宣教 創世記26章15~25節
本日は「井戸を掘り続けた男」と題し、創世記26章よりみ言葉を聴いていきます。
この個所は、先週読みました「信仰の父祖」と言われるアブラハムの息子である「イサク」に関する貴重な物語であります。イスラエルには彼らのような偉大な部族長がいました。創世記にはアブラハムやイサクの子ヤコブに関するエピソードは数多く記されているのでありますが、不思議なことにイサクに関する主なエピソードはこの26章唯一か所なのであります。この個所だけからイサクの人となりを読みとっていくにはいささか難しい気もいたしますが、しかし唯一か所貴重に残されたイサクの物語より、彼の人間性や信仰に聞いていければ思います。
そのイサクについて、彼は父アブラハム同様に、神の「祝福」を賜る者として描かれています。主がイサクに現われ、26章3節「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」と宣言されます。主はさらにイサクに24節で、「恐れてはならない。わたしはあなた共にいる。わたしはあなたを、祝福し、子孫を増やす」とこのようにお語りになりました。
この神の祝福について興味深いのは、5節にあるようにイサクではなく、「アブラハムがわたしの声に聴き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったから」、又24節では「わが僕アブラハムのゆえに」と述べている点であります。イサクに与えられた神の祝福はイサクによるものではなく、アブラハムの信仰によって与えられるのです。その一方で、イサクもまた父と同様主に信頼し、主を礼拝する者として歩んでいくのであります。ここには信仰の継承についての豊かな恵みとチャレンジが投げかけられているように思えます。アブラハムの徹底した信仰とその神への従順さが、イサクに影響を与えたのは確かでありましょう。そういう中でイサクは父の信仰の財産を受け継ぎ、神に従い行く者、祝福を継承していく者とされたのでありましょう。
親の七光という言葉が昔からありますが。イサクも確かに父の偉大さの陰に隠れてしまうような存在だったかも知れません。先ほども申しましたが、創世記は父アブラハムについては多くの記事がありますが、イサクの記事はここだけです。父の威光の陰で、目立たない存在であったイサク。彼はしかしアブラハムの死後、「主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄え、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになる」のであります。すると、ぺリシテ人はそのイサクを妬むようになります。
そして生前に父アブラハムが意気揚々と掘った多くの井戸を、そのぺリシテ人がそれらをことごとくふさいでしまうのであります。
水は生命の源とも言われますが、年間の雨量も少ないパレスチナの地で井戸はどれ程大切なものであったでしょう。私どももつい先頃の震災を通して飲むことのできる水のかけがえのなさを体験したばかりでありますが。イサクの困惑と憤りはいかばかりであったでしょう。
しかし、物語はいわばそこから始まっていくのであります。イサクの信仰のチャレンジの始まりです。イサクはいわば二世の信仰者であります。幼い時から信仰について聞き育った反面、この困難に直面する迄は、それは親の信仰でしかなかったかも知れません。しかし、イサクはこの困難な出来事を通して、その心と信仰が試され、練られて真に祝福を受け継ぐにふさわしい者にされていったのではないでしょうか?
