「復活の希望」 Ⅰテサロニケ4章13~18節
イースターおめでとうございます。主イエスは十字架の苦難とその死をとおられた後、眠った者の最初の方としてよみがえられた、復活なさいました。そしてその主は、本日の聖書にありますように、再臨の主として、再び来られて主を信じる者と相見えてくださる、と聖書は語ります。
先週私は、26日から28日の間の3日間、福岡地方連合少年少女会・春の修養会(平尾教会・大名クロスガーデン)の講演で福岡に出張したのでありますが。その間に思ってもみなかった2名の方々が天に召されました。まず、26日の朝8時過ぎ頃でしたが、電話があり受話器を取ると、以前礼拝の宣教でも触れた、Y兄の奥様から、「先生、主人が零時過ぎに亡くなりました。助けて下さい」という声でした。もう私は唖然としました。一時的に落ち着いたので退院されてご自宅に戻っておられて、ご様態もよかったと伺っていたものでしたから。ところが、急にご自宅で倒れられて、救急病院に搬送されるも、そのまま意識が戻らず亡くなったというのです。実は、この奥様から「もし主人が亡くなった場合は、ぜひキリスト教式でお葬儀をあげてください」と頼まれ、私にできることはやらせてもらいます、と約束していたのです。ただ一つだけ、26日~28日は福岡に出張に行くのでこの3日間に万が一のことがあれば、私は司式をすることができません。ただ私の知り合いの信頼できる牧師にお願いして、キリスト教式でお葬儀をして戴くようにします、とそのようにも伝えて了解してもらっていたのです。その万が一の事態が起こるとは、私も想定していなかったものですから、さすがに「うわ、どうしよう」と、大変戸惑ったわけです。それで、心静めて祈りながら示されたのが、S牧師でした。関西地方連合で2年間、会長と副会長というお交わりを戴く中で、「この牧師ならお願いできる」という思いが与えられ、ほんとうに突然でしたけれどお電話すると、「ああ、福岡に出張で大変でしょう。わたしでよければお葬儀のこと行なわせてもらうよ。心おきなく福岡にいっておいでよ」と、S牧師から優しく何ともあり難い言葉をかけて戴いたのですね。ほんとうに私も救われた思いでした。そうして出張から帰った朝に、Sさんの奥様にお電話をし、「どうでしたか?」とお尋ねしてみますと、受話器の向こうから、大きな声で「先生ほんとうによい葬儀をして戴きました。主人も喜んでいると思います。ありがとうございました」という言葉が返ってきました。はあ、ほんとうにまたまた、安堵と神さまのすごいお導きを実感しました。S牧師にはただ感謝であります。
そして、もう一人の方が亡くなられたという知らせを聞いたのが、福岡での春の修養会の二日目の朝、それは友人のN牧師から伺って知りました。その亡くなられた方というのは、前日の講演で話をした「私が小学生の時に初めて教会に誘ってくれた友人」のお母さんでした。これも全く思っていなかったことだったので、頭がまっしろになりそうでしたが。すぐ後にもう一本講演を控えていましたので、心を静めて講演に集中し、何とか無事終えることができましたが。それで、その前夜式が修養会最終日の午後7時から小倉にあるシオン山教会で行われるということになり、これだったら帰りの新幹線の時間を遅らせれば前夜式に行けるということを知ったのです。ほんとうに不思議に思いましたのは、なんでこの福岡に来ている丁度その時に、私が主イエスと出会うきっかけとなった友人の話をしたその時に、私にはこれは偶然じゃあない。神さまが大事なお母さんを亡くした友のところに行くよう仲介をくださったのではないか、とそう思えたのです。彼と私とは親友であり、小中高時代はずっと彼の家にあがりこんでは家族のようにご飯をよばれ、よく泊めてもらい、彼のお母さまが「うちの三番目の息子」といってくれて、いつも暖かく迎えてくださっていた事どもが、前夜式の間中思い出されて涙がでました。前夜式でその友は涙ひとつ流すことなく、遺族代表として淡々と入院からの経過報告をされ、立派な挨拶をしました。前夜式が終わって私は真先に彼のもとに行って声をかけたのですが。彼曰く、「今は母が亡くなったという実感がないんだろうね」といっていましたが。言葉もありませんでした。お母さまが主イエスさまの約束の希望をもって天に旅立ったこと。又、ご家族がいつの日か必ず訪れる主の御もとにおける再会のときを信じておられること。それは私にとりましても大きな慰めとなりました。心の中で祈って小倉を後に帰ってまいりました。帰宅すると翌29日の午前零時を回っていました。
死はこの地上においての最期の寂しく、辛いお別れとなりますけれども、しかし活ける者、死ぬ者すべてを司り、守っておられる神さまの導きが確かに、そして豊かにあるということを今回また改めて強く感じることができました。
本日の聖書のお言葉は私たちにこう語りかけます。
13節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っていてほしい」。
私たちにとって死の別れはほんとうに辛く、寂しいものであります。特に身近な家族が亡くなるということはそうであります。けれども、聖書は言うのです。「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないでほしい」。
ここに「眠りについた」と書かれてあります。実はイエスさまは死を眠りと言われた(マルコ5章39節)のです。つまり主イエス・キリストを信じる者にとって、死は「覚まされる」ための一時的眠りであるのです。ここに信仰とその希望をもっている人と持っていな人の違いが大きくあります。
このテサロニケの信徒たちが生きていた時代のことを少しここで触れておきたいと思いますが。彼らは主イエスが間もなく再臨されると信じ、その日を迎えることを大きな希望として抱いていたのであります。ところが、その信徒たちの中に、主イエスの再臨が起こる前に死んだ人はどうなるのだろうかと不安や恐れをもつ者。又、せっかく福音を信じて罪ゆるされ、苦難に耐え忍んできたのに死んでしまえば、再臨の主ともう会えなくなり、その祝福のときに与ることができないと嘆き戸惑う者がいたようです。
この手紙を書いたパウロは、そういう信徒たちが嘆き悲しむことがないようにと、主イエス・キリストを信じる者に与えられている「希望」について語っています。
その希望は「主イエスが十字架の苦難と死をとおって、復活された」という信仰にあります。たとえ主イエスを信じる者が主の再臨の前に死んだとしても、14節にありますように「神は主イエスが復活されたのと同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。アーメン。神は生きるも、死ぬも、滅びも、再生もすべて司っておられるお方なのです。
既に眠った者については、復活の主イエスさまと一緒に再臨の時を迎えることができる「希望」がある。それはいまだ地上におかれている私たちにとっての再会の希望でもあります。
又、ここでパウロは「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引きあげられます」「私たちはいつまでも主と共にいることになります」と述べています。
ここには、主を信じて眠りについた者、死んだ者が生きている者たちよりも先に復活に与るという大きな希望が語られ、さらに主の再臨の時に生きている者も又、復活に与った者と一緒に引きあげられて、「いつまでも主と共にいる」という希望が語られています。
まあこの空中で出会うとか、雲に包まれて引きあげられるというような記述を読みますと、おとぎ話や絵空事のように思われる方もおられるかも知れませんが。まあ物理的にどのような現象として現われるかはわかりませんけれども。聖書の神がお造りになったこの世界は不思議に満ちています。私たちも日常の中で大小の奇跡を経験いたします。まあ「神さまは生きて私をこういうかたちで導いてくださっておられるんだなあ」「ああ神さまは生きておられる」と、そう感じられる瞬間、瞬間があり、よって私の人生は偶然などではなく、神さまの御手の中で持ち運ばれているのだ、という不思議に気づかせてくれます。お話しましたように、3日間のうちに2名もの方が天に召されるというその出来事に直面する中、ほんとうに「主は生きておられる」「すべてを導いてくださっておられる」ということを知らされたことでありますが。私にとりましてそれは、「神のラッパが鳴り響く」ときが、ほんのさきにまで訪れているしるしのような気がしてならないのであります。
今日はイースター、十字架の苦難と死をとおり、復活された主イエス・キリストを祝う日です。それは又、この主イエスを信じる人が、主と共に復活することができるという希望を心から感謝をもっておぼえる日でもあります。
すでに主を信じあゆんでおられる皆さま、今日のこの御言葉をしっかりにぎって希望をもって日々を大切にあゆんでまいりましょう。又、まだ主の福音、主の救いについて信じるに至っておられない方は、ぜひこれからも引き続き主の福音、主の救いを求めて教会の礼拝や祈祷会、聖書の学び会に続けておいでください。きっと、神さまの導きを感じ、主が生きておられることを知る日が訪れることでしょう。
最後にヨハネによる福音書6章39節~40節の御言葉を読んで終わります。
新約聖書(新共同訳p.175)
主イエスのお言葉です。「わたしたちをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えて下さった人を一人も失わないで、終りの日に復活させる事である。わたしの父の御心とは、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終りの日に復活させる事だからである。」
イースターおめでとうございます。主イエスは十字架の苦難とその死をとおられた後、眠った者の最初の方としてよみがえられた、復活なさいました。そしてその主は、本日の聖書にありますように、再臨の主として、再び来られて主を信じる者と相見えてくださる、と聖書は語ります。
先週私は、26日から28日の間の3日間、福岡地方連合少年少女会・春の修養会(平尾教会・大名クロスガーデン)の講演で福岡に出張したのでありますが。その間に思ってもみなかった2名の方々が天に召されました。まず、26日の朝8時過ぎ頃でしたが、電話があり受話器を取ると、以前礼拝の宣教でも触れた、Y兄の奥様から、「先生、主人が零時過ぎに亡くなりました。助けて下さい」という声でした。もう私は唖然としました。一時的に落ち着いたので退院されてご自宅に戻っておられて、ご様態もよかったと伺っていたものでしたから。ところが、急にご自宅で倒れられて、救急病院に搬送されるも、そのまま意識が戻らず亡くなったというのです。実は、この奥様から「もし主人が亡くなった場合は、ぜひキリスト教式でお葬儀をあげてください」と頼まれ、私にできることはやらせてもらいます、と約束していたのです。ただ一つだけ、26日~28日は福岡に出張に行くのでこの3日間に万が一のことがあれば、私は司式をすることができません。ただ私の知り合いの信頼できる牧師にお願いして、キリスト教式でお葬儀をして戴くようにします、とそのようにも伝えて了解してもらっていたのです。その万が一の事態が起こるとは、私も想定していなかったものですから、さすがに「うわ、どうしよう」と、大変戸惑ったわけです。それで、心静めて祈りながら示されたのが、S牧師でした。関西地方連合で2年間、会長と副会長というお交わりを戴く中で、「この牧師ならお願いできる」という思いが与えられ、ほんとうに突然でしたけれどお電話すると、「ああ、福岡に出張で大変でしょう。わたしでよければお葬儀のこと行なわせてもらうよ。心おきなく福岡にいっておいでよ」と、S牧師から優しく何ともあり難い言葉をかけて戴いたのですね。ほんとうに私も救われた思いでした。そうして出張から帰った朝に、Sさんの奥様にお電話をし、「どうでしたか?」とお尋ねしてみますと、受話器の向こうから、大きな声で「先生ほんとうによい葬儀をして戴きました。主人も喜んでいると思います。ありがとうございました」という言葉が返ってきました。はあ、ほんとうにまたまた、安堵と神さまのすごいお導きを実感しました。S牧師にはただ感謝であります。
そして、もう一人の方が亡くなられたという知らせを聞いたのが、福岡での春の修養会の二日目の朝、それは友人のN牧師から伺って知りました。その亡くなられた方というのは、前日の講演で話をした「私が小学生の時に初めて教会に誘ってくれた友人」のお母さんでした。これも全く思っていなかったことだったので、頭がまっしろになりそうでしたが。すぐ後にもう一本講演を控えていましたので、心を静めて講演に集中し、何とか無事終えることができましたが。それで、その前夜式が修養会最終日の午後7時から小倉にあるシオン山教会で行われるということになり、これだったら帰りの新幹線の時間を遅らせれば前夜式に行けるということを知ったのです。ほんとうに不思議に思いましたのは、なんでこの福岡に来ている丁度その時に、私が主イエスと出会うきっかけとなった友人の話をしたその時に、私にはこれは偶然じゃあない。神さまが大事なお母さんを亡くした友のところに行くよう仲介をくださったのではないか、とそう思えたのです。彼と私とは親友であり、小中高時代はずっと彼の家にあがりこんでは家族のようにご飯をよばれ、よく泊めてもらい、彼のお母さまが「うちの三番目の息子」といってくれて、いつも暖かく迎えてくださっていた事どもが、前夜式の間中思い出されて涙がでました。前夜式でその友は涙ひとつ流すことなく、遺族代表として淡々と入院からの経過報告をされ、立派な挨拶をしました。前夜式が終わって私は真先に彼のもとに行って声をかけたのですが。彼曰く、「今は母が亡くなったという実感がないんだろうね」といっていましたが。言葉もありませんでした。お母さまが主イエスさまの約束の希望をもって天に旅立ったこと。又、ご家族がいつの日か必ず訪れる主の御もとにおける再会のときを信じておられること。それは私にとりましても大きな慰めとなりました。心の中で祈って小倉を後に帰ってまいりました。帰宅すると翌29日の午前零時を回っていました。
死はこの地上においての最期の寂しく、辛いお別れとなりますけれども、しかし活ける者、死ぬ者すべてを司り、守っておられる神さまの導きが確かに、そして豊かにあるということを今回また改めて強く感じることができました。
本日の聖書のお言葉は私たちにこう語りかけます。
13節「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っていてほしい」。
私たちにとって死の別れはほんとうに辛く、寂しいものであります。特に身近な家族が亡くなるということはそうであります。けれども、聖書は言うのです。「既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないでほしい」。
ここに「眠りについた」と書かれてあります。実はイエスさまは死を眠りと言われた(マルコ5章39節)のです。つまり主イエス・キリストを信じる者にとって、死は「覚まされる」ための一時的眠りであるのです。ここに信仰とその希望をもっている人と持っていな人の違いが大きくあります。
このテサロニケの信徒たちが生きていた時代のことを少しここで触れておきたいと思いますが。彼らは主イエスが間もなく再臨されると信じ、その日を迎えることを大きな希望として抱いていたのであります。ところが、その信徒たちの中に、主イエスの再臨が起こる前に死んだ人はどうなるのだろうかと不安や恐れをもつ者。又、せっかく福音を信じて罪ゆるされ、苦難に耐え忍んできたのに死んでしまえば、再臨の主ともう会えなくなり、その祝福のときに与ることができないと嘆き戸惑う者がいたようです。
この手紙を書いたパウロは、そういう信徒たちが嘆き悲しむことがないようにと、主イエス・キリストを信じる者に与えられている「希望」について語っています。
その希望は「主イエスが十字架の苦難と死をとおって、復活された」という信仰にあります。たとえ主イエスを信じる者が主の再臨の前に死んだとしても、14節にありますように「神は主イエスが復活されたのと同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」。アーメン。神は生きるも、死ぬも、滅びも、再生もすべて司っておられるお方なのです。
既に眠った者については、復活の主イエスさまと一緒に再臨の時を迎えることができる「希望」がある。それはいまだ地上におかれている私たちにとっての再会の希望でもあります。
又、ここでパウロは「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引きあげられます」「私たちはいつまでも主と共にいることになります」と述べています。
ここには、主を信じて眠りについた者、死んだ者が生きている者たちよりも先に復活に与るという大きな希望が語られ、さらに主の再臨の時に生きている者も又、復活に与った者と一緒に引きあげられて、「いつまでも主と共にいる」という希望が語られています。
まあこの空中で出会うとか、雲に包まれて引きあげられるというような記述を読みますと、おとぎ話や絵空事のように思われる方もおられるかも知れませんが。まあ物理的にどのような現象として現われるかはわかりませんけれども。聖書の神がお造りになったこの世界は不思議に満ちています。私たちも日常の中で大小の奇跡を経験いたします。まあ「神さまは生きて私をこういうかたちで導いてくださっておられるんだなあ」「ああ神さまは生きておられる」と、そう感じられる瞬間、瞬間があり、よって私の人生は偶然などではなく、神さまの御手の中で持ち運ばれているのだ、という不思議に気づかせてくれます。お話しましたように、3日間のうちに2名もの方が天に召されるというその出来事に直面する中、ほんとうに「主は生きておられる」「すべてを導いてくださっておられる」ということを知らされたことでありますが。私にとりましてそれは、「神のラッパが鳴り響く」ときが、ほんのさきにまで訪れているしるしのような気がしてならないのであります。
今日はイースター、十字架の苦難と死をとおり、復活された主イエス・キリストを祝う日です。それは又、この主イエスを信じる人が、主と共に復活することができるという希望を心から感謝をもっておぼえる日でもあります。
すでに主を信じあゆんでおられる皆さま、今日のこの御言葉をしっかりにぎって希望をもって日々を大切にあゆんでまいりましょう。又、まだ主の福音、主の救いについて信じるに至っておられない方は、ぜひこれからも引き続き主の福音、主の救いを求めて教会の礼拝や祈祷会、聖書の学び会に続けておいでください。きっと、神さまの導きを感じ、主が生きておられることを知る日が訪れることでしょう。
最後にヨハネによる福音書6章39節~40節の御言葉を読んで終わります。
新約聖書(新共同訳p.175)
主イエスのお言葉です。「わたしたちをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えて下さった人を一人も失わないで、終りの日に復活させる事である。わたしの父の御心とは、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終りの日に復活させる事だからである。」