宣教 マルコ1章29~39節
先週のイースターからあっという間に一週間早いな、と感じるのは私だけでしょうか。満開の桜は爆弾低気圧で散っていき、もう薄緑の葉桜になって新緑の季節に移っていこうとしているようですが、神さまはすべてに時を定め、一切を滞りなく持ち運んでおられるのですね。私も先週は久々に休みをとって家族と犬の散歩も兼ね大阪城公園の花見にいってまいりました。天気もよかったこともあり、平日というのに沢山の人で賑わっていました。特にアジア各地から観光で訪れている人たちが大変多かったです。
桜は本当にきれいでしたが、美しさを感じる心に国境はないのですね。
先週は又、去る3月26日に天に召されたY兄のご自宅を訪問させて戴きました。
奥様から故人を偲びながら、想い出話や兄とかつての教会との関係なども伺いました。奥様はクリスチャンではなく、他の宗教を信じておられる方なのですが。この日も「主人の信じていたキリスト教で素晴らしい葬儀をして戴き、ほんとうによかったです。主人も喜こんでいると思います。召天50日祭と納骨式はぜひお願いします」と頼まれて、Y家のご自宅を後にいたしました。この兄が天に召される半月前に再び大阪教会とのつながりを得られたこと、それは主の御もとに帰ってゆかれる備えの時であったことでしょう。こういう形でY家の方々との出会いとお交わりが与えられていることに、神さまのお導きを強く感ぜずにはいられません。
先週はさらに、初めての方からお電話があり「サイトで教会のことを知りました。お話できるでしょうか」ということでした。その方と月曜日にお会いしてお話をし、水曜日の夜の祈祷会にも参加され、本日もいらっしゃっているでしょうか?そういう出会いも与えられました。
さらにさらにですね、木曜日ここで夜遅くまで仕事をしていましたら、以前水曜祈祷会にいらっしゃった方が、旧会堂の前を通りかかった時に大阪教会のことを思い出されて、不思議と導かれるように仮会堂へ辿り着いたとおっしゃるのですね。ひとしきりお話した後、その方の抱える課題について「主に執り成して戴きましょう」と、祈ったのでありますが。祈りの後、「先生のお祈りは、まるで私の状況をよくご存じであるようで、感謝です」とおっしゃったのです。これは私ではなくその方のすべてをご存じであられる聖霊のお働きであるのです。主の御言葉と福音は、ほんとうに心と魂が飢え渇いている人のもとにストレートに響き、慰めと励まし、そして力となるんですね。
これらすべての出会いも又、神さまのご計画であり、主は今も本日の箇所にありますように「昼も夜も生きて働かれるお方なのだ」と、まるでこのメッセージを体験させて戴いたような一週間でございました。
さて、本日の聖書の箇所には、イエスさまが高熱で寝ていた弟子のシモンのしゅうとめをお癒しになったエピソードと会堂のある町で宣教をし、病人を癒し、悪霊に取りつかれた者から悪霊を追い出されたイエスさまのお姿が記されています。又、そこにはイエスさまを必要とする人々と彼らを執り成す人々の姿があります。
シモンのしゅうとめの癒しの場面では、イエスさま一行がシモンの家に着くと、しゅうとめが高熱で寝込んでおり、人々が早速彼女のことをイエスさまに話します。それをお聞きになったイエスさまがしゅうとめの手を取って起こされたところ、彼女の熱は去りました。癒された彼女はイエスさま一行を心からもてなしたということです。
その後もイエスさまのお言葉に力があり、癒しの業がなされることを知った人たちが、苦しんでいる人々をぞくぞくとイエスさまのもとに連れて来たことが記されています。
現代では医療技術も進み、薬も増え、よい病院があると口コミやサイトで検索して多くの人が押し寄せて予約待ちになるというような世の中でありますが。そんな現代にあっても、やはり医学では癒し難い病、苦しみと解放を必要とする数知れない問題状況がございます。何よりも魂の安息と満たしは人の努力や鍛錬だけで得られるものではありません。このような時代であるからこそ、その必要が求められており、キリストの教会と私たちも主イエスと共に応えていきたいと願わされます。
本日の箇所の後半には、「朝早くまだ暗いうちに、イエスさまが起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスさまの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った、とあります。
ここには、イエスさまを尋ね求めて必要とする人々の姿と、苦しんでいる彼らをイエスさまに執り成そうとする弟子たちの姿があります。双方のどちらもイエスさまへの期待の強さが伺えます。
又、イエスさまが必要とされる場が会堂、礼拝の中だけに留まらず、シモンのしゅうとめの家という日常の場所、さらに会堂のある町や村周辺にまで亘っていたことが読み取れます。