よくクリスチャン一世と二世の違いについて言われたりいたしますが。まあ一世の方の中には魂の飢え渇きや人生の困難な中で、御言と救いに出会い、信仰を持たれた方も多くいらっしゃるでしょう。また二世の方は、小さいときから親に教会へ連れられて福音に触れる中で、その必要を見出していかれたことでしょう。この機会にご自分のことを思い返して御覧になるのもよいでしょう。また信仰の継承について、一世のクリスチャン、又二世のクリスチャンと、それぞれの環境や思いや考え方の違いもあるかも知れません。後ほどの分級で証しや分かち合いをして戴けるとよいと思います。
話を戻しますが、イサクはアブラハムとは又違った信仰のカラーを持っていました。
それを、一言でいえば「忍耐強さ、粘り強さ」といえましょう。本日の記事の「井戸を掘り続けたイサク」の姿からそれを読み取ることができます。ぺリシテ人はかつてアブラハムが僕たちに掘らせた井戸を、ことごとくふさぎ、土で埋め、イサクにこの土地から出て行くように要求しますが、イサクはその地を離れず一角にあるゲラルの谷にとどまります。
それは一重に26章3節「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」という主の約束によるものでした。ゲラルの谷には父アブラハムの井戸がありましたがすでにふさがれていたのでイサクはそれらを再び掘り直していきます。そして豊かな水が湧き出るのであります。イサクは井戸をふさがれようが、その場所から追い出されようが、あきらめません。また別の井戸を掘り直していきます。これは大変な忍耐と辛抱強さがないとできることではありません。今のように重機があるわけではありません。井戸を掘るのはどれ程大変な作業でしょう。しかも猛暑の中、しもべたちと汗水流し何日も何日もかけてやっとのことで水が豊かに湧き出たにも拘わらず、今度はゲラルの羊飼いたちが何と、「この水は我々のものだ」といいがかりをつけ争ってくる。しかしイサクは彼らとも争わず、別の場所に移って井戸を掘り直していくのであります。こういう事が何度も繰り返されたら、争いに発展するのが世の常でありましょう。
けれどもイサクはそんな争いを避けるように場所を変えては井戸を忍耐強く掘り続けるのです。
冒頭申しましたように、井戸は中近東やパレスチナ地方ではとても貴重なものです。
水は命でありました。井戸がふさがれるということは、命の水がふさがれるということです。族長としてその事に、誰よりも心を痛めたのはイサクであり、命の水の井戸掘りに祈りつつ心を砕いたのもイサクでありました。それは一重に、「この地に留まるならあなたを祝福する」と言われた主の約束への信仰と信頼のゆえであります。そこに彼の信仰者としてのスピリットが読み取れます。
イサクはぺリシテ人たちと水利権の正当性をめぐって争うこともできたと思うのですが、彼は決して争わず、せっかく掘り当てた井戸を明け渡してしまうのです。それについて、彼は確かに柔和な人物であったともいえますが。ここまできますと気前がよいお人よしという域を超えているでしょう。それはただイサクが柔和な人であったということ以上に、神の人としてのイサクの信仰がそうさせたのではないでしょうか。「命の水は誰のものでもない。人が所有できるものでもない。ただ神からの賜物である」という強い確信があったからではないでしょうか?
その後、26節以降において、あのイサクを追い出したぺリシテ人の指導者アビメレクが参謀や軍隊の長と共に、イサクのもとを訪ねてきます。そこでイサクは、「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか」と尋ねると、彼らは「主があなたと共におられることがよく分かったからです。我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです」と、和平協定の申し出に来たというのです。そこでイサクは「彼らの為に祝宴を催し、共に飲み食いした」とありますが。この下りを読むと真に不思議な思いにされます。14節にあるように「妬み」によってイサクを追い払ったぺリシテ人たちのかたくなな敵対心が雪解けをし、和解へと向かわせたのか?
そこには、幾度埋められても、排除されても、祈りつつ井戸を掘り続けるイサクの信仰者としての姿が彼らの脳裏に焼き付けられていったということがあるのではないでしょうか。そしてまた、実際そんな状況の中でも、イサクの群は守られ祝されていくのです。ぺリシテ人たちそのようなイサクとその祝福の姿を目の当たりにして、「神が彼らと共にいる」ことを思い知ったのではないでしょうか。井戸を掘り続けた男イサクは、結果的にゲラルの人たち、広くいえばぺリシテ人のためにも命の水である井戸を引く働きをなしたことになります。イサクは自分を妬み憎んでいたぺリシテ人にまで祝福を引き起こす存在となったのであります。そこにイサクの信仰のカラーといいましょうか、彼に与えられた祝福があったのです。その祝福は周囲にいる人々、いな彼を憎み、妬むような者にさえ、その祝福をもたらし、神の恵みを覚え、分かち合うというものであったのです。これがイサクの信仰のカラーといいましょうか、賜物であったと聖書は伝えます。
私どももまた、神の恵みにより信仰によってこのスピリットを受け継ぐものとされていることを今日覚えましょう。本日のテーマの「今日の井戸を掘り続ける男」と聞いてあのペシャワール会の中村哲医師を連想された方もいらっしゃるでしょう。2000年6月の段階でアフガニスタンでは1200万人が大旱魃に被災、400万人が飢餓線上にある中、診療所を作り、井戸を掘り続け、そしてさらに灌漑事業や農業事業によって、アフガンの人たちが自立できるように支援活動をされているペシャワール会の中村哲医師のことです。
「医者井戸を掘る」(石風車)という中村医師についてのご本を読ませて頂きました。ペシャワール会のホームページのデ―タによれば、2000年7月に水源確保のための井戸掘りが開始されてから2005年には飲料可能な井戸が1226にも達したということです。新規の井戸もあったそうですが、その中には今日のイサクのようにかつて掘られた井戸・涸れ井戸を掘り直したというのもかなりの数であったということですが。ご本の中で、中村医師は「とにかく生きておれ、病気は後で治す」と、まず何よりも水源の確保こそが、人が生きるために必要なものだということで、井戸を掘り続けられたという事です。
米軍の空爆によって度々事業の中断を余儀なくされ、国外退去命令により日本人スタッフは現地から離れなければならなくなったこともある中で、実に悲しい出来事も起こりましたが、それを乗り越えながら、現地の人々と支援する人たちの祈りと努力により井戸掘りから、次に灌漑用水路が引かれ、さらに農業の事業が進められ、収穫された穀物や野菜の写真が掲載されていたのを見て、ただ感動しました。
最後に、私は本日の「井戸を掘り続ける男・イサク」の姿から、二コリント5章18節「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」との、み言葉が示されました。イサクが井戸を掘り続けられたのは、命の水の源が誰のものであるのかを知っていたからです。私どもも、又キリストという生ける命の水の源なるお方を通して、神との和解を得、また和解のために務め仕えるよう召されています。それぞれ、主に用いられ、遣わされてまいりましょう。
本日は「井戸を掘り続けた男」と題し、創世記26章よりみ言葉を聴いていきます。
この個所は、先週読みました「信仰の父祖」と言われるアブラハムの息子である「イサク」に関する貴重な物語であります。イスラエルには彼らのような偉大な部族長がいました。創世記にはアブラハムやイサクの子ヤコブに関するエピソードは数多く記されているのでありますが、不思議なことにイサクに関する主なエピソードはこの26章唯一か所なのであります。この個所だけからイサクの人となりを読みとっていくにはいささか難しい気もいたしますが、しかし唯一か所貴重に残されたイサクの物語より、彼の人間性や信仰に聞いていければ思います。
そのイサクについて、彼は父アブラハム同様に、神の「祝福」を賜る者として描かれています。主がイサクに現われ、26章3節「わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」と宣言されます。主はさらにイサクに24節で、「恐れてはならない。わたしはあなた共にいる。わたしはあなたを、祝福し、子孫を増やす」とこのようにお語りになりました。
この神の祝福について興味深いのは、5節にあるようにイサクではなく、「アブラハムがわたしの声に聴き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったから」、又24節では「わが僕アブラハムのゆえに」と述べている点であります。イサクに与えられた神の祝福はイサクによるものではなく、アブラハムの信仰によって与えられるのです。その一方で、イサクもまた父と同様主に信頼し、主を礼拝する者として歩んでいくのであります。ここには信仰の継承についての豊かな恵みとチャレンジが投げかけられているように思えます。アブラハムの徹底した信仰とその神への従順さが、イサクに影響を与えたのは確かでありましょう。そういう中でイサクは父の信仰の財産を受け継ぎ、神に従い行く者、祝福を継承していく者とされたのでありましょう。
親の七光という言葉が昔からありますが。イサクも確かに父の偉大さの陰に隠れてしまうような存在だったかも知れません。先ほども申しましたが、創世記は父アブラハムについては多くの記事がありますが、イサクの記事はここだけです。父の威光の陰で、目立たない存在であったイサク。彼はしかしアブラハムの死後、「主の祝福を受けて、豊かになり、ますます富み栄え、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つようになる」のであります。すると、ぺリシテ人はそのイサクを妬むようになります。
そして生前に父アブラハムが意気揚々と掘った多くの井戸を、そのぺリシテ人がそれらをことごとくふさいでしまうのであります。
水は生命の源とも言われますが、年間の雨量も少ないパレスチナの地で井戸はどれ程大切なものであったでしょう。私どももつい先頃の震災を通して飲むことのできる水のかけがえのなさを体験したばかりでありますが。イサクの困惑と憤りはいかばかりであったでしょう。
しかし、物語はいわばそこから始まっていくのであります。イサクの信仰のチャレンジの始まりです。イサクはいわば二世の信仰者であります。幼い時から信仰について聞き育った反面、この困難に直面する迄は、それは親の信仰でしかなかったかも知れません。しかし、イサクはこの困難な出来事を通して、その心と信仰が試され、練られて真に祝福を受け継ぐにふさわしい者にされていったのではないでしょうか?
よくクリスチャン一世と二世の違いについて言われたりいたしますが。まあ一世の方の中には魂の飢え渇きや人生の困難な中で、御言と救いに出会い、信仰を持たれた方も多くいらっしゃるでしょう。また二世の方は、小さいときから親に教会へ連れられて福音に触れる中で、その必要を見出していかれたことでしょう。この機会にご自分のことを思い返して御覧になるのもよいでしょう。また信仰の継承について、一世のクリスチャン、又二世のクリスチャンと、それぞれの環境や思いや考え方の違いもあるかも知れません。後ほどの分級で証しや分かち合いをして戴けるとよいと思います。
話を戻しますが、イサクはアブラハムとは又違った信仰のカラーを持っていました。
それを、一言でいえば「忍耐強さ、粘り強さ」といえましょう。本日の記事の「井戸を掘り続けたイサク」の姿からそれを読み取ることができます。ぺリシテ人はかつてアブラハムが僕たちに掘らせた井戸を、ことごとくふさぎ、土で埋め、イサクにこの土地から出て行くように要求しますが、イサクはその地を離れず一角にあるゲラルの谷にとどまります。
それは一重に26章3節「あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」という主の約束によるものでした。ゲラルの谷には父アブラハムの井戸がありましたがすでにふさがれていたのでイサクはそれらを再び掘り直していきます。そして豊かな水が湧き出るのであります。イサクは井戸をふさがれようが、その場所から追い出されようが、あきらめません。また別の井戸を掘り直していきます。これは大変な忍耐と辛抱強さがないとできることではありません。今のように重機があるわけではありません。井戸を掘るのはどれ程大変な作業でしょう。しかも猛暑の中、しもべたちと汗水流し何日も何日もかけてやっとのことで水が豊かに湧き出たにも拘わらず、今度はゲラルの羊飼いたちが何と、「この水は我々のものだ」といいがかりをつけ争ってくる。しかしイサクは彼らとも争わず、別の場所に移って井戸を掘り直していくのであります。こういう事が何度も繰り返されたら、争いに発展するのが世の常でありましょう。
けれどもイサクはそんな争いを避けるように場所を変えては井戸を忍耐強く掘り続けるのです。
冒頭申しましたように、井戸は中近東やパレスチナ地方ではとても貴重なものです。
水は命でありました。井戸がふさがれるということは、命の水がふさがれるということです。族長としてその事に、誰よりも心を痛めたのはイサクであり、命の水の井戸掘りに祈りつつ心を砕いたのもイサクでありました。それは一重に、「この地に留まるならあなたを祝福する」と言われた主の約束への信仰と信頼のゆえであります。そこに彼の信仰者としてのスピリットが読み取れます。
イサクはぺリシテ人たちと水利権の正当性をめぐって争うこともできたと思うのですが、彼は決して争わず、せっかく掘り当てた井戸を明け渡してしまうのです。それについて、彼は確かに柔和な人物であったともいえますが。ここまできますと気前がよいお人よしという域を超えているでしょう。それはただイサクが柔和な人であったということ以上に、神の人としてのイサクの信仰がそうさせたのではないでしょうか。「命の水は誰のものでもない。人が所有できるものでもない。ただ神からの賜物である」という強い確信があったからではないでしょうか?
その後、26節以降において、あのイサクを追い出したぺリシテ人の指導者アビメレクが参謀や軍隊の長と共に、イサクのもとを訪ねてきます。そこでイサクは、「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか」と尋ねると、彼らは「主があなたと共におられることがよく分かったからです。我々とあなたとの間で誓約を交わし、あなたと契約を結びたいのです」と、和平協定の申し出に来たというのです。そこでイサクは「彼らの為に祝宴を催し、共に飲み食いした」とありますが。この下りを読むと真に不思議な思いにされます。14節にあるように「妬み」によってイサクを追い払ったぺリシテ人たちのかたくなな敵対心が雪解けをし、和解へと向かわせたのか?
そこには、幾度埋められても、排除されても、祈りつつ井戸を掘り続けるイサクの信仰者としての姿が彼らの脳裏に焼き付けられていったということがあるのではないでしょうか。そしてまた、実際そんな状況の中でも、イサクの群は守られ祝されていくのです。ぺリシテ人たちそのようなイサクとその祝福の姿を目の当たりにして、「神が彼らと共にいる」ことを思い知ったのではないでしょうか。井戸を掘り続けた男イサクは、結果的にゲラルの人たち、広くいえばぺリシテ人のためにも命の水である井戸を引く働きをなしたことになります。イサクは自分を妬み憎んでいたぺリシテ人にまで祝福を引き起こす存在となったのであります。そこにイサクの信仰のカラーといいましょうか、彼に与えられた祝福があったのです。その祝福は周囲にいる人々、いな彼を憎み、妬むような者にさえ、その祝福をもたらし、神の恵みを覚え、分かち合うというものであったのです。これがイサクの信仰のカラーといいましょうか、賜物であったと聖書は伝えます。
私どももまた、神の恵みにより信仰によってこのスピリットを受け継ぐものとされていることを今日覚えましょう。本日のテーマの「今日の井戸を掘り続ける男」と聞いてあのペシャワール会の中村哲医師を連想された方もいらっしゃるでしょう。2000年6月の段階でアフガニスタンでは1200万人が大旱魃に被災、400万人が飢餓線上にある中、診療所を作り、井戸を掘り続け、そしてさらに灌漑事業や農業事業によって、アフガンの人たちが自立できるように支援活動をされているペシャワール会の中村哲医師のことです。
「医者井戸を掘る」(石風車)という中村医師についてのご本を読ませて頂きました。ペシャワール会のホームページのデ―タによれば、2000年7月に水源確保のための井戸掘りが開始されてから2005年には飲料可能な井戸が1226にも達したということです。新規の井戸もあったそうですが、その中には今日のイサクのようにかつて掘られた井戸・涸れ井戸を掘り直したというのもかなりの数であったということですが。ご本の中で、中村医師は「とにかく生きておれ、病気は後で治す」と、まず何よりも水源の確保こそが、人が生きるために必要なものだということで、井戸を掘り続けられたという事です。
米軍の空爆によって度々事業の中断を余儀なくされ、国外退去命令により日本人スタッフは現地から離れなければならなくなったこともある中で、実に悲しい出来事も起こりましたが、それを乗り越えながら、現地の人々と支援する人たちの祈りと努力により井戸掘りから、次に灌漑用水路が引かれ、さらに農業の事業が進められ、収穫された穀物や野菜の写真が掲載されていたのを見て、ただ感動しました。
最後に、私は本日の「井戸を掘り続ける男・イサク」の姿から、二コリント5章18節「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」との、み言葉が示されました。イサクが井戸を掘り続けられたのは、命の水の源が誰のものであるのかを知っていたからです。私どもも、又キリストという生ける命の水の源なるお方を通して、神との和解を得、また和解のために務め仕えるよう召されています。それぞれ、主に用いられ、遣わされてまいりましょう。