宣教 マルコ10章17~31節
この箇所には、金持ちの男とイエスさまの「永遠の命を受け継ぐ」ことについての対話が記されていますが。彼はユダヤ人で神の律法を幼い頃から学び、日頃からそれを心にかけてきた人でした。しかし、その地を訪れたイエスさまの教えや行動に大きく揺さぶられるのです。「まだ自分には足りないのではないか。」そんな疑問が膨らんでいったある日、いよいよイエスさまがその地を離れて旅に出ようとされるそのところに、彼は走り寄り、ひざまずいて、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのでしょうか」と尋ねるのであります。
イエスさまはここですぐその質問にお答えにはならず、彼が「善い先生」と呼んだことに対して、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と忠告なさいます。イエスさまはこの男の心のうちに「善い人」になりたいというあこがれ、そう認められたいという強い願望があることを気にかけられます。「あの人は善い人だ」「非の打ちどころのない人だ」などと世間では口にされますが、それは人の一部あるいは側面だけ見て評価しているに過ぎません。善い人になりたいと努め励むこと自体尊くとも、それが必ずしも神の前で善いものであるかどうか人が言う事はできないのです。イエスさまは、父なる神さまのみが善であると言われます。人はとかく善人、立派な人のイメージを作りあげ、それに捕らわれるものですが。全き善であられる神は何を望んでおられるのか、尋ね求め、従ってゆくことをイエスさまは生涯を通してお示しになられたのであります。
ヨハネ5・19でイエスさまご自身、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」と言われているように。
さて、さらにイエスさまは律法の十戒を引用して、「あなたはこれらの掟を知っているはずだ」と言われます。ここで引用されたのは十戒の後半部の「人間相互に関するもの」でした。いわば「人の世でどう生きてゆくか」という戒めですね。
イエスさまはここで、十戒の前半部の「神と人との関係」についての戒めには触れておられませんが、それは人間相互に関する戒めの方がより大事ということではなくて、神と人との正しい関係を前提にした具体的な現れ、恵みの業としてあるべき人と人の正しい関係が語られているのです。
そのイエスさまが引用された十戒の中に、「奪い取るな」とありますが。実はこれは十戒にはないのですね。敢えていえば「隣人のものを一切欲するな」という戒めの自由な解釈ともとれますが。まあ、マタイとルカの並行記事では「奪い取るな」というのは削除されています。ただ、この「奪い取るな」というのは、元々自分のものではないものを自分のものにするな、ということですから、そう考えるとイエスさまが十戒の後半から引用された、命、婚姻、財産、権利について、それらは神から与えられたもので、それらを我がものとして奪い取るな、というふうにも読めると思えます。
そのようなイエスさまのお言葉に対して、金持ちの男は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。
するとイエスさまは「彼を見つめ、慈しんで」とあります。神の律法を重んじ、まっすぐにそれを守り通してきたこの人を慈しみ、愛情溢れるまなざしを注がれるのですが。しかし、それがこの男の「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」という質問に対する完全な答えであるとは考えておられませんでした。むろんこの男も律法を守るだけではまだ何か足りないのではと気づかされたからこそ、イエスさまのもとを訪ねてきたわけです。そこでイエスさまはこの人に、「あなたに欠けているものが一つある、行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる、それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいます。
多くの財産を持ち、幼いころからユダヤの教育を受け、律法を厳格に守り、常に向上心をもって生きる、だれの目から見ても、申し分のないようなこの人でしたが、イエスさまは「あなたに欠けているものが一つある」とおっしゃるのです。一体彼のどこが、何が欠けているというのでしょう。
ここでイエスさまは永遠の命を受け継ぐために、何が何でも自分の財産を売り払って、貧しい人に施すことが必要、と言われたのではありません。それが永遠の命を受け継ぐための条件というのではないのです。
この男に欠けていたこと。それは、彼自身の命をはじめ、財産も、すべては天の御神から一時的に地上にある間生かして用いるために与っている賜物である、との認識がなかったということです。永遠の命を得、神の国に与れるために必要なことを、このような形で投げかけられた時、この人は今まで気づきもしなかった自分自身の欠けたるものを、まざまざと思い知らされるのであります。22節にあるように「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ってゆく」のでありますが。聖書はここに、それは彼が「たくさんの財産を持っていたからである」と記しているのであります。
