日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

開かれるべき出来事

2014-03-09 14:43:36 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ7章31~37節 

先週は献堂感謝の特別礼拝、午後からの献堂感謝式が主の豊かな恵みと祝福のもと行われました。週間天気予報では日曜日の降水確率は80パーセントでしたけれども、主は祈りをお聞きくださり、時より晴れ間も見えほどの天気となりました。さほど寒くもなく祝福のうちに特別礼拝と献堂感謝式は守られましたことは、ただただ感謝でありました。
又、先週の水曜日よりレント(受難節)に入りました。主イエスの十字架への道、特に苦難と死を覚えて過ごすこの期間ですが、今年は4月20日がイースター(復活祭)であります。十字架の救いの御業が成し遂げられ、死を打ち破られた復活の主イエスを覚え、主イエスにある希望を戴いてまいりたいと願っております。

さて、先程マルコ7章のところから御言葉が読まれました。本日からまた聖書教育の箇所にそった聖書の箇所から、御言葉を聞いていきます。
この箇所は、「聞こえない耳を開く」イエスさまの御業について記されています。
先程招詞でイザヤ35章より「そのとき 見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開く。そのとき 歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」という、来るべき救いの時についてのイザヤの預言を読みましたが。実は救いの主なるイエス・キリストの到来によって実現されていくのであります。
この救いの訪れは、単にユダヤ人たちだけに限定されるものではありません。
31節で「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」(新共同訳聖書付録地図⑥新約聖書時代のパレスチナ;参照)と、わざわざ記されていますが。それはユダヤの中心地区エルサレムとは遠く離れた周辺の異教社会にまでもイエスさまが救いが開かれていったというメッセージなのであります。
ちなみに前の6章にはイエスさまがイスラエルの民の5千人に食べ物を与えられた出来事がとりあげられていますが。今日の7章の次の8章のところでは、いわゆる異教社会の人々までも、天からの給食に与った記事が記されています。このようにして、ユダヤ人以外の人たちの間にまでイエスさまにある神の御救いが開かれたことを告げているのです。
イエスさまがお出でになる以前は神の選びと御救いはユダヤの民に限定されていたわけですから、私たちも、まさに主イエスが「開いてくださった」福音の恵みの中に生かされているわけですね。

では、その救いの訪れについて見てゆきましょう。
32節、「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるように願った。」
この耳の聞こえない人は、自分の意志でイエスさまのもとに来たのではなく、イエスさまの噂を聞いてその御業に期待する人たちによって連れてこられたのです。
マルコ2章には、4人の男たちが中風(半身不随、片まひ、言語障害、 手足のしびれやまひなどの障害を持つ病人)の人を、何とかイエスさまのもとに運んで行こうとする話が出てまいりますが。彼らは群衆に阻まれてイエスさまに近づけません。そこで男たちはイエスさまが中におられる家の屋根をはがして穴をあけて、寝ている床ごとつり降ろしたところ、イエスさまはそうまでして病人を連れて来た男たちの信仰を見て、中風の人に、「罪のゆるし」を宣言され、彼は起き上がって歩けるようにされたと、記されています。
本日の箇所では、神の民とされていたユダヤの人びとではなく、異教の人々が耳の聞こえず舌の回らない人をイエスさまのもとに連れて来て、祝福してくださいと、乞い願ったということであります。が、ここでもイエスさまは32節、33節にあるように人々が願った。そこで御業を現わして下さった、ということであります。よく、キリスト教は難しい、外国の宗教だと言われますが、救いと言うのは何か難しい教義ではなく、ただイエスさまが救い主であられることを信じ期待することにこそ、その信仰の本質があるのです。たとえどんなにつたなくとも、主イエスは呼び求める者の声に耳を傾けて下さるお方なのです。

さて、33節「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差しいれ、それから唾をつけてその舌に触れられた。」
イエスさまは、なぜこの人だけを連れ出して行かれたのでしょうか。その理由は何も書かれていません。異教の人々は多神教であり数々の偶像を作り、祀っていましたから、イエスさまのいやしを目の当たりにして、さらにしるしばかりを求め、イエスさまが偶像化されてしまったかも知れません。イエスさまは大勢の人に祀り上げられる道ではなく、救いを必要とする一人の人と一対一で向き合おうとなさるのであります。
ここで、イエスさまはご自分の唾を指につけて男の両耳に差し入れたり、又唾をつけた指で男の舌を触られたとあります。イエスさまは福音書の中で3回唾を用いて治癒なさっておられます。唾の効果については医学的な裏付けがあったかは定かではありませんが。小さい頃よく転んだり、ちょっと擦りむけたりしたとき母親が唾を指につけて、ちょんちょんと触れて、「もう大丈夫」と、言われた経験があります。それだけなのに、安心感がありケガのことなどすぐ忘れてまた遊びに熱中するという、同じような経験をされた方もおられるでしょう。この耳の聞こえない人もそのような安心感を必要としていて、イエスさまはそのようになさったのかも知れませんね。

