日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

あかし

2011-06-15 16:08:39 | メッセージ
A・T

 「そのままの姿でいいんですよ」ということが、信仰生活を通して与えられたメッセージの一つです。
 
私は今のままではいけない、もっと成長しなければならない、という思いをもっていましたので、このメッセージを与えられたとき、何故、そのままの姿でいいんだろうか、と不思議でありました。また、聖書の教えの中、教会の中ではそれでも良いだろう。でも教会の外の世界ではそうはいかないのではと思いました。実際、私は仕事をしていく中で、たびたび上司や先輩の方から、お前は「今のままではいけない」とアドバイスを頂いてきたものでした。私自身の不出来は別にしても、どうも社会の仕組みは「そのままで良い」とは成っていないように感じられるのです。

私が今のままではいけない、と思ってきたのは、自分自身に不満や不足を感じるからであり、それには大きく二つの理由がありました。子供の頃、父の仕事の都合により、住む場所を何度かかわりました。3つ目の中学校に通うようになった頃、どういうわけか、友達をつくることが難しくなってきました。それまでは友人関係に悩んだことはなく、ごく自然に周りに溶け込んでいけたのに、それができないのです。またそれまでは人の気持ちも考えず、自分の言いたいことやしたいことはなんでもやってしまう人間でしたが、自分の気持ちを押さえ、あまり感情も表に出さないようになりました。今までの自分が、友人に恵まれ、ある程度自分の思うとおりに物事が進んできたのは、自分の魅力でも努力でもなく、たまたま環境の良いところにいただけで、自分自身には何の力もないことを思い知らされました。考えるとその頃から、自分自身があまり好きでなく、自分に不満があり、結果として自信の無さが自分自身の中で浮き彫りにされてきたように思います。

もう一つは家庭のこと、特に父のことがありました。
私の父は長く鬱病をもって生活しており、一年間ずっと仕事に行けず寝込んでいたり、時には出かけたまましばらく帰ってこない、躁の状態のようになったり、何度も何度もその状態を繰り返して、時にどちらの場合でも症状がピークに達したときは、病院にも処方する薬がない、母も私たち子どもを連れて家を出るようにすすめられたこともありました。私から見て父は頭がよく、能力のある人間ですので、世間のお父さん並みに働くことができれば、きっと会社でも大きな力を発揮して、活躍できるだろうなと思ったものでした。ともかくも、自分は誰に頼らなくてもいいように、仕事をもち、生活できるようにしなければ、と考えるようになりました。
 
しかし、自分の力で何でもできるようにならなければ、という思いを持ちながらも、そうすることのできない自分の無力さを感じ、自分に失望するばかりでありました。
そんな中、「放蕩息子」のメッセージに触れる機会が与えられました。といっても、それまで何度も聞いたはずの聖書の一箇所ですが、その時のメッセージは、私にとってはじめて教えられることでした。次男が父親の財産を使い果たし、友達を失い、豚の世話の仕事をしながら、その豚の餌を食べたいと思う程の思いを味わい、父親の家に帰る決心をし、父親はしかるどころが一番よい着物を着せ、お祝いの会まで開いた。という非常に大まかながら、話しは承知していたつもりでしたが、父親は、息子を迎えたとき、「走り寄って」迎えたとあります。当時の人々はめったに走ることはなかったそうで、もし走っている人がいれば、ひどく目立ったはずということです。つまり、父親はいわば自業自得でボロボロになって帰ってきた息子を、人目に晒さないように、走る自分に人々の視線が集中するようにして、息子を迎えた、というメッセージでした。

主のもとに帰るとき、何の資格も、立派な自分も必要ではなく、さらに自分自身を恥とする必要すらない。自分の困難な問題を、自分の力で解決しようとするのではなく、主にお預けし、解決へと導いていただくことは、決して、あきらめ、放棄ではない、安心してお委ねしていいんだと、教えられました。そして、むしろ自分ひとりの力で物事と向き合い、解決しようとすることこそ、罪であることを教えられたのでありました。

それまでの私には、「できない自分」には、否定的な思いしかなかったのですが、できない自分でよい、私にはできないけれども、私を強くしてくださる主イエス・キリストによって、何でもすることができる。私にとって、「できない自分」とは、私を弱くするものではなく、私自身を主に明け渡し、主によって強くして頂くことができるために必要なものである、という思いに変えられました。


「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によ って、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新し い人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架 にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ人への手紙2:14~16)


何故、そのままの姿で良いのか、それは、私の行動や信念によってではなく、一方的な主の憐れみ、十字架によって、すでに罪が赦されているからこそ、であることを教えられました。日々の生活の中で、不安や悩みは今でも尽きることはありませんが、その度に「私があなたを見捨てて一人にはしない!」というメッセージをくりかえしくりかえししていると、おどおどと震えながらも、上を見上げるわずかばかりの勇気が与えられます。そんな時は、目の前の問題が未だ解決していなくても、きっと大丈夫、という平安に心が満たされることがあります。ある牧師先生がおっしゃるには、それこそが、クリスチャンの醍醐味であるそうです。

父の年齢ではふつう精神的な病気は解決しないということですが、治っても治らなくても、きっと大丈夫、そのような人生を歩んできた父でなければ、また支えてきた母や姉でなければ、果たすことのできない役割があり、これまでの生活がこれから高い建物を建てていくための土台であったことを信じています。

私自身の教会生活のスタートは、両親が教会員でありましたので、小さな子どもの頃から始まり、二十歳の年のクリスマスにバプテスマを授かりました。その頃は先に述べたような壁にぶつかったような状態のときではありましたが、礼拝に出席することは、最大の奉仕だと教えられ、決心を与えられました。その頃から、今日まで私の教会生活は、私が何をできなくても、そこにいるだけで喜んでくださる方によって、引っ張られ、
押されながら、歩んできたように思います。

まずしっかりと自分自身が恵まれ、さらに自分が恵まれるだけでなくして、周りの方々とその恵みを分かち合うことのできるような信仰生活を送っていくことができることを願い、ここ大阪教会への入会をさせて頂きたいと思います。
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