです。私たちは主イエスによる罪の贖いと赦しの力に与り、真の救い主であられる神のもとに立ち返ることを通して、霊の恵み、回復を戴くのであります。それが礼拝であります。

歴代誌下29章以降を読みますと、南ユダ王国のヒゼキヤ王のなした宗教改革は、祭司と民の運動であったことがわかります。その国を統治する王さまだけがなすものではなく、祭司や民たちの協力が不可欠であったということです。神を仰ぎ見る人達の祈りと行動です。
世の中には神との和解といいましょうか、真の魂の回復を必要としている人がたくさんおられます。主なる神さまは、私どもと和解し、私どもを回復し、又回復のみ業に携わる者として召し出されました。真の魂の回復者であられる主イエス・キリストと共に、回復の働き人と共にされてまいりましょう。
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