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イエスの福音に見出されて

2014-04-06 13:22:42 | メッセージ
礼拝宣教 マルコ1章9~14節 

①「霊によって生まれた神の子イエス」
このマルコの福音書には、マタイやルカの福音書に記されているような「イエスの降誕物語」の記事はありません。しかしここに、「主イエスがバプテスマを受けられ、水の中から上ってくるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とありますように、マルコはマタイやルカの福音書と同様、イエスさまが神の愛してやまない独り子としてお生まれになられた、ということを明確に物語っているのであります。
主イエスは、バプテスマのヨハネからヨルダン川でバプテスマをお受けになった、とありますが。それは4節にあるとおり、罪の赦しを得させるための悔改めのバプテスマでした。イエスさまが神の子であり罪なきお方であるなら、なぜヨハネからそのような罪の悔改めのバプテスマを受けなければならなかったのか、と疑問を持たれる方もおられるでしょう。マタイやルカ、さらにヨハネの福音書では、神の子が私たちの人間の肉体をとってこの地上にお生まれくださったこと、神の子イエスさまが肉をとって私たちの間に宿られたということが語られていますが。このマルコではイエスさまがヨハネからバプテスマを受けられたエピソードを通して、まさに主イエスが私たち人間の姿をとってどこまでも罪深い人間と共に生きてくださる方であることを表しているのです。
ちなみに、イエスさまがバプテスマを受けられたヨルダン川は、ガリラヤ湖の北側にあると言われており、その地帯の海抜はマイナス200メートルもの低地にあるそうです。
ついでにさらに南下して死海に至りますとその海抜はマイナス400メートルにまで達するまさにどん底に位置するのでありますが。死海の水はこのままでは近い将来涸れるそうで、パレスチナ諸国間で何とかその水を涸らせないために協力がなされているとの報道を知り驚いていますが。
いずれにしろ、まあイエスさまがヨハネから受けたバプテスマは、そういう最も低いところにまで身をおかれての沈めのバプテスマであったということであります。
私は本田哲朗神父とお会いすると、その度ごとに、「バプテストは、最も低いところに身をおいてその沈めのバプテスマということを大事にされている」と、よく言われた事を思い出すのですが。神の御子でありながら人の子としてお生まれになられたイエスさまは、貧しさも病も、人の弱さも痛みをもって体験なさり、来週は受難週を迎えますが、そのイエスさまは十字架の処刑場に引き渡され、蔑みと嘲りの中、人の闇の底にまでも下られるようにして死なれたのです。イエスさまのバプテスマは、そのように人の闇の底にまでも身をおいて、共に生きようとなさる、主イエスの決意の表明であったのであります。

②「霊が荒れ野に送り出す」
さて、その後イエスさまは、「荒れ野でサタンの誘惑をお受けになられる」のでありますが。ここには、荒れ野にイエスさまを送り出したのは誘惑するサタンでなく、イエスさまのバプテスマの折に降った「霊」であった、と語られています。
私たちも時に、喜びも楽しみも見出せず、荒れ野のような状況におかれることもあるかもしれません。又、神の御心に敵対する勢力や存在の中にあって、孤独を強く感じることもあるかもしれません。けれども、イエスさまを導かれたのは神の霊の働きであったように、たとえそれが荒れ野とも思えるところであっても、そこに神の霊の導きと計画、御心があるということであります。
イエスさまにとってこの荒れ野の40日間というものは、その後ガリラヤから始まる宣教活動の試金石となるものでありました。
マタイやルカの福音書には、イエスさまの荒れ野での40日間における巧みなサタンの試みとそれへのイエスさまの対応についての詳細な報告がなされていますが。このマルコの福音書には、「イエスさまは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた、その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と、淡々と報告がなされるのみです。そして何より大きく違うのは、サタンの誘惑に勝利されたという記事がマルコにはないということです。そこには、この後も絶えずサタンの誘惑があり、神の御心が成ることを妨げようとする力が働いていたことを示唆しているように読めます。マルコにとってイエスさまの勝利は神の御心に聞き従って、十字架の苦難と死を通る以外の何ものでもなかったのです。
さて、荒れ野といえば、シナイ半島やパレスチナを思えば確かに何もない、自然の環境も厳しく危険な場所、又、人けのない寂しいところということができるでしょう。          しかしどうでしょうか、今日に時代においても、たとえば財や物資があり栄えている人であったとしても、何か心の中に満たされない思いや恐れや不安を抱えて日々生きている人がいます。又、聖書教育の資料コラムに、「私の人生論ノート」の著者である哲学者の三木清さんの言葉が次のように引用されていました。「孤独は山にはなく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の間にある。」
そのような状態も現代の荒れ野ということができるでしょう。そういうところにサタンは巧妙に働いて人を神の御心とその愛から引き離し、背きと滅びへ向かわせようと誘うのであります。
イエスさまは、私たちが現代の荒れ野でも経験するような孤独、飢えや渇き、無力の中でさまざまなサタンの誘惑を受けつつも、神の御心に聞き従ってゆかれました。そこには「天使たちが仕えていた」とあります。荒れ野は、孤独や苦悩、不安や恐れを与えるような場でありますが、しかし神の霊に導かれる者にとっては、天使たちが仕えるところ、すなわち祈りと執り成しと献身がなされ、養われる場でもあるのです。

③「ガリラヤでの宣教開始」
さて、このように霊の導きのもとで荒れ野に送りだされてサタンの誘惑を受けられたイエスさまは、いよいよ14節以降、福音宣教の活動をガリラヤの地で開始されるのでありますが。9節に、イエスさまはバプテスマを受けられるために、「ガリラヤのナザレから来た」と記されています。
マルコの福音書においては、イエスさまが「ガリラヤ」から出た者であるということが強調されているのです。霊によってお生まれになられた神の子イエスさまは、ガリラヤから出た。マタイやルカの福音書のように「ユダヤのベツレヘム生まれの、ダビデの系図をもった人」とは紹介せず、ガリラヤの人と紹介しているのです。
イエスさまの時代のガリラヤは、都のあったエルサレムと常に比較され、神なき異邦人のガリラヤ、田舎者や外国人の住むガリラヤ、とユダヤの社会からは蔑み見下されていました。しかし、イエスさまの福音宣教はガリラヤから始まっていったのであります。それはまさに、神殿のあったエルサレムのユダヤ人たちよりも、ガリラヤには神の御救いを求める人々の叫びや訴え、神の助けと救いを切実求める人々が大勢いたからではないでしょうか。権力や圧政のもとでの虐げや苦しめに遭っていた人々がガリラヤにはいたからです。そのようなところから、イエスさまの福音宣教の活動は始められます。主だったユダヤの人々は、「ガリラヤから何のよいものが出ようか」と言い嘲笑っていました。けれども神の恵みは最も救いを必要とする人たちの間で始められたのです。聖書は、それがイエスさまにバプテスマを授けたヨハネが捕えられた直後から、開始されたと伝えています。
イエスさまのガリラヤから始められた福音宣教もまた苦難と試みが伴うものであり、そこには既に十字架への道が暗示されているようでもあります。


④「神の国に入る福音」
イエスさまは神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔改めて福音を信じなさい」と言われました。ここにイエスさまの最も伝えたい思いがあらわれています。
イエスさまの時代、ユダヤ人たちはやがて王なるメシヤが到来し、世の終わりが来て、最後の審判がなされる。その時、神に選ばれたアブラハムの子孫である自分たちは神の永遠の祝福に入れられ、イスラエルの民でない異邦人は、永遠の滅びにと苦しみに入ると、信じていました。それがいわゆる彼らの天国観であったのです。
これに対して、バプテスマのヨハネは、最後の審判の日がいますぐ到来する、審判者であるメシヤはすでにそばにきている、悔い改めてその備えをしなさい、といって罪の悔い改めのバプテススマを宣べ伝えたのです。それは単に神に選ばれたユダヤ人、アブラハムの子孫であるということだけで救われるのではなく、心からその罪を悔改めて、神に立ち帰って生きる道こそ大事だ、ということを説いたのであります。
しかし、この人間の側の悔改めをいくらなしても、なお神の国は人の罪のゆえに遠く隔てられていました。ただ一度清めのバプテスマを受けたところで、そのまま生涯罪を犯さずに生きられる人などいないのです。

バプテスマのヨハネは、「わたしは水であなたがたにバプテスマを授けたが、その方(イエスさま)は聖霊でバプテスマをお授けになる」と言いました。決してつきることのない「生ける神の霊、聖霊でバプテスマを施される神の子イエスさまが、わたしの後にお出でになる」と、ヨハネは説いたのであります。
イエスさまはおっしゃいました。「時は満ち、神の国は近づいた。」
それは、定められた神による救いの時が今成就した、遠く隔てられていた神の国が今や近づいた、という意味です。「悔い改めて福音を信じなさい。」ここで言う「信じる」とは、神と御子イエスに全幅の信頼を持つことです。

イエスさまが宣教された神の国は、福音を信じて入いるところであります。私たち人間の姿をとってお生まれになり、地上の荒れ野において私たち人間が経験するあらゆる苦悩、痛み、不安や恐れ、サタンの誘惑を受けられ、十字架の低みから愛し執り成し続けて下さる主イエスに全幅の信頼を持つ、今、そこに天の国は開かれているのであります。
ここで「悔改めて」といわれているのは、罪への悔改め、後悔のことではありません。イエスさまのみ救いと聖霊の導きを受け入れて、そのイエスさまの方に自分の生きる方向を変えて生きよ、という救いの招き以外の何ものでもないのであります。それは私の側がどうこういうのではなく、イエスさまとその福音に見出されて生きるという事であります。
今、御自分の進む道を求めておられる方もここにおられると思いますが。どうか、このイエスさまにご自分の道をゆだね、イエスさまと共に歩み続ける。ここに救いがあるのです。その信仰が与えられますよう、お祈りいたします。
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