彼はイエスさまに二度と口を開くことなく、イエスさまの前から立ち去り、我が道を帰ってゆきました。多くの人は、もっとお金があれば気前よくなれる、何でもできると考えます。しかしこの人は多くの財産を所有していたがゆえに、それに執着し自由になることができなかったのです。だからといって誤解されては困りますが、財産を持つこと自体が悪いわけではありません。この男は経済的な祝福を受けた人でした。しかし、この人は賜物として託された財産と、それを託されたお方を同じ天秤にかけてしまったのです。
先週「神の国に入る人」と題し、宣教を聞きましたが。この金持ちの男はその多くの財産への執着に子供のように神の国を受けとり、入るものとなることができません。彼はその招きに与りながらも、自ら逸してしまうことになるのです。
24節で、イエスさまは弟子たちに言われます。「子たちよ、財産のあるものが神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
ユーモラスな表現ながら、何とも考えさせられる言葉であります。
人は金や富を多く所有するとそれで何でもできるという錯覚に陥ります。計算高くなり、次第にすべての源である神を畏れず、感謝することなく、祈り求めなくなります。
さて、それを聞いた弟子たちは驚いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったとあります。ここでの「救われる」の意味は「神の国に入る」ということですが。先程も触れましたけれど、ユダヤ社会で裕福であることは神からの祝福を示していたのです。それが、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたイエスさまの言葉に弟子たちは大変ショックを受けた、ということですね。
弟子たちもまた、「お金があれば施しもでき、善行も積める。捧げものだって牛1頭もささげることもできる。それでも神の国に入れないなら一体だれが救われるのか」と、人の行いやお金の力に捕らわれている面があったのではないでしょうか。
しかし、イエスさまはそんな弟子たちを見つめながら続けてこうおっしゃるのです。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるから。」
この箇所の名訳を見つけました。それは「小さくされた人々のための福音」(神世社)本田哲郎訳であります。そこにはこう訳されています。「神の国に入れないのは、人間の側のせいで、神のせいではない。神の側からはすべてが可能だ。」 どうですか、痛快な名訳ではないでしょうか。そこにイエスさまが最もおっしゃりたかった思いを読み取れます。
金持ちの男は、神の国の迫りをイエスさまの問いによって突きつけられた時、とうてい従い得ない自分の姿、その限界をまざまざと思い知らされ、イエスさまの前から立ち去る他しかなかったのです。
しかし、聖書はそのような自分の限界にぶち当たり、挫折する人にこそ、「神の側からの救い」を指し示されるのです。ちょっとここでローマの信徒への手紙10章を開けてみましょう。新約聖書p.288です。10章2~4節をお読みします。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」
神の側からの救いの道、イエス・キリストです。この命の主から注がれる義とその救いを信仰によって受け取る。その時、神の国は開かれるのです。
本日の後半の28節以降で、ペトロがイエスさまのお言葉に対して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出したとあります。
29節、30節を読みますと、イエスさまはそのペトロの思いを十分理解をされていることが分かります。筆頭弟子のペトロでありましても、主の招きに応えて従うには大変な葛藤があったのです。しかしここで注意しなければならないのは、世にあって大切な家族、や財産の放棄が、主の御後に従うための条件ではないということです。それは、主の側からの招きに御神にゆだねる信仰によってなされた放棄であります。その順番が逆ではないのです。弟子たちはそれぞれに、ある人には漁師や収税所の仕事の放棄がなされたり、ある人には両親と離れることであったりいたします。それを神の前に手放すことがなければ、イエスさまの御そばに留まることができなかったからです。
この主の御後に従うということの実現は、まったく神さまの側の業でありましたが、そこにはまさしく子供のように神の国を受け入れる信仰と神にゆだねる決意が必要でした。イエスの弟子たちはそれぞれそのような体験の証しがあって、30節に記されているように、神の家族としての祝福と永遠の命を受け継ぐ希望を授かっているのです。
最後の31節の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とのイエスさまの言葉ですが。これは一種の警告といえます。どんなに多くの財産を放棄したとしても、立派な奉仕や善行を積んだと主張しても、それ自体が神の国に入り、永遠の命を受け継ぐ保証とはなりません。神の側からの恵み、救いの福音を子供のように受け入れ、この限られた地上の生涯を主から戴いているあらゆる恵みの賜物を活かし用いてゆくことを主は何よりも喜んでくださいます。今レント(受難節)の只中ですが、33節以降で語られた主イエスの受難と死を通して与えられた罪の贖いの御業とみ救いの道が拓かれたことに心留めつつ、主イエスに従いゆく道を歩み続けていく者とされましょう。