それだけではありません。34節、イエスさまは「天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた」とあります。
天を仰いで深く息をつかれた。この深く息をつくとは、溜息ともいえますが、いわば心の「うめき」であります。イエスさまはこの一人の人と向き合われる時、その人の魂のうめきに共感なさり、深く息をつかれるのです。が、しかしそれはやり場のないうめきではなく、「天を仰いで」とあるように、すべてを造り、治めておられるお方に執り成し、願われているのです。

さらにイエスさまは、その人に向かって「エッファタ」と言われました。これはイエスさまや弟子たちが日常会話で使っていたアラム語の「開け」という意味の言葉でありますが。
イエスさまはここで、どうして「病人」を前にして「治れ」とか「いやされよ」とかおっしゃらなかったのでしょうか。

よく心を閉ざす、心を開くと表現します。自分の内に閉じこもるように外部との関わりを断っていた人が、何かのきっかけで外に向かって主体的に関わろうとしだす。心を開くんですね。腹は割る、ですね。腹を割って話す。腹を据える、といいますが。では目、耳、口はというと「閉ざす」「塞ぐ」「覆う」などが使われます。「口を閉ざす」「目を覆う」「耳を塞ぐ」。これは外部との関わりが断たれた状態又、自分を守るために断とうとする気持ちを表します。そして思いを外に向けよとする時、これはやっぱり「開く」なのです。「目が開かれる」「口を開く」、そして今日塞がれていた耳が開かれる。それは、内なる人の解放を表しているのですね。
イエスさまがこの人に向かって言われた「エッファタ」、「開かれよ」との言葉は、耳が塞がれ、舌が回らないいわば口を閉ざされた一人の人に、「すべての創造主であられる神さまとの命の交わりが開かれよ」という宣言であったのです。それは又、あなたの外にあるあらゆる関係、あらゆる恵みに「開かれよ」という宣言でもあります。

その人は言葉を受けると、たちまち耳は開き、舌のもつれが解けたというのですが。
それは単に聞こえるようになった、話せるようになったというのではなく、「はっきり話すことができるようになった」とあります。この「はっきり」という言葉の原語オルソースは「正しく」という意味があります。つまり、神さまとの命の交わりが開かれた者は、真に聞くべき耳を持って聞くものとされ、語るべき言葉をもって語るものとされた、ということであります。イエスさまのいやしが素晴らしいのは、それが肉体を超えた魂の回復をもたらされることです。

本日の聖書の言葉は、一人の病人への全人的ないやし、救いの記事でありましたが。
それは単に病人に特化・対象化されるものではありません。
マルコ8章18節のところで、イエスさまは弟子たちに対して、「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」と厳しく叱っています。
イエスさまと寝食を共にしていた弟子たちであっても、正しく見、正しく聞くことができなかったのであります。肉眼でイエスさまを見て、わきまえていたつもりの弟子たちでしたが、イエスさまの本当の意味での救い、いやしと解放を知ったのはイエスさまが十字架にかけられて死なれた後でありました。弟子たちが正しく見、正しく聞くもの、神さまとの命の交わりに開かれていくのも、イエスさまのご復活と聖霊降臨の出来事を経て、霊の眼が開かれることによってであったのです。
こうしてイザヤ書35章5節「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く、そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」という預言の言葉が今も、主イエスとの出会いを与えられた人々の間で絶えず起こされ続けているのです。

最後に、今日の箇所でイエスさまが唾をつけた指を耳の聞こえない一人の人の両耳に入れられたり、また、もつれた舌にも唾をつけた指を触れられた一つひとつの動作は、あたかも粘土で人の顔を作っていくような、あれでもない、これでもない、あれや、いやこれや、と粘土をこねて、ちぎって、指で押さえながら、一つの作品が仕上げられていくような感じがいたします。それはまるで、創造主が御手で人を造られたように、主の手で整えていくようであります。
耳の聞こえない舌の回らない人が耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すようになったのを見た人々は驚き、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と口々に言いました。その言葉は、天地創造の神さまがお造りになったすべてのものを御覧になって言われた、「見よ、それは極めて良かった」と同じ響きをもっています。私ども大阪教会献堂感謝の折にも、この御言葉をもって神さまの御業を讃えましたが。まさに、イエスさまによる新しい救い、新しい時代の扉が開かれたのです。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、
新しいものが生じた。」Ⅱコリント5章17節
イエス・キリストが十字架の受難と死を通って開いて下さった御救いの時代を、新しく創造された者として歩んでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする