礼拝宣教 マルコ10章13‐16節
3代目の新会堂が建ち、すでに大阪教会の新しいページをめくるべくその歩みが始まっていますが。先週大阪教会のブログが2008年6月に立ち上って以来、訪問者総数が10万人を突破いたしました。多くの方々が訪問してくださっていることを、うれしく思います。
本日はマルコ10章13節~16節のところから「神の国を受け入れる人」と題し、御言葉を聞いていきますが。まずこのように記されています。
13節「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」
イエスさまは、マルコ3章、5章、6章、8章のところで、病人をいやすために御自分の方から病人たちに近づき彼らに触らておいやしになられたケースや、又、病人たちがイエスさまに触れていやされたケースも記されています。
本日の箇所では、子供を持つ親御さんたちが子供を祝福してもらうためにイエスさまのもとに連れてくるのです。これは当時ユダヤ人の間に、子どもたちを礼拝堂に連れて行き、祭司や監督者らに祝福してもらう習慣があったのです。
イエスさまの噂を耳にした人たちが、恐らく母親たちでありましょう、「どうかうちの子を祝福してやってください」「丈夫に育ちますように」「よい成長がありますように」「神さまの祝福に与れますように」と、子供たちを連れて来ようとすたのです。
ところが、それを見た弟子たちは、「この人々を叱った」というのです。弟子たちにすれば子供を祝福してもらういくらいの事で自分たちの先生を煩わすまいということだったのでしょうか。又、弟子たち自身も赤ちゃんや幼児が泣いたり、はしゃいだりするのに煩わされされたくないと思ったのかも知れません。彼らは母親たちに何と言ったんでしょうね。「あーこっちに来ちゃだめ。先生は忙しいんだから」と、無邪気にイエスさまに走り寄ってくる子にも「はいはい子供はあっちにいっていなさい」と叱ったのかも知れません。
しかし、14節「イエスはこれを見て、憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』と言われるのです。憤って、まあ憤慨してということでありますから、それはかなり強い口調で弟子たちにそのようにおっしゃったのでありましょう。
では、イエスさまは何をそんなに憤られたのでしょうか。
それを知るためには前の9章33節以降のエピソードに目を留める必要があります。
弟子たちは道の途中で「自分たちの中で誰が一番偉いか」と議論していました。弟子たちもまた世の権力、出世欲、「認められたい」「一番になりたい」そのような願望に捕らわれていたのです。預言者のように威言と力に満ちたお方の弟子であるというおごりも当時あったのかも知れません。
ところが、イエスはそんな彼らの真中に一人の子供を立たせ抱き上げて、「わたしの名のためにこのように子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃるのです。彼ら弟子たちを前に、イエスさまは権威や権力とは対極的な世で軽んじられるような存在を神の前にかけがえのないものとして真中に立たせ、抱き上げ、祝福されるのであります。
先程のイエスさまの憤りは、それらを聞いて気づかない弟子たちへの憤りであり、まさに子供のように神の国を受け入れようとする人たちはを阻む「世の力」に対する強い憤りであったのです。
さて、イエスさまのこの「憤り」についてですが。共観福音書のマタイ19章、ルカ18章の並行記事には実は記されておりません。そこには神の御子であられるイエスさまが、人間的な感情を露わにされて「憤る」など相応しくない、それを覆い隠そうという理解があったのかも知れませんね。けれども、マルコのこの記事はイエスさまの人間としての感情のあらわれをそのまま記しているのです。ちなみに、今日の記事の終わりにも、前の9章36節と同様、イエスさまが子供を「抱き上げ」る姿が記されていますが。マタイとルカにはイエスさまが子供たちを「抱き上げ」るという事は記されておりません。これも「憤る」と同様、人間的で神の子に相応しくないという理解が働いていたと考えられるのかも知れません。けれどもマルコの記者はイエスさまの人間的側面をあるがままに記す事で、イエスさまが何を大事になさり、どのような思いでこの地上を歩まれたのか、というメッセージをはっきりと指示してくれるのであります。
