宣教 列王記下13章14~21節
北イスラエル王国にあって神の預言者として働きを成した後、死の病を患い床についていたエリシャのもとに北イスラエルの王ヨアシュが訪れます。彼は弱ったエリシャを前に、「わが父、わが父、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いたというのです。それは如何にヨアシュ王にとってエリシャが国を統治していくために重要な人物であったかを如実に示していました。ヨアシュ王はエリシャのことを神の預言者としてではなく、政治的軍事的ないわゆる肉的な世の指導者としてより頼んでいたことがわかります。当時北イスラエルはアラム(シリア)の脅威にさらされ続けていたからです。
死の病に床にふすエリシャを前に、すっかり弱気になったヨアシュ王に15節、「エリシャが「弓と矢を取りなさい」と言うので、王は弓と矢を取った。エリシャがイスラエルの王に、「弓を手にしなさい」と言うので、彼が弓を手にすると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、「東側の窓を開けなさい」と言った。王は開けると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす」と言ったと、このようにあります。
預言者エリシャも又、「北イスラエル王国において働きを成す事で神に仕える」という信念を持った人だったようであります。エリシャは死の病を患うなかで国の行く末を案じつつ、主のお命じになることを王であるヨアシュに伝えたのです。病室を訪問しますと、励ます側が逆に励まされるというようなことが多々ありますけれども、このエリシャの信仰から滲み出る思い、イスラエルの人々を絶えず執り成してきた人の手のぬくもりというものが、この弱気になったヨアシュを少なからず力づけたことでしょう。
ここに記された「東側」とはアラムの方角を指しています。すなわち戦う方向であります。そこに向かう窓を開けて、矢を射る。それは後ろ向きになっていたヨアシュ王の心の窓を開け、額をあげて、目を向けて成すべき業に向かうべきことを、象徴的に表しているのでしょう。私たちは日常の中で直面する様々な問題に、落ち込んだり、狼狽したり、後ろ向きになったりします。そしてそれはえてして人や世の力に依存したり、頼っているときにそのような心理に陥ってしまうものです。神の人エリシャは祝福の祈りの後、王が自ら信仰を持って外の世界に心を開き、額を上げ、成すべき業にしっかり目を向けて行うようにと促しました。それは今日の神の人のメッセージであります。
さて、エリシャはその「矢を持って来なさい」と命じ、王がそれを持ってくると、今度はそれを「地面を射なさい」と王に命じて言うのですが。すると「王は3度射てもうそれでやめ」てしまったというのですね。「こんなもんで如何でしょうか」と気弱に振り返る王の顔を何だか想像してしまうのでありますが。エリシャのこの「地面を射なさい」とは現在進行形でありますので、信仰の「矢を絶えず、あきらめずに射続ける」ということだったのでありましょう。3度で射るのを辞めた王に対し、聖書記者はここで「神の人は怒って王に言った」と伝えます。それはエリシャ個人としてではなく、神の人として怒りをあらわにしたというのです。「5度、6度と射るべきであった。そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。だが今となっては、3度しかアラムを撃ち破ることができない。」
このくだりのところを読みますときに、いろんな思いが示されるのでありますが。
まず、このイスラエルのヨアシュ王についてですが。11節に「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた。」と記されています。つまり、北イスラエルの王として統治する16年の期間、ヨアシュは終始、主の目に悪とされることを行い続けたということです。今日の個所でも預言者エリシャの言葉に始めは従うのでありますが、エリシャの伝えんとする「神への信仰によって勝利を勝ち取っていく」というスピリットが彼には響いていかない。伝わらないのですね。だから「一体このようなことをして何になるのか」と3度程度で辞めてしまったのでしょう。それとは対照的に預言者エリシャは、死の病を患う中、全身全霊をもって王に主の命を伝え続けたのであります。
さて、この個所にはあたかも特定な国を名指しして「滅ぼし尽くす」という聖戦思想が伺えます。旧約聖書には確かに時代的な背景があり、攻め込んで来る異教の国々を武力や軍事力でもって「滅ぼし尽くす」ことが起こったのです。けれども、ここで神の人である預言者エリシャは世の権力や軍事力に依存しなさい。もっと言えば、それら世の力に依り頼んで敵を滅ぼし尽くせと言っているのではないということです。「主の勝利の矢」。それは「神の言葉に聞き従い続ける」。そこから放たれる信仰の矢であり、もたらされる勝利は一国家の勝利というよりも、神の国の勝利、広い意味でいえば、世の力、神に敵対する勢力に対する御神の勝利であります。
イスラエルの王ヨアシュはまあ世の力、軍事力による統制を考えていたのです。ですから預言者エリシャの命じる言葉を主のみ言葉として最後まで聴き従い得なかったのであります。始めにも言いまいたが、王ヨアシュは名実共に力あるエリシャを取りこんで世の覇権のために政治利用しようとしただけだったのです。エリシャもそのことはすでに見通していたことでしょう。エリシャはそういう中で、決して譲ることなくイスラエルと王が主を真の神として生きていくことが、本当の勝利につながる道だと最後の最後まで示し続けたのであります。それはまさに、エリシャが死の病を患う中で全身全霊をもって訴えているメッセージであります。
ひるがえって今、キリスト者として生きる私たちの戦い、それは血肉によるものではなく世の諸霊との戦いだと使徒パウロは言っておりますが。その戦いにおける私どもの勝利は救い主・イエス・キリストにあります。「あなた方には世にあって苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と、そのように言われる主イエス。イエス・キリストこそ私たちの「勝利の矢」であります。キリスト者は血肉で戦うようには召されていません。キリストの救い・真理と愛に満ちたその教えに聞き従うことで世の力や自らの罪と戦い勝利してゆくのです。
人と言うものは、人生の最期、その間際になりますと、大抵何も持つものがなくなっていきますから、そこでほんとうに素にもどると言いますか、その人のホントの姿が現れます。エリシャは死の病を患うようなただ中で、なおも主により頼んで生きることが、勝利の道につながることを証しし続けた人でありました。その預言者としての生涯、「主の勝利の矢」を放ち続けた人なればこそのことです。
私どもにとりましても、イエス・キリストこそ、私たちの罪を滅ぼし、死に打ち勝つために放たれた矢」「神の勝利の矢」であります。「主の勝利の矢」を射続けるものとして、キリストのみ言葉に、絶えず耳を傾け、聞き従い続けてまいりましょう。
エリヤは孤高の人としてイスラエルの王と妥協や協議も一切せず主の預言を語って対決した人でしたが、エリシャはイスラエルの国や王との関わり続けながら、主の預言を語り、非難ばかりでなく、忍耐強く諭し続けた人でありました。
キリスト者は、政教分離なので日本の国やその政治と一切関わるべきではないというような間違った政教分離の考え方がありますが。キリスト者は自分の国や政治に携わる方々に対して関心をもち、見守り、祈り、執り成し、時としては警告を発していくそういう役割といいますか、姿勢は大事だと思います。イギリスからアメリカに渡り開花したバプテスト教会はその精神を大事にしてきたのです。イデオロギーや単なる政治運動としてではなく、主イエスさまのみ言葉に基づいた平和を築く働きのためにキリスト者は召し出されています。
北イスラエル王国にあって神の預言者として働きを成した後、死の病を患い床についていたエリシャのもとに北イスラエルの王ヨアシュが訪れます。彼は弱ったエリシャを前に、「わが父、わが父、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いたというのです。それは如何にヨアシュ王にとってエリシャが国を統治していくために重要な人物であったかを如実に示していました。ヨアシュ王はエリシャのことを神の預言者としてではなく、政治的軍事的ないわゆる肉的な世の指導者としてより頼んでいたことがわかります。当時北イスラエルはアラム(シリア)の脅威にさらされ続けていたからです。
死の病に床にふすエリシャを前に、すっかり弱気になったヨアシュ王に15節、「エリシャが「弓と矢を取りなさい」と言うので、王は弓と矢を取った。エリシャがイスラエルの王に、「弓を手にしなさい」と言うので、彼が弓を手にすると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、「東側の窓を開けなさい」と言った。王は開けると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす」と言ったと、このようにあります。
預言者エリシャも又、「北イスラエル王国において働きを成す事で神に仕える」という信念を持った人だったようであります。エリシャは死の病を患うなかで国の行く末を案じつつ、主のお命じになることを王であるヨアシュに伝えたのです。病室を訪問しますと、励ます側が逆に励まされるというようなことが多々ありますけれども、このエリシャの信仰から滲み出る思い、イスラエルの人々を絶えず執り成してきた人の手のぬくもりというものが、この弱気になったヨアシュを少なからず力づけたことでしょう。
ここに記された「東側」とはアラムの方角を指しています。すなわち戦う方向であります。そこに向かう窓を開けて、矢を射る。それは後ろ向きになっていたヨアシュ王の心の窓を開け、額をあげて、目を向けて成すべき業に向かうべきことを、象徴的に表しているのでしょう。私たちは日常の中で直面する様々な問題に、落ち込んだり、狼狽したり、後ろ向きになったりします。そしてそれはえてして人や世の力に依存したり、頼っているときにそのような心理に陥ってしまうものです。神の人エリシャは祝福の祈りの後、王が自ら信仰を持って外の世界に心を開き、額を上げ、成すべき業にしっかり目を向けて行うようにと促しました。それは今日の神の人のメッセージであります。
さて、エリシャはその「矢を持って来なさい」と命じ、王がそれを持ってくると、今度はそれを「地面を射なさい」と王に命じて言うのですが。すると「王は3度射てもうそれでやめ」てしまったというのですね。「こんなもんで如何でしょうか」と気弱に振り返る王の顔を何だか想像してしまうのでありますが。エリシャのこの「地面を射なさい」とは現在進行形でありますので、信仰の「矢を絶えず、あきらめずに射続ける」ということだったのでありましょう。3度で射るのを辞めた王に対し、聖書記者はここで「神の人は怒って王に言った」と伝えます。それはエリシャ個人としてではなく、神の人として怒りをあらわにしたというのです。「5度、6度と射るべきであった。そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。だが今となっては、3度しかアラムを撃ち破ることができない。」
このくだりのところを読みますときに、いろんな思いが示されるのでありますが。
まず、このイスラエルのヨアシュ王についてですが。11節に「彼は主の目に悪とされることを行い、イスラエルに罪を犯させたネバトの子ヤロブアムの罪を全く離れず、それに従って歩み続けた。」と記されています。つまり、北イスラエルの王として統治する16年の期間、ヨアシュは終始、主の目に悪とされることを行い続けたということです。今日の個所でも預言者エリシャの言葉に始めは従うのでありますが、エリシャの伝えんとする「神への信仰によって勝利を勝ち取っていく」というスピリットが彼には響いていかない。伝わらないのですね。だから「一体このようなことをして何になるのか」と3度程度で辞めてしまったのでしょう。それとは対照的に預言者エリシャは、死の病を患う中、全身全霊をもって王に主の命を伝え続けたのであります。
さて、この個所にはあたかも特定な国を名指しして「滅ぼし尽くす」という聖戦思想が伺えます。旧約聖書には確かに時代的な背景があり、攻め込んで来る異教の国々を武力や軍事力でもって「滅ぼし尽くす」ことが起こったのです。けれども、ここで神の人である預言者エリシャは世の権力や軍事力に依存しなさい。もっと言えば、それら世の力に依り頼んで敵を滅ぼし尽くせと言っているのではないということです。「主の勝利の矢」。それは「神の言葉に聞き従い続ける」。そこから放たれる信仰の矢であり、もたらされる勝利は一国家の勝利というよりも、神の国の勝利、広い意味でいえば、世の力、神に敵対する勢力に対する御神の勝利であります。
イスラエルの王ヨアシュはまあ世の力、軍事力による統制を考えていたのです。ですから預言者エリシャの命じる言葉を主のみ言葉として最後まで聴き従い得なかったのであります。始めにも言いまいたが、王ヨアシュは名実共に力あるエリシャを取りこんで世の覇権のために政治利用しようとしただけだったのです。エリシャもそのことはすでに見通していたことでしょう。エリシャはそういう中で、決して譲ることなくイスラエルと王が主を真の神として生きていくことが、本当の勝利につながる道だと最後の最後まで示し続けたのであります。それはまさに、エリシャが死の病を患う中で全身全霊をもって訴えているメッセージであります。
ひるがえって今、キリスト者として生きる私たちの戦い、それは血肉によるものではなく世の諸霊との戦いだと使徒パウロは言っておりますが。その戦いにおける私どもの勝利は救い主・イエス・キリストにあります。「あなた方には世にあって苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と、そのように言われる主イエス。イエス・キリストこそ私たちの「勝利の矢」であります。キリスト者は血肉で戦うようには召されていません。キリストの救い・真理と愛に満ちたその教えに聞き従うことで世の力や自らの罪と戦い勝利してゆくのです。
人と言うものは、人生の最期、その間際になりますと、大抵何も持つものがなくなっていきますから、そこでほんとうに素にもどると言いますか、その人のホントの姿が現れます。エリシャは死の病を患うようなただ中で、なおも主により頼んで生きることが、勝利の道につながることを証しし続けた人でありました。その預言者としての生涯、「主の勝利の矢」を放ち続けた人なればこそのことです。
私どもにとりましても、イエス・キリストこそ、私たちの罪を滅ぼし、死に打ち勝つために放たれた矢」「神の勝利の矢」であります。「主の勝利の矢」を射続けるものとして、キリストのみ言葉に、絶えず耳を傾け、聞き従い続けてまいりましょう。
エリヤは孤高の人としてイスラエルの王と妥協や協議も一切せず主の預言を語って対決した人でしたが、エリシャはイスラエルの国や王との関わり続けながら、主の預言を語り、非難ばかりでなく、忍耐強く諭し続けた人でありました。
キリスト者は、政教分離なので日本の国やその政治と一切関わるべきではないというような間違った政教分離の考え方がありますが。キリスト者は自分の国や政治に携わる方々に対して関心をもち、見守り、祈り、執り成し、時としては警告を発していくそういう役割といいますか、姿勢は大事だと思います。イギリスからアメリカに渡り開花したバプテスト教会はその精神を大事にしてきたのです。イデオロギーや単なる政治運動としてではなく、主イエスさまのみ言葉に基づいた平和を築く働きのためにキリスト者は召し出されています。