この箇所には、金持ちの男とイエスさまの「永遠の命を受け継ぐ」ことについての対話が記されていますが。彼はユダヤ人で神の律法を幼い頃から学び、日頃からそれを心にかけてきた人でした。しかし、その地を訪れたイエスさまの教えや行動に大きく揺さぶられるのです。「まだ自分には足りないのではないか。」そんな疑問が膨らんでいったある日、いよいよイエスさまがその地を離れて旅に出ようとされるそのところに、彼は走り寄り、ひざまずいて、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればいいのでしょうか」と尋ねるのであります。
イエスさまはここですぐその質問にお答えにはならず、彼が「善い先生」と呼んだことに対して、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と忠告なさいます。イエスさまはこの男の心のうちに「善い人」になりたいというあこがれ、そう認められたいという強い願望があることを気にかけられます。「あの人は善い人だ」「非の打ちどころのない人だ」などと世間では口にされますが、それは人の一部あるいは側面だけ見て評価しているに過ぎません。善い人になりたいと努め励むこと自体尊くとも、それが必ずしも神の前で善いものであるかどうか人が言う事はできないのです。イエスさまは、父なる神さまのみが善であると言われます。人はとかく善人、立派な人のイメージを作りあげ、それに捕らわれるものですが。全き善であられる神は何を望んでおられるのか、尋ね求め、従ってゆくことをイエスさまは生涯を通してお示しになられたのであります。
ヨハネ5・19でイエスさまご自身、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」と言われているように。
さて、さらにイエスさまは律法の十戒を引用して、「あなたはこれらの掟を知っているはずだ」と言われます。ここで引用されたのは十戒の後半部の「人間相互に関するもの」でした。いわば「人の世でどう生きてゆくか」という戒めですね。
イエスさまはここで、十戒の前半部の「神と人との関係」についての戒めには触れておられませんが、それは人間相互に関する戒めの方がより大事ということではなくて、神と人との正しい関係を前提にした具体的な現れ、恵みの業としてあるべき人と人の正しい関係が語られているのです。
そのイエスさまが引用された十戒の中に、「奪い取るな」とありますが。実はこれは十戒にはないのですね。敢えていえば「隣人のものを一切欲するな」という戒めの自由な解釈ともとれますが。まあ、マタイとルカの並行記事では「奪い取るな」というのは削除されています。ただ、この「奪い取るな」というのは、元々自分のものではないものを自分のものにするな、ということですから、そう考えるとイエスさまが十戒の後半から引用された、命、婚姻、財産、権利について、それらは神から与えられたもので、それらを我がものとして奪い取るな、というふうにも読めると思えます。
そのようなイエスさまのお言葉に対して、金持ちの男は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えます。
するとイエスさまは「彼を見つめ、慈しんで」とあります。神の律法を重んじ、まっすぐにそれを守り通してきたこの人を慈しみ、愛情溢れるまなざしを注がれるのですが。しかし、それがこの男の「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」という質問に対する完全な答えであるとは考えておられませんでした。むろんこの男も律法を守るだけではまだ何か足りないのではと気づかされたからこそ、イエスさまのもとを訪ねてきたわけです。そこでイエスさまはこの人に、「あなたに欠けているものが一つある、行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる、それから、わたしに従いなさい」とおっしゃいます。
多くの財産を持ち、幼いころからユダヤの教育を受け、律法を厳格に守り、常に向上心をもって生きる、だれの目から見ても、申し分のないようなこの人でしたが、イエスさまは「あなたに欠けているものが一つある」とおっしゃるのです。一体彼のどこが、何が欠けているというのでしょう。
ここでイエスさまは永遠の命を受け継ぐために、何が何でも自分の財産を売り払って、貧しい人に施すことが必要、と言われたのではありません。それが永遠の命を受け継ぐための条件というのではないのです。
この男に欠けていたこと。それは、彼自身の命をはじめ、財産も、すべては天の御神から一時的に地上にある間生かして用いるために与っている賜物である、との認識がなかったということです。永遠の命を得、神の国に与れるために必要なことを、このような形で投げかけられた時、この人は今まで気づきもしなかった自分自身の欠けたるものを、まざまざと思い知らされるのであります。22節にあるように「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ってゆく」のでありますが。聖書はここに、それは彼が「たくさんの財産を持っていたからである」と記しているのであります。
彼はイエスさまに二度と口を開くことなく、イエスさまの前から立ち去り、我が道を帰ってゆきました。多くの人は、もっとお金があれば気前よくなれる、何でもできると考えます。しかしこの人は多くの財産を所有していたがゆえに、それに執着し自由になることができなかったのです。だからといって誤解されては困りますが、財産を持つこと自体が悪いわけではありません。この男は経済的な祝福を受けた人でした。しかし、この人は賜物として託された財産と、それを託されたお方を同じ天秤にかけてしまったのです。
先週「神の国に入る人」と題し、宣教を聞きましたが。この金持ちの男はその多くの財産への執着に子供のように神の国を受けとり、入るものとなることができません。彼はその招きに与りながらも、自ら逸してしまうことになるのです。
24節で、イエスさまは弟子たちに言われます。「子たちよ、財産のあるものが神の国に入るのは、何と難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
ユーモラスな表現ながら、何とも考えさせられる言葉であります。
人は金や富を多く所有するとそれで何でもできるという錯覚に陥ります。計算高くなり、次第にすべての源である神を畏れず、感謝することなく、祈り求めなくなります。
さて、それを聞いた弟子たちは驚いて「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言ったとあります。ここでの「救われる」の意味は「神の国に入る」ということですが。先程も触れましたけれど、ユダヤ社会で裕福であることは神からの祝福を示していたのです。それが、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われたイエスさまの言葉に弟子たちは大変ショックを受けた、ということですね。
弟子たちもまた、「お金があれば施しもでき、善行も積める。捧げものだって牛1頭もささげることもできる。それでも神の国に入れないなら一体だれが救われるのか」と、人の行いやお金の力に捕らわれている面があったのではないでしょうか。
しかし、イエスさまはそんな弟子たちを見つめながら続けてこうおっしゃるのです。
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるから。」
この箇所の名訳を見つけました。それは「小さくされた人々のための福音」(神世社)本田哲郎訳であります。そこにはこう訳されています。「神の国に入れないのは、人間の側のせいで、神のせいではない。神の側からはすべてが可能だ。」 どうですか、痛快な名訳ではないでしょうか。そこにイエスさまが最もおっしゃりたかった思いを読み取れます。
金持ちの男は、神の国の迫りをイエスさまの問いによって突きつけられた時、とうてい従い得ない自分の姿、その限界をまざまざと思い知らされ、イエスさまの前から立ち去る他しかなかったのです。
しかし、聖書はそのような自分の限界にぶち当たり、挫折する人にこそ、「神の側からの救い」を指し示されるのです。ちょっとここでローマの信徒への手紙10章を開けてみましょう。新約聖書p.288です。10章2~4節をお読みします。「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」
神の側からの救いの道、イエス・キリストです。この命の主から注がれる義とその救いを信仰によって受け取る。その時、神の国は開かれるのです。
本日の後半の28節以降で、ペトロがイエスさまのお言葉に対して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出したとあります。
29節、30節を読みますと、イエスさまはそのペトロの思いを十分理解をされていることが分かります。筆頭弟子のペトロでありましても、主の招きに応えて従うには大変な葛藤があったのです。しかしここで注意しなければならないのは、世にあって大切な家族、や財産の放棄が、主の御後に従うための条件ではないということです。それは、主の側からの招きに御神にゆだねる信仰によってなされた放棄であります。その順番が逆ではないのです。弟子たちはそれぞれに、ある人には漁師や収税所の仕事の放棄がなされたり、ある人には両親と離れることであったりいたします。それを神の前に手放すことがなければ、イエスさまの御そばに留まることができなかったからです。
この主の御後に従うということの実現は、まったく神さまの側の業でありましたが、そこにはまさしく子供のように神の国を受け入れる信仰と神にゆだねる決意が必要でした。イエスの弟子たちはそれぞれそのような体験の証しがあって、30節に記されているように、神の家族としての祝福と永遠の命を受け継ぐ希望を授かっているのです。
最後の31節の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」とのイエスさまの言葉ですが。これは一種の警告といえます。どんなに多くの財産を放棄したとしても、立派な奉仕や善行を積んだと主張しても、それ自体が神の国に入り、永遠の命を受け継ぐ保証とはなりません。神の側からの恵み、救いの福音を子供のように受け入れ、この限られた地上の生涯を主から戴いているあらゆる恵みの賜物を活かし用いてゆくことを主は何よりも喜んでくださいます。今レント(受難節)の只中ですが、33節以降で語られた主イエスの受難と死を通して与えられた罪の贖いの御業とみ救いの道が拓かれたことに心留めつつ、主イエスに従いゆく道を歩み続けていく者とされましょう。