さて、イエスさまは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。・・・神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいます。
この当時の時代は、福音書の5千人の給食等の記事を読んでわかるように、女性や子供はものの数として顧みられてはいなかったのであります。けれどもイエスさまは、その時代の見方や考え方を遥かに超えた天の眼をもって、数に数えられないような小さいものと見なされいた子供たちにも目を注がれます。それはまた、その子供たちをイエスさまのところへと連れて行き祝福を戴こうとした親御さんたちに対する暖かなまなざしでもあったでしょう。このように神の国を求める人たちを前にイエスさまは、神の国はいうならばこのような人たちのものである、と大胆に宣言なさるのです。
そうして本日の宣教題であります15節の御言葉、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまこうおっしゃるのでありますが。
この「はっきり」と訳されたギリシャ語原文は「ア―メン、エゴー、、」と続いていますように。それは真に私は言いますとか、「本当に私はいいます」という確信をもった言葉なんですね。つまり、イエスさまは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、それを「真に確かなことだ」と、おっしゃたということであります。
ごく小さな子供は、率直で、ストレートに人や物事と向き合おうとします。大人のように見栄を張ったり、体裁を繕おうとはしません。又、幼児はいろいろとわがままもいいますが。けれどもそれはど親に信頼があるからです。でなければ心を閉ざすものです。子供は自分のことを受けとめようとしてくれる人のところには寄ってくるものです。高感度の愛情アンテナをもっているのかも知れません。
又、先日の祈祷会でここを読んだ人が、「13節に人々が子供を連れて来た、弟子たちはこの人々を叱った」とある。これまで子供が叱られたと思っていたが、ここに母親の姿があることに気づいていなかった」と話されたのですが。彼ら母親、父親やじいじばあばもいたかも知れませんが、そういう何とかイエスさまに手をおいて子供を祝福してもらいたいという人たちが、彼らもまた子供のような心でイエスさまのところに子供と共に近寄っていたのですね。私はそのことが、今日の御言葉の文脈から強く迫って来たのです。それは、イエスのおそばにいても私が偉い、誰が偉いとかに心捕らわれていた弟子たちよりもずっとまっすぐに神の国を求め、受け入れようとした人たちであったのですね。その小さい立場におかれた者らをイエスさまは弁護し、手を置いて祝福されたのです。そのことが何とも素敵で勇気づけられるのであります。
今日のこのイエスさまの「子供のように」という言葉は、子供だけを特化したり、対象化したものではありません「子供のようにまっすぐに神の国の福音を受け入れ、救いの祝福に与るならば天の国はその人のものなのです。しかしそうでないならば、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまはおっしゃるのであります。
最後に、今日の聖書箇所である、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」とイエスさまが言われた言葉、これは私たち自身のこの教会にも語りかけられているものでありましょう。神さまの祝福に与るべく実に様々な方々がこの教会にいらっしゃいます。今日の御言葉のように、小さいお子さんtも親御さんもそうでしょうし、初めて教会に来られる方、耳や目の不自由な方、日本語を理解し辛い方、聖書を開け辛い方、その他にも礼拝への参加を願つつ多少なりとも不自由を覚えていらっしゃる方もおられるでしょう。神の国を求め集う誰もが主イエスに招かれている喜びと祝福に与るため祈り、知恵をしぼり、そのために努めていく主からのチャレンジといいますか、問いかけを今日の箇所から戴いているように思えます。
子供に関していえばですが。今はまだはっきりとした形での大人と子供との礼拝を描けてはいませんが。礼拝プログラムの中で、子供たちは、前半の子供メッセージまでは共に与り、宣教の時間子供は2階多目的ホールに移動してCS活動を行い、後半の献金と祝祷には再度一緒に礼拝を捧げるというようなスタイルに出来ないだろうかと考えています。
私たち自身がまず、「子供のように神の国を受け入れるもの」とされ、そのようにあり続けると、同時に主が招かれるすべての人たちをも迎え入れてゆくことにもつながっていくと、信じ、祈り求めてまいりたいと思います。
