イースター礼拝宣教 マルコ16章1~8節
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。』(6節)
主イエスの復活の記事は「イエスが埋葬された墓」を舞台にしています。そこで主イエスの復活の知らせを最初に聞いたのは、先週の受難週の礼拝にも登場した女性たちでした。最後まで仕え、イエスさまが十字架に架かり苦しみと苦難の末に息を引き取られていくのを遠くから見守り続けた、まさにその女性たちが主イエスの復活の知らせを最初に聞くのであります。一方、イエスの弟子たちは「何が起ころうと、あなたにどこまでも従います」と豪語していましたが、イエスが捕えられると、逃げ去り身を隠したのです。
さて、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの3人の女性たちは、週の始めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」と記されています。パレスチナ地方では人が死ぬと目を閉じてから、身体をきれいな水で洗った後、腐敗するときに出る死臭を防ぐために香料を塗って、葬るという慣習がありました。
イエスさまが息を引き取られたのは、安息日が始まる日没前の午後でありましたので、安息日の間の金曜日没から土曜日没までは規定により出歩くことができなかったんですね。そのため日曜日の明け方になったわけですが。
金曜日にイエスさまが十字架から降ろされた時、アリマタヤのヨセフという身分のある議員が自ら申し出て、その遺体を亜麻布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納めた、というのでありますが。恐らく安息日が間近に迫っていたので、彼は遺体を埋葬するのに手いっぱいで、香料まで塗るいとまもなかったのでしょう。この間女性たちは事のなりゆきを見守る他ありませんでした。ですからこの女性たちは、安息日明けの土曜日の日没後、どこかで香料を買い求めて、翌日の日曜日の早朝、イエスの遺体に香料を塗るために、その納められている墓にいそいそと向かうのであります。女性たちは何と些細なことに気づくことができるのでしょう。しかしそれは彼女たちにとって決して小さなことではなく、イエスさまに対する心遣いとその愛情の深さの表れであるのです。
その心のうちは、イエスさまのその死からまだ3日しか経っていませんでしたから、心神喪失ともいえるほどの状態であり、悲しみと寂しさでいっぱいだったことでしょう。
しかし、そんな彼女らの心をさらに重くする心配事がありました。それは、「だれが墓の入り口をふさいでいる大きな石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたとありますように、墓の入り口は女性3人の力では到底動かせない大きな石で塞がされていたのであります。
ところが、女性たちが墓の入り口に着き、「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」というのです。マルコの福音書記者は、「転がされてあったその石は、非常に大きかったのである」と告げています。墓を塞ぐとてつもなく大きな重い石。それは人のどんな思いも、どんな強い愛情をも受けようとしない、この地上と死者を隔てる石です。
しかし、彼女たちが見上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあったというのですね。
一体何が起ったのかと、どんなにか驚いたのではないでしょうか。
当時のお墓は、岩を掘った横穴に大きな円盤状の石を立て掛けるようにして蓋がされたのですが。もう一つのマタイの福音書には、イエスの埋葬された墓の石にはその上にさらに封印がされ、番兵がおかれていた、と記されています。そのような厳重な警備と封印のされた墓がどういうわけかすでに開かれ、番兵の姿もどこにも見当たりません。
動揺しながらも女性たちが「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのを見て、ひどく驚いた」というのであります。
この若者は女性たちにこう言います。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」
いくら「驚くことはない」と言われても、そりゃあ動転したのも無理のない話でありました。墓は開いており、番兵の姿も無く、墓の中に入ると天の使いとおぼしき白い長い衣を着た若者が、「イエスは復活された」というのです。彼女らは驚きもあったでしょうが、何と言っても「イエスさまがここにいない」という事実を目の当たりにしたその衝撃というのは、さぞかし大きかったのではないでしょうか。
「イエスさまは復活された」という素晴らしい知らせも、そのような状態にある女性たちの心には届きませんで、聖書は「女性たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と伝えています。
さて、実はこのマルコ福音書はこのように女性たちが動転し、恐れ、震え上がっている状況を伝え、ここで唐突に終っているのです。結びとして続きがありますが、これは後になって付け加えられた部分とされていますので、元々はここで終わっているんですね。
十字架の受難と死により葬られたイエスが墓におられない。そういう現実を前に、悲嘆にくれ、恐れ、震え上がる女性たちの姿。それはそのような状況に放り込まれた人間の、ありのままの姿を何の憶測も含まず、そのまんま伝えているわけですが。しかしそのことが逆にリアリティーをもっているように思えるのも事実です。天使の話を聞いて「わぁーそうですか、まあうれしい」などというのは何だかウソっぽい。悲しいのはそのままに、苦しいのもそのままに、自分でもどう気持ちを整理してよいのかわからない中で、希望を語られても正直はいそうですか、とは言えないのが私たち人間ではないでしょうか。
今この時、この地上において起るさまざまな理解し難いような出来事や災害に遭遇されている方々、身近にも未だに先行きが見えず苦しみ、闘っておられる方々がおられます。
私たちも人生において取り乱し、考えもまとまらず、思いをどう整理すればよいのか分からない状況が生じることがあるでしょう。あの女性たちのように、もう何がなんだか分からない恐れに捕らわれることもあるかも知れません。信仰を持っているとはいえ、それが私たちの現実です。そして、たいていは嵐の日々が通り過ぎた後々になって、「ああ、あの聖書の言葉に支えられていたなあとか、祈られ導かれていたんだなあ、ということを知らされる経験がおありではないでしょうか。そういった信仰の歩みを通して、「生きて働かれる主との出会い」を日々経験しているという確信をいただくのです。
さてここで、白い衣を着た若者の言葉をもう一度よく聞いて見ましょう。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
ここでわざわざナザレのイエスと言っているのは、人と何ら変わることのない苦しみ、そして死をイエスさまはは身に受けられたということを表しています。具体的な地に人とし生まれ、人として生き、人として苦しみ死なれた。それは神の共感であり、神共にいますという事の具体的姿だったのだ、と先週のイエスの十字架の箇所からお話いたしました。
イエスさまが十字架上において最期に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫されて息を引き取られた。それは世の人にとっては惨めで無残な敗北の死としか映りません。しかし、その壮絶な苦悩と絶叫は、実は私たち人間の抱えているものであり、イエスさまが、「神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と絶叫して死なれたのは、外でもない人の子として私たちの最も深い所からの叫びを共にしてくださったそのお姿であります。イエスの十字架刑の指揮をとるため、そばにいたローマの百人隊長はそのイエスの最期を見て、「本当に、この人は神の子であった」と言いました。彼もまた、何か鮮やかな奇跡の中にではなく、暗闇の只中で神に絶叫するイエスの姿に、人の苦しみ、死の悲しみに共鳴する神を見たからです。
墓の中にいた天使とおぼしき若者は、その十字架の受難と死を経験されたナザレのイエスはもはや死人の墓にはおられない、復活された、と伝えます。
女性たちは、白い衣を着た若者の言葉をすぐに理解することはできなかったと思いますが。
確かに向こう側から語りかけている、あの天の声を聞くのであります。
『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、言われたとおり、そこでお目にかかれる』。
やがて、復活のイエスさまとお会いし、その大いなる恵み、喜びに満たされる時が来るという予告であります。
ガリラヤ、そこはかつて弟子たちが主イエスと出会われた場所であり、日常と人々の苦悩、人生の悲しみや喜びが交差する生活の場であります。差別や偏見、貧しさの中でも一日一日を精一杯生きようとする人びとの住む地ガリラヤ。
白い衣を着た若者は、弟子たちととりわけペトロに、そのガリラヤで「復活のイエスさまにお目にかかれる」と告げています。
弟子たちはイエスさまが捕えられ十字架に架けられると散り散りに逃げてしまいました。しかし、主はそのような弟子たちを見捨てることなく、ガリラヤで会おう、とおっしゃるのです。又、ここであえてペトロを名指ししているのにはわけがありました。その時、ペトロは深い絶望の淵に陥っていたからです。あれほどどこまでも従いますと言っておきながら、イエスを3度も知らないと言い放って否定した自分のふがいなさ、その罪深さに自分を責め続けていたペトロでした。復活の主イエスは、そのペトロに対して、はじめに出会った場所であり、出発の地である「ガリラヤで待っている」と伝言なされるのです。ペトロや弟子たちが最初にイエスさまから召命を受けたそのガリラヤで再び主イエスとお会いできる。それは新たな神のご計画がすでに準備されていることを予感させます。
私たちキリスト者は多くの場合、自らの人生の必要にかられ導きをおぼえる中で、主イエスを救い主として受け入れたことでしょう。それはこの時の女性たちと同様、イエスさまを肉眼で見たから信じたのではありません。何かハッキリとした啓示を受けたから信じたという人もまれでしょう。ではなぜ信じて生きてゆく道に一歩踏み出し得たのか。
それは、神の言葉である聖書のお言葉、聖霊の導き、あるいは教会の主にある兄弟姉妹の支えや祈りによって、神の子イエス・キリストの福音の確かさを経験したからではないでしょうか。今私たちは、肉眼で復活のイエスさまを見ているわけではありませんが、主イエスは確かに生きておられ、共におられる、ということを日々体験することができます。実にそのこと自体が奇跡であります。
Ⅱコリント5章18節の、「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」というお言葉のとおりです。
本日の聖書は、「主イエスは墓におられない。あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と伝えます。私たちのガリラヤ、日常のいとなみの中に復活の主はすでに先立ち待っておられます。私たちはそこで主とお会いすることが出来るでしょう。
イースターは、主イエスの命に生かされる約束の記念日であることを、今日心から感謝します。イースターおめでとうございます。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。』(6節)
主イエスの復活の記事は「イエスが埋葬された墓」を舞台にしています。そこで主イエスの復活の知らせを最初に聞いたのは、先週の受難週の礼拝にも登場した女性たちでした。最後まで仕え、イエスさまが十字架に架かり苦しみと苦難の末に息を引き取られていくのを遠くから見守り続けた、まさにその女性たちが主イエスの復活の知らせを最初に聞くのであります。一方、イエスの弟子たちは「何が起ころうと、あなたにどこまでも従います」と豪語していましたが、イエスが捕えられると、逃げ去り身を隠したのです。
さて、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの3人の女性たちは、週の始めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」と記されています。パレスチナ地方では人が死ぬと目を閉じてから、身体をきれいな水で洗った後、腐敗するときに出る死臭を防ぐために香料を塗って、葬るという慣習がありました。
イエスさまが息を引き取られたのは、安息日が始まる日没前の午後でありましたので、安息日の間の金曜日没から土曜日没までは規定により出歩くことができなかったんですね。そのため日曜日の明け方になったわけですが。
金曜日にイエスさまが十字架から降ろされた時、アリマタヤのヨセフという身分のある議員が自ら申し出て、その遺体を亜麻布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納めた、というのでありますが。恐らく安息日が間近に迫っていたので、彼は遺体を埋葬するのに手いっぱいで、香料まで塗るいとまもなかったのでしょう。この間女性たちは事のなりゆきを見守る他ありませんでした。ですからこの女性たちは、安息日明けの土曜日の日没後、どこかで香料を買い求めて、翌日の日曜日の早朝、イエスの遺体に香料を塗るために、その納められている墓にいそいそと向かうのであります。女性たちは何と些細なことに気づくことができるのでしょう。しかしそれは彼女たちにとって決して小さなことではなく、イエスさまに対する心遣いとその愛情の深さの表れであるのです。
その心のうちは、イエスさまのその死からまだ3日しか経っていませんでしたから、心神喪失ともいえるほどの状態であり、悲しみと寂しさでいっぱいだったことでしょう。
しかし、そんな彼女らの心をさらに重くする心配事がありました。それは、「だれが墓の入り口をふさいでいる大きな石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたとありますように、墓の入り口は女性3人の力では到底動かせない大きな石で塞がされていたのであります。
ところが、女性たちが墓の入り口に着き、「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」というのです。マルコの福音書記者は、「転がされてあったその石は、非常に大きかったのである」と告げています。墓を塞ぐとてつもなく大きな重い石。それは人のどんな思いも、どんな強い愛情をも受けようとしない、この地上と死者を隔てる石です。
しかし、彼女たちが見上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあったというのですね。
一体何が起ったのかと、どんなにか驚いたのではないでしょうか。
当時のお墓は、岩を掘った横穴に大きな円盤状の石を立て掛けるようにして蓋がされたのですが。もう一つのマタイの福音書には、イエスの埋葬された墓の石にはその上にさらに封印がされ、番兵がおかれていた、と記されています。そのような厳重な警備と封印のされた墓がどういうわけかすでに開かれ、番兵の姿もどこにも見当たりません。
動揺しながらも女性たちが「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのを見て、ひどく驚いた」というのであります。
この若者は女性たちにこう言います。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」
いくら「驚くことはない」と言われても、そりゃあ動転したのも無理のない話でありました。墓は開いており、番兵の姿も無く、墓の中に入ると天の使いとおぼしき白い長い衣を着た若者が、「イエスは復活された」というのです。彼女らは驚きもあったでしょうが、何と言っても「イエスさまがここにいない」という事実を目の当たりにしたその衝撃というのは、さぞかし大きかったのではないでしょうか。
「イエスさまは復活された」という素晴らしい知らせも、そのような状態にある女性たちの心には届きませんで、聖書は「女性たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、誰にも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と伝えています。
さて、実はこのマルコ福音書はこのように女性たちが動転し、恐れ、震え上がっている状況を伝え、ここで唐突に終っているのです。結びとして続きがありますが、これは後になって付け加えられた部分とされていますので、元々はここで終わっているんですね。
十字架の受難と死により葬られたイエスが墓におられない。そういう現実を前に、悲嘆にくれ、恐