日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

主が示される道を歩もう

2013-04-28 15:26:34 | メッセージ
宣教 イザヤ書2章1~5節


一昨日5月3日は憲法記念日でありましたが。今政府や政権与党による憲法改正への動きが夏の参議院選挙に向け慌ただしくなってきています。今論点となっている96条の改正案についてですが、96条では「憲法を変えるには国会議員の賛成3分の2以上が必要」となっていますが、それを2分の1にすることで憲法そのものを変えやすくしていく、といった思惑があるようです。その先には9条を変え「国防軍」を設置して「戦争のできる体制を作る」ということがあります。もしそれらの動きが進んでいって憲法の精神と本質が根幹から変えられていく時、日本はどんな国になっていくのでしょうか。憲法はそもそも政治権力や国家の暴走を防ぎ、個人の人権や生存権を守り、尊重するために作られました。かつての日本国軍が推し進めた侵略戦争の反省に立っています。ところがその憲法を「個々人」の言動を律するものに変えよう、というのが政権与党の憲法草案であります。憲法の精神や本質とも言うべき個人の尊重が塗り替えられてしまうことは、政治の世界のことというより、私たちひとり一人や隣人の命や信教の自由をも脅かす大きな問題であるということを、私たちは少なくとも知っておく必要があります。
政治経済と何かと不安のつきないような今の日本の状況でありますが、国民をぐいぐいと引っ張ってくれるリーダーの到来が必要だという市民の声を聞きます。だから国際貢献として軍事力や国防軍を政治主導でという政権与党の声を聞きます。が、それは危うい考えではないでしょうか。戦時中の体制も国民を国家権力が取り込むかたちでできていったのです。皆さまにもそれぞれにさまざまな考えやご意見がおありでしょう。私たちの主は何とおっしゃっているのか。先程読んでいただいたイザヤ書2章の御言葉から聞いていきたいと思います。

はじめに、イザヤは北と南に分団された南のユダ王国の祭司でありましたが。紀元前736年頃に神の召命を受けおおよそ35年間預言者として活動したといわれています。彼の生まれ育った時代はユダの国は高度成長を遂げ繁栄いたしますが、次第にその繁栄の陰でゆがみが生じ、階級化による貧富の差の拡大、貧しい者や弱い者が虐げられるような社会的問題が生じていたのです。1章16~17節には「おまえたちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目から取り除け。悪を行うことをやめ、善を行うことを学び。裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」とあります。23節にも「支配者らは無慈悲で、盗人の仲間になり、皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。孤児の権利は守れず、やもめの訴えは取り上げられない」と、その腐敗した社会の現状を憂う主の御声が記されています。又小さなユダの国は常に近隣諸国との緊張関係にさらされていたがゆえに大国に頼り同盟関係を結び、軍事力や武力による保護を見返りに得るという政治戦略が敷かれていくのであります。
そういったユダの国の状況を目の当たりにしたイザヤは、終わりの日、すなわち神の審判の日が近いことを確信いたします。「罪深く悔改めようとしないユダの国に審判を下される日が来る」「ただ主なる神に信頼することによってのみ、王や民は存続することができる」との神託をイザヤはユダの国において告げていくのであります。

イザヤはこれらユダの社会に蔓延する富の不公正や力や役割を失い形骸化する宗教の衰退を指摘します。神を畏れ敬う心が失われていき、すべてが神ではなく人間と利権のための祭りごとになっていくとき、正義や命の尊厳が軽んじられ、武力や経済力に依存した社会に傾いていく。それは現在の日本にも同様のことが言えるのではないでしょうか。今日の時代においても信仰と宗教の果たすべき役割は決して小さなものではありません。
又、イザヤはユダの大国との同盟関係による軍事力増強の根本的問題について、王や民の虚しい祭りや捧げものに対する主の嘆きと憂いを伝え、主に立ち返り、畏れをもって律法の精神を取戻すように訴えます。2章22節にあるように「人間に頼るのはやめよ、鼻で息をしているだけのものに」と、大国や軍事力に優る主の力にこそ信頼することの必要を説くのです。しかし、このようなイザヤの訴えは、為政者である王やユダの宗教家、さらに民にも聞き入れられません。それでもイザヤはなおその訴えをやめません。ユダの人々が再び神の民として、その信仰と主の配慮に満ちた戒めの御言葉に生きる生活を取戻し、裁きを免れて命を得ることをイザヤは何よりも強く願っていたからです。
けれども誰よりもそのユダの国と民のために心痛め、苦悩しておられるのは父なる神さまご自身であったのではないでしょうか。残念なことにイザヤの警告に耳をかそうとしなかったユダの国はその預言の通り、バビロ二ア帝国によって滅びることになるのであります。しかし、イザヤの終末の預言には神の審判と共に、来るべき神の平和が示されているのであります。それが本日の2章のところであります。小見出に「終末の平和」と付けられています。
預言どおりユダの国は神の審判の日に滅ばされるのでありますが、この2章の預言はそれでもなおもたらされる「終りの日の平和」について述べています。それは具体的に11章に記されている「平和の王の到来によって」実現されると預言されているのであります。  
ユダの国が倒れた跡に残された切株の中に芽生えるひこばえ、その希望のような真の平和の王。それは切り株、すなわち倒された中に残されて芽生え育つ真実な神の民、その中から生れ出る平和の王を示しています。
11章3節以降には、その方についてこのように述べられています。
「彼は目に見えるところによって裁きを行わず。耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い。この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義を腰の帯とし、真実を身に帯びる。」その平和の王なるお方は、ユダの滅亡からおおよそ600年近くの時を経て主イエス・キリストとしてこの地上にお生まれになりました。
主は権力によらず真理の言葉を持って正義と公平な裁きを行い、私たちの神の真に望まれる平和の道を拓いてくださったのであります。

本日の2章のイザヤが見た幻、「終末における平和」。そこには2節「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい」とあります。それはその日が来るとユダの民だけでなく、全世界の国々・様々な人種の人たちが主を礼拝するために集い、主の教えと御心に聞く、そのような平和の日がやがて訪れると言っているのです。今やほぼ全世界の国々で主の福音は宣べ伝えられ、今日も世界各国で礼拝がもたれておりますけれども。しかし終末の平和はただ礼拝に与るだけで実現されるものではないのです。人々が主の神殿すなわち教会や礼拝に集う時、3節にあるように「主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と、あらゆる国々、人種がその平和の道を共に歩んでいく中で実現されていくのであります。私たちが主の教えと御言葉の招きに応え、そのように具体的に生きていくそのところに主の平和が実現していきます。私たちの属するバプテスト連盟でも、又女性連合でも世界宣教の一端として、かつての戦争において痛ましい被害をもたらした近隣アジア諸国へ宣教師を派遣しており、主の和解の福音のもと奉仕と交流が行なわれています。キリストの平和を築いていくためであります。

さらにイザヤは終末の平和について、4節に「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」と言っていますが。ニューヨークの国連本部の入り口の所にこの4節の「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」との御言葉が刻まれているそうですが。「剣や槍といった武力を振りかざして国は国に向かって戦うことを拒否する」。そこに国連の平和理念があります。平和の主イエス・キリストは「剣をとる者は剣によって滅びる」とおっしゃいました。
主の民とされた者が「主の平和」の到来に備えて如何に歩んでいくか。そのことが本当に大事なのです。

イザヤの時代同胞であった北イスラエルとの間に戦争が起こりました。日常の生活の糧を生みだす農具は権力者に奪われ、殺す道具へ姿を変えます。日本でも武器を作るために鍋などの金属が徴収されたと聞いています。尊い命が皆一かたまりの戦力として戦争に組み込まれていきました。それは何もイザヤの時代に限ったことではなく、同じように人類は戦争を繰り返してきたのです。神がいるならなぜ戦争が起こるのか?宗教戦争があとを絶たないのはなぜかという人もいます。けれどもそれは果たして神のせいでしょうか?否、人が幸せに生きるための道具が人を不幸にするものと分かるとき、誰よりも私たち人間をお造りになられた主なる神さまが嘆き、痛んでおられるのです。

イザヤが見た終末の平和は単なる理想郷でもユートピアでもありません。それは主に立ち帰って生きること。剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするといった、悔い改めと忍耐を伴う努力のうえに実現されていくものなのです。

主イエスさまが私たちの罪のためにその裁きを引き受けてくださった。そのことによって私たちは主なる神さまとの和解の道、回復の道が開かれたのです。そこに究極の「平和への道」が敷かれた、ということを覚えたいと思います。
私たちもこの平和の主イエス・キリストにあって、「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という平和の宣言に生きるよう招かれているのであります。
権力や武器の象徴、戦争や争いの武器である剣や槍といった道具が、命の糧となる農作物を植え、育て、作っていく鋤や鎌といった道具に打ち直されていくように、私たちもまた主の平和の道具として用いられていきたいと願います。
「ヤコブの家よ、主の光の中で歩もう」。私たちはどこまでも、この平和の主イエス・キリストに聞き、このキリストが示される道を歩んでいく者とされてまいりましょう。
権力や偶像に頼るのではなく、ただ主に信頼し、祈り、執り成し、平和を実現する者として、主の光の中を歩んでまいりましょう。
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痛みに共感するイエス

2013-04-28 14:53:49 | メッセージ
宣教 マルコ5章21~43節 

本日の箇所は主イエスが病のいやしだけでなく、全人的救いをお与えになり、さらに死んだとされる者を生き返らせて下さる、という記事であります。ここには十字架によって罪の贖いを果たし、よみにまで降り、復活された主イエスが、生と死を統べ治めておられるという確信に満ちた信仰のメッセージが伝えられています。

病の問題は、世を生きるすべての人間につきまといます。人が病気になるのにはいろんな要因があると言われます。食生活やライフスタイル、ストレスも一因となるそうです。
どのような人も病は避けてとおりたい、いやされて健やかに生きることは切実な願いです。世の中では健康な人や適切な医療を受けることのできる人は幸せな人と言われます。
一方、死というものはこの世に生きる者すべてに例外無しに訪れます。こればっかりは貧しい者にも富める者にも平等に訪れるのであります。人間にとって死がなぜ恐ろしいか、不安かといいますと、その正体が何か分からないからです。死ぬ時の苦しみや痛みがどのようなものかという不安、肉体が消滅してしまうことへの恐れ、そして世の家族や肉親、親しいものと決別してしまうことへの孤独や悲しみがそこにあるからです。
 しかし、私たちイエス・キリストと出会い、その救いを信じ受け入れた者は、主イエスの「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との宣言に信頼と希望をもって生きることができます。十字架の苦難と死による贖いの業を成し遂げ、復活なさった主イエスの約束の言葉。それが私たちの命の力です。
本日の箇所で、主イエスはヤイロの娘の手を取って「タリタ・クム、少女よ、お起きなさい」とお語りになります。すると、「少女はすぐに起き上がって、歩き出した」と記されています。ここには、主イエスが死よりよみがえられたお方であり、その主イエスを信じる者に与えられる復活の希望が示されているのです。その出来事が起こる前イエスさまは、会堂長におっしゃいました。「恐れることはない。ただ信じなさい」。ここに私たちの大きな希望があります。

本日の箇所には、ユダヤ教の会堂長のヤイロと12年間も出血の止まらない名もなき女性が並行して登場いたします。最初の会堂長ヤイロは主イエスのもとに来、足もとにひれ伏して、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と、しきりに願ったとあります。彼はユダヤ教の会堂を管理するそういう地位と立場にある人でありました。それが当時ユダヤ教の律法学者などから異端視されてイエスにひれ伏し、願うのです。むろんそうしたのは、主イエスの教えやそのなされる事々に、信じ望みをかけたからでしょうが。彼は自分の地位や立場、又自分が人からどう見られているかなどの思いより、主イエスにただ娘を助けてほしい、と藁をもつかむ思いであったのです。
 一方後者の、名もなき女性もまた、「イエスさまのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、必死の思いで後ろから主イエスの服に触れた」のであります。「この方の服に触れさえすればいやしていただける」と思ったからです。
クリスチャンというと、とかく敬虔で慎み深く、崇高な志をもった人というイメージで世間では見られることも多いのではないでしょうか。けれども実際はさまざまな思いと葛藤する中、祈り求めないではいられない人、世間の人から何と言われようと、思われようとも、活ける神に望みをかけてゆく人、といえましょう。

さて、この女性のような異常な出血はユダヤでは古くから不浄な病とされていました。
それは当人が不浄であると見なされるだけでなく、その人が触れるもの、またその人に触れるものまでも汚れる、不浄と見なされていました(レビ15章25-27節)。ですから彼女は人と関わりをもつことをはばかっていたでしょうし、又彼女に関わりをもつ人も殆どいなかったことでしょう。この12年間も病の苦痛とともに、偏見やあらゆる制約の中で生きていくしかなかった彼女の孤独は計り難く、想像を絶するものがあったことでしょう。それは当事者でなければ分からない苦しみだったはずです。

先週の水曜祈祷会での聖書の学びの時に、Y姉がお連れ合いを天に送られた2004年暮れに、当時福岡にいた私が塔和子(仮名)さんの詩をコピーして送ったものを、もっていらっしゃいました。すでに礼拝や告別式などで何度かご紹介しましたが。塔さんは、ハンセン病で国立医療書大島青松園において永い生活を余儀なくされたのであります。家族からも故郷からも引き離され、病と非情ともいえる偏見の中で生き抜いて来られた塔さん。それらの体験からにじみ出る「いのちの詩」選集(編集工房ノア)の中の「胸の泉」という詩にこのような一節がございます。
「何億の人がいようとも関わらなければ路傍の人、わたしの胸の泉に枯れ葉一枚も落としてくれない。」Y姉はこの塔さんの詩の一節に強い共感を覚え、お連れ合いを天に送られたけれども、このまま沈み込んで内向きになるのではなく、もっといろんな人と関っていこうと思い、それが現在まで続けているボランティア奉仕の始まり、原点になっている、とをお話くださいました。

さて、この長血の女性の計り難い苦痛と、救いを求める願いを主は顧みて下さいます。
主イエスのことを誰からかおそらく伝え聞いていたのでしょう、この女性は「その方にお会いしたい。そしていやして戴きたい」と切に願い、それを行動に表すのであります。

私はこの記事を初めて読んだ頃は、この女性の行動を、「後ろからイエスさまの服の裾の房にしか触れられない消極的な信仰」と捉えていました。主イエスはそんな消極的信仰でも受けとめ、いやされたと思っていたのです。しかし彼女の信仰は決してそんな消極的なものではなかったことがわかってきました。
「けがれている」とされているわけですから、正面から願い出ることはできません。」けれど彼女はこう考えたのです。「この方の、服の裾にでも触れればきっといやして戴ける。」そして群集の中に紛れ込んで、後ろの方から手を伸ばして主イエスの服の裾に触れた時、彼女はいやされたことを体に感じた、というのです。どんなに嬉しかったか、といいたいところですが。そんな喜びを覚える間もなく、何と主イエスが「わたしの服に触れたのはだれか」とおっしゃって、触れた者を見つけようと、辺りを見回されたというのですね。
主イエスはどうしてわざわざその人を見つけ出そうとなさったんでしょう。今やヤイロの家に向う時であります。聖書には「イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいたので」と記されています。思いますに、主イエスは切なる願いをもって服の裾に触れたその信仰者を知りたい、とそのような人との出会い、関わりを求められたのではないでしょうか。
彼女は「自分の身に起きたこと(いやし)を知って、恐ろしく(畏れ)なりました。それは「けがれた者が聖者と見なされるイエスさまに触れたということになれば大変な騒ぎになり、とがめを受けることにもなりかねない」という思いもあったことでしょうが。何より自分の身に起こったこと、この偉大な業が小さな自分に顕されたことに対する畏れであります。彼女は勇気を振りしぼし、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのままイエスさまに話しました。主がなしてくださったその救いの恵みを語らないわけにはいかなかったのです。
すると、主イエスは彼女に対して、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。
注目したいのは、あなたの信仰があなたを「いやした」のではなく「救った」と言われたことです。ここには彼女がその体のみならず全人的に主の救いに与ったことが示されているのです。いやされた女性はもう病が治ったのですからその場を立ち去ることもできたはずです。いやされたんだからそれ以上関わりをもつと面倒なことになる。黙って立ち去った方が厄介なことにならない、とそうできたのです。けれども、彼女はいやされた事に、畏れをもって主イエスにひれ伏した、これは礼拝したといってもいいでしょう。主イエスは信仰をもって求める者と出会い、関ろうとなさいます。そしてこの女性も又、主イエスの呼びかけに応えていったのです。主イエスは彼女に「安心して行きなさい」と言われます。それはきっと彼女には神さまとの関係の回復の宣言として聞こえたに違いありません。
今日、今、この時も、この社会の中で、切なる願い、「衣の裾にでも触れさえすればきっと・・・」という信頼をもって近づく者をさがし、見出し、深い共感をもって働いてくださる活ける主がおられます。

彼女の全人的いやしは主イエスとの出会いと関わりの中でもたらされました。
それを思うとき私はある信仰の書にこういう言葉が記されていたことを思い起こしました。
「信仰において以心伝心は通用しない。」特に日本人は「以心伝心」を美徳としてきた民族とも言われています。それは日本人の信仰観の中にも入り込んでいるということです。
例えば、神は愛なるお方であり、慈しみ深いお方でもあられ、私たちのすべての願いをご存じであられる全知全能なるお方である以心伝心全部わかっておられるからということで具体的に祈らず、願い求めず、神さま次第、成り行き任せというのは一見信頼しているようでいて実は神さまとの関わり合い、関係性は生じません。ヘブライ4章16節には「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」とあります。たとえつたなくとも信仰をもって主に祈り、願い求め、主の招きに聞き従い応えていく者に主は共感してくださり、助け、祝福してくださるのです。以心伝心という、「言葉にしなくても、祈らなくても、態度で示さなくても自分のことはよくわかっておられるからいい」というようなある意味独りよがりの信仰観に陥らず、祈りと御言葉に聞き、応えていく主との関係、交わりを日々築いていきたいと心から願います。

最後になりますが、主イエスは今日の箇所でけがれた者と見なされていた女性が触れ、いやされたことで、自らもけがれたものと見なされる立場に立たれました。会堂長ヤイロの娘の回復においても死者に触れたというのはユダヤの慣習において忌み嫌われ、汚れるとされる行意であったのです。イエスさまご自身までも偏見の目にさらされることを恐れませんでした。本日に記事から知らされますのは、イエスさまは日々、分け隔てなく様々な人と出会われ、その人のもつ痛みと、訴えに深い共感をもって関られる主イエスのお姿であります。痛みに共感なさるイエスさまのお働きがございます。そこに神の愛を伝え分かち合う勇気と力を戴くことができます。私たちもこのイエスさまに倣いつつ、祈り、あゆんでまいりましょう。
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