3代目の新会堂が建ち、すでに大阪教会の新しいページをめくるべくその歩みが始まっていますが。先週大阪教会のブログが2008年6月に立ち上って以来、訪問者総数が10万人を突破いたしました。多くの方々が訪問してくださっていることを、うれしく思います。
本日はマルコ10章13節~16節のところから「神の国を受け入れる人」と題し、御言葉を聞いていきますが。まずこのように記されています。
13節「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。」
イエスさまは、マルコ3章、5章、6章、8章のところで、病人をいやすために御自分の方から病人たちに近づき彼らに触らておいやしになられたケースや、又、病人たちがイエスさまに触れていやされたケースも記されています。
本日の箇所では、子供を持つ親御さんたちが子供を祝福してもらうためにイエスさまのもとに連れてくるのです。これは当時ユダヤ人の間に、子どもたちを礼拝堂に連れて行き、祭司や監督者らに祝福してもらう習慣があったのです。
イエスさまの噂を耳にした人たちが、恐らく母親たちでありましょう、「どうかうちの子を祝福してやってください」「丈夫に育ちますように」「よい成長がありますように」「神さまの祝福に与れますように」と、子供たちを連れて来ようとすたのです。
ところが、それを見た弟子たちは、「この人々を叱った」というのです。弟子たちにすれば子供を祝福してもらういくらいの事で自分たちの先生を煩わすまいということだったのでしょうか。又、弟子たち自身も赤ちゃんや幼児が泣いたり、はしゃいだりするのに煩わされされたくないと思ったのかも知れません。彼らは母親たちに何と言ったんでしょうね。「あーこっちに来ちゃだめ。先生は忙しいんだから」と、無邪気にイエスさまに走り寄ってくる子にも「はいはい子供はあっちにいっていなさい」と叱ったのかも知れません。
しかし、14節「イエスはこれを見て、憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』と言われるのです。憤って、まあ憤慨してということでありますから、それはかなり強い口調で弟子たちにそのようにおっしゃったのでありましょう。
では、イエスさまは何をそんなに憤られたのでしょうか。
それを知るためには前の9章33節以降のエピソードに目を留める必要があります。
弟子たちは道の途中で「自分たちの中で誰が一番偉いか」と議論していました。弟子たちもまた世の権力、出世欲、「認められたい」「一番になりたい」そのような願望に捕らわれていたのです。預言者のように威言と力に満ちたお方の弟子であるというおごりも当時あったのかも知れません。
ところが、イエスはそんな彼らの真中に一人の子供を立たせ抱き上げて、「わたしの名のためにこのように子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃるのです。彼ら弟子たちを前に、イエスさまは権威や権力とは対極的な世で軽んじられるような存在を神の前にかけがえのないものとして真中に立たせ、抱き上げ、祝福されるのであります。
先程のイエスさまの憤りは、それらを聞いて気づかない弟子たちへの憤りであり、まさに子供のように神の国を受け入れようとする人たちはを阻む「世の力」に対する強い憤りであったのです。
さて、イエスさまのこの「憤り」についてですが。共観福音書のマタイ19章、ルカ18章の並行記事には実は記されておりません。そこには神の御子であられるイエスさまが、人間的な感情を露わにされて「憤る」など相応しくない、それを覆い隠そうという理解があったのかも知れませんね。けれども、マルコのこの記事はイエスさまの人間としての感情のあらわれをそのまま記しているのです。ちなみに、今日の記事の終わりにも、前の9章36節と同様、イエスさまが子供を「抱き上げ」る姿が記されていますが。マタイとルカにはイエスさまが子供たちを「抱き上げ」るという事は記されておりません。これも「憤る」と同様、人間的で神の子に相応しくないという理解が働いていたと考えられるのかも知れません。けれどもマルコの記者はイエスさまの人間的側面をあるがままに記す事で、イエスさまが何を大事になさり、どのような思いでこの地上を歩まれたのか、というメッセージをはっきりと指示してくれるのであります。
さて、イエスさまは、「子供たちをわたしのところに来させなさい。・・・神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいます。
この当時の時代は、福音書の5千人の給食等の記事を読んでわかるように、女性や子供はものの数として顧みられてはいなかったのであります。けれどもイエスさまは、その時代の見方や考え方を遥かに超えた天の眼をもって、数に数えられないような小さいものと見なされいた子供たちにも目を注がれます。それはまた、その子供たちをイエスさまのところへと連れて行き祝福を戴こうとした親御さんたちに対する暖かなまなざしでもあったでしょう。このように神の国を求める人たちを前にイエスさまは、神の国はいうならばこのような人たちのものである、と大胆に宣言なさるのです。
そうして本日の宣教題であります15節の御言葉、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまこうおっしゃるのでありますが。
この「はっきり」と訳されたギリシャ語原文は「ア―メン、エゴー、、」と続いていますように。それは真に私は言いますとか、「本当に私はいいます」という確信をもった言葉なんですね。つまり、イエスさまは「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と、それを「真に確かなことだ」と、おっしゃたということであります。
ごく小さな子供は、率直で、ストレートに人や物事と向き合おうとします。大人のように見栄を張ったり、体裁を繕おうとはしません。又、幼児はいろいろとわがままもいいますが。けれどもそれはど親に信頼があるからです。でなければ心を閉ざすものです。子供は自分のことを受けとめようとしてくれる人のところには寄ってくるものです。高感度の愛情アンテナをもっているのかも知れません。
又、先日の祈祷会でここを読んだ人が、「13節に人々が子供を連れて来た、弟子たちはこの人々を叱った」とある。これまで子供が叱られたと思っていたが、ここに母親の姿があることに気づいていなかった」と話されたのですが。彼ら母親、父親やじいじばあばもいたかも知れませんが、そういう何とかイエスさまに手をおいて子供を祝福してもらいたいという人たちが、彼らもまた子供のような心でイエスさまのところに子供と共に近寄っていたのですね。私はそのことが、今日の御言葉の文脈から強く迫って来たのです。それは、イエスのおそばにいても私が偉い、誰が偉いとかに心捕らわれていた弟子たちよりもずっとまっすぐに神の国を求め、受け入れようとした人たちであったのですね。その小さい立場におかれた者らをイエスさまは弁護し、手を置いて祝福されたのです。そのことが何とも素敵で勇気づけられるのであります。
今日のこのイエスさまの「子供のように」という言葉は、子供だけを特化したり、対象化したものではありません「子供のようにまっすぐに神の国の福音を受け入れ、救いの祝福に与るならば天の国はその人のものなのです。しかしそうでないならば、決してそこに入ることはできない」と、イエスさまはおっしゃるのであります。
最後に、今日の聖書箇所である、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない」とイエスさまが言われた言葉、これは私たち自身のこの教会にも語りかけられているものでありましょう。神さまの祝福に与るべく実に様々な方々がこの教会にいらっしゃいます。今日の御言葉のように、小さいお子さんtも親御さんもそうでしょうし、初めて教会に来られる方、耳や目の不自由な方、日本語を理解し辛い方、聖書を開け辛い方、その他にも礼拝への参加を願つつ多少なりとも不自由を覚えていらっしゃる方もおられるでしょう。神の国を求め集う誰もが主イエスに招かれている喜びと祝福に与るため祈り、知恵をしぼり、そのために努めていく主からのチャレンジといいますか、問いかけを今日の箇所から戴いているように思えます。
子供に関していえばですが。今はまだはっきりとした形での大人と子供との礼拝を描けてはいませんが。礼拝プログラムの中で、子供たちは、前半の子供メッセージまでは共に与り、宣教の時間子供は2階多目的ホールに移動してCS活動を行い、後半の献金と祝祷には再度一緒に礼拝を捧げるというようなスタイルに出来ないだろうかと考えています。
私たち自身がまず、「子供のように神の国を受け入れるもの」とされ、そのようにあり続けると、同時に主が招かれるすべての人たちをも迎え入れてゆくことにもつながっていくと、信じ、祈り求めてまいりたいと思います。