しかし、ここを読んでみますと。弟子たちやイエスさまを必要とした人たちの求めに先立って、まずイエスさまご自身が苦しんでいる人、又心や魂に飢え渇きをおぼえている人のもとに出かけて行かれ、その一人ひとりと出会い、お言葉をかけ、病む人には手をおいて癒され、又祈り執り成されたということであります。
それは本日の箇所にありますように、「夕方になって日が沈む」時から、まだ「朝早く暗いうち」(パレスチナ地方では1日は夕暮れから始まるのです。)つまりイエスさまは一日中ずっと休む間もなく、務めておられたということです。私たちが求める先から、執り成し働く先から、実は私たちの気づかない間にも主は働かれ、祈り執り成してくださっておられる。それは今日も同様であります。
今私どもは復活なさったイエスさまを肉眼で見ることはできませんけども、しかし聖書の御言葉を読んでいるときに、又祈りを捧げている中で、あるいは日常の何気なく過ごしている時にも、その渇きと求めを知り、たえずイエスさまは私たち一人ひとりに向けて導き、語りかけておられるのであります。
始めに、先週はサイトを見て初めてお電話を戴き、祈祷会にも集われた方のことや、旧会堂前をたまたま通り過ぎていると、教会のことを思いだして、ここに来られた方のことをお話しましたが。それは単なる偶然ではなく、主のお招き、導きがあってのことなのです。主の呼びかけ、御声があってのことなのです。それは以前心に留まった聖書の言葉かもしれませんし、教会の存在、又信徒のあかしかもしれません。それらを通し、用いて復活の主イエスさまは本当に私たちの生きているその隅々にまでお働きになられ、いつも様々な御声をもって呼びかけておられるのですね。
教会という主にある交わりの場は、この活ける主イエスさまの御声に導かれた一人ひとりが呼び集められたところです。エクレシア。共に「主イエスがいなけれれば」という者同士が、主にあって共に祈り、支え合いながら生きる場であります。
礼拝や祈祷会などの集いにおいて、益々あかしを持ち寄り、分かち合っていきましょう。生きた信仰は、主の御救いを尋ね求める人たちの間で育まれます。主のお働きや導きについての体験や御言葉の活きたあかしを互いに持ち寄り、互いに執り成し、分かち合うことで、祝福と信仰に生きる力を戴くことができます。その命の糧は又、聖霊の豊かな執り成しによって、私たちの家族や友人、さらに日々出会う隣人へと分かち合われ、恵みで満たされていくのです。
イエスさまは言われました。「近くのほかの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのだから。」そして、カファルナウムの町だけに留まらず、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されるのであります。
まあこのように、イエスさまはほんとうに、町の隅々にまで出かけられて神の国を伝え、癒しの業をなし、苦しむ人たちのために生きられたのであります。私たち主の福音によって救われたものも又、この主と共に働くとき、主は私たちと共に働いてくださいます。
最後に、今日の箇所のところで、イエスさまが「朝早くまだ暗いうちに、起きて、人里離れた所へ行き、そこで祈っておられた」と記されています。
聖書教育の聖書の学びのところには、その祈りが「人々の苦しみと暗さを肌で感じられておられる様子を表している」と解説されていましたが。一方で、イエスさまご自身も疲労と困ぱいのピークにあり、霊的にも渇きをおぼえておられたのではないかと思うのですね。お一人になって唯父なるお方(神)と向き合って祈ることで、平安の安息と新たな力の満たしを得ておられたのではないでしょうか。イエスさまであっても人間としての飢え渇き、霊的な飢え渇きを癒し、満たす祈りの時を必要とされたのです。そして、イエスさまが人里離れた所に出て行って祈られたのは、実は多くの飢え渇いている一人ひとりと出会い、神の言葉、神の国を宣教し、苦しんでいる魂に平安と解放を告げるための大事な時であったのです。
私たちもこのように、日曜日に主を礼拝することによって一週間の一日一日を歩んでいくための霊的なエネルギーを戴き、水曜祈祷会や日々の祈りと御言葉によって聖霊の油を注いで戴いているのであります。
本日は「主イエスがいなければ」という題をつけさせて頂きました。主イエスがいるから生きていける。主イエスがいるから前を向いてあゆんでいける。今週もこの主イエスのお姿を捜し、主の御声を聞いて、応えてゆけるよう過ごしてまいりましょう。
ヨハネ15章4節を読んで宣教を閉じます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を 結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
先週のイースターからあっという間に一週間早いな、と感じるのは私だけでしょうか。満開の桜は爆弾低気圧で散っていき、もう薄緑の葉桜になって新緑の季節に移っていこうとしているようですが、神さまはすべてに時を定め、一切を滞りなく持ち運んでおられるのですね。私も先週は久々に休みをとって家族と犬の散歩も兼ね大阪城公園の花見にいってまいりました。天気もよかったこともあり、平日というのに沢山の人で賑わっていました。特にアジア各地から観光で訪れている人たちが大変多かったです。
桜は本当にきれいでしたが、美しさを感じる心に国境はないのですね。
先週は又、去る3月26日に天に召されたY兄のご自宅を訪問させて戴きました。
奥様から故人を偲びながら、想い出話や兄とかつての教会との関係なども伺いました。奥様はクリスチャンではなく、他の宗教を信じておられる方なのですが。この日も「主人の信じていたキリスト教で素晴らしい葬儀をして戴き、ほんとうによかったです。主人も喜こんでいると思います。召天50日祭と納骨式はぜひお願いします」と頼まれて、Y家のご自宅を後にいたしました。この兄が天に召される半月前に再び大阪教会とのつながりを得られたこと、それは主の御もとに帰ってゆかれる備えの時であったことでしょう。こういう形でY家の方々との出会いとお交わりが与えられていることに、神さまのお導きを強く感ぜずにはいられません。
先週はさらに、初めての方からお電話があり「サイトで教会のことを知りました。お話できるでしょうか」ということでした。その方と月曜日にお会いしてお話をし、水曜日の夜の祈祷会にも参加され、本日もいらっしゃっているでしょうか?そういう出会いも与えられました。
さらにさらにですね、木曜日ここで夜遅くまで仕事をしていましたら、以前水曜祈祷会にいらっしゃった方が、旧会堂の前を通りかかった時に大阪教会のことを思い出されて、不思議と導かれるように仮会堂へ辿り着いたとおっしゃるのですね。ひとしきりお話した後、その方の抱える課題について「主に執り成して戴きましょう」と、祈ったのでありますが。祈りの後、「先生のお祈りは、まるで私の状況をよくご存じであるようで、感謝です」とおっしゃったのです。これは私ではなくその方のすべてをご存じであられる聖霊のお働きであるのです。主の御言葉と福音は、ほんとうに心と魂が飢え渇いている人のもとにストレートに響き、慰めと励まし、そして力となるんですね。
これらすべての出会いも又、神さまのご計画であり、主は今も本日の箇所にありますように「昼も夜も生きて働かれるお方なのだ」と、まるでこのメッセージを体験させて戴いたような一週間でございました。
さて、本日の聖書の箇所には、イエスさまが高熱で寝ていた弟子のシモンのしゅうとめをお癒しになったエピソードと会堂のある町で宣教をし、病人を癒し、悪霊に取りつかれた者から悪霊を追い出されたイエスさまのお姿が記されています。又、そこにはイエスさまを必要とする人々と彼らを執り成す人々の姿があります。
シモンのしゅうとめの癒しの場面では、イエスさま一行がシモンの家に着くと、しゅうとめが高熱で寝込んでおり、人々が早速彼女のことをイエスさまに話します。それをお聞きになったイエスさまがしゅうとめの手を取って起こされたところ、彼女の熱は去りました。癒された彼女はイエスさま一行を心からもてなしたということです。
その後もイエスさまのお言葉に力があり、癒しの業がなされることを知った人たちが、苦しんでいる人々をぞくぞくとイエスさまのもとに連れて来たことが記されています。
現代では医療技術も進み、薬も増え、よい病院があると口コミやサイトで検索して多くの人が押し寄せて予約待ちになるというような世の中でありますが。そんな現代にあっても、やはり医学では癒し難い病、苦しみと解放を必要とする数知れない問題状況がございます。何よりも魂の安息と満たしは人の努力や鍛錬だけで得られるものではありません。このような時代であるからこそ、その必要が求められており、キリストの教会と私たちも主イエスと共に応えていきたいと願わされます。
本日の箇所の後半には、「朝早くまだ暗いうちに、イエスさまが起きて、人里離れたところへ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスさまの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った、とあります。
ここには、イエスさまを尋ね求めて必要とする人々の姿と、苦しんでいる彼らをイエスさまに執り成そうとする弟子たちの姿があります。双方のどちらもイエスさまへの期待の強さが伺えます。
又、イエスさまが必要とされる場が会堂、礼拝の中だけに留まらず、シモンのしゅうとめの家という日常の場所、さらに会堂のある町や村周辺にまで亘っていたことが読み取れます。
しかし、ここを読んでみますと。弟子たちやイエスさまを必要とした人たちの求めに先立って、まずイエスさまご自身が苦しんでいる人、又心や魂に飢え渇きをおぼえている人のもとに出かけて行かれ、その一人ひとりと出会い、お言葉をかけ、病む人には手をおいて癒され、又祈り執り成されたということであります。
それは本日の箇所にありますように、「夕方になって日が沈む」時から、まだ「朝早く暗いうち」(パレスチナ地方では1日は夕暮れから始まるのです。)つまりイエスさまは一日中ずっと休む間もなく、務めておられたということです。私たちが求める先から、執り成し働く先から、実は私たちの気づかない間にも主は働かれ、祈り執り成してくださっておられる。それは今日も同様であります。
今私どもは復活なさったイエスさまを肉眼で見ることはできませんけども、しかし聖書の御言葉を読んでいるときに、又祈りを捧げている中で、あるいは日常の何気なく過ごしている時にも、その渇きと求めを知り、たえずイエスさまは私たち一人ひとりに向けて導き、語りかけておられるのであります。
始めに、先週はサイトを見て初めてお電話を戴き、祈祷会にも集われた方のことや、旧会堂前をたまたま通り過ぎていると、教会のことを思いだして、ここに来られた方のことをお話しましたが。それは単なる偶然ではなく、主のお招き、導きがあってのことなのです。主の呼びかけ、御声があってのことなのです。それは以前心に留まった聖書の言葉かもしれませんし、教会の存在、又信徒のあかしかもしれません。それらを通し、用いて復活の主イエスさまは本当に私たちの生きているその隅々にまでお働きになられ、いつも様々な御声をもって呼びかけておられるのですね。
教会という主にある交わりの場は、この活ける主イエスさまの御声に導かれた一人ひとりが呼び集められたところです。エクレシア。共に「主イエスがいなけれれば」という者同士が、主にあって共に祈り、支え合いながら生きる場であります。
礼拝や祈祷会などの集いにおいて、益々あかしを持ち寄り、分かち合っていきましょう。生きた信仰は、主の御救いを尋ね求める人たちの間で育まれます。主のお働きや導きについての体験や御言葉の活きたあかしを互いに持ち寄り、互いに執り成し、分かち合うことで、祝福と信仰に生きる力を戴くことができます。その命の糧は又、聖霊の豊かな執り成しによって、私たちの家族や友人、さらに日々出会う隣人へと分かち合われ、恵みで満たされていくのです。
イエスさまは言われました。「近くのほかの町や村に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのだから。」そして、カファルナウムの町だけに留まらず、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出されるのであります。
まあこのように、イエスさまはほんとうに、町の隅々にまで出かけられて神の国を伝え、癒しの業をなし、苦しむ人たちのために生きられたのであります。私たち主の福音によって救われたものも又、この主と共に働くとき、主は私たちと共に働いてくださいます。
最後に、今日の箇所のところで、イエスさまが「朝早くまだ暗いうちに、起きて、人里離れた所へ行き、そこで祈っておられた」と記されています。
聖書教育の聖書の学びのところには、その祈りが「人々の苦しみと暗さを肌で感じられておられる様子を表している」と解説されていましたが。一方で、イエスさまご自身も疲労と困ぱいのピークにあり、霊的にも渇きをおぼえておられたのではないかと思うのですね。お一人になって唯父なるお方(神)と向き合って祈ることで、平安の安息と新たな力の満たしを得ておられたのではないでしょうか。イエスさまであっても人間としての飢え渇き、霊的な飢え渇きを癒し、満たす祈りの時を必要とされたのです。そして、イエスさまが人里離れた所に出て行って祈られたのは、実は多くの飢え渇いている一人ひとりと出会い、神の言葉、神の国を宣教し、苦しんでいる魂に平安と解放を告げるための大事な時であったのです。
私たちもこのように、日曜日に主を礼拝することによって一週間の一日一日を歩んでいくための霊的なエネルギーを戴き、水曜祈祷会や日々の祈りと御言葉によって聖霊の油を注いで戴いているのであります。
本日は「主イエスがいなければ」という題をつけさせて頂きました。主イエスがいるから生きていける。主イエスがいるから前を向いてあゆんでいける。今週もこの主イエスのお姿を捜し、主の御声を聞いて、応えてゆけるよう過ごしてまいりましょう。
ヨハネ15章4節を読んで宣教を閉じます。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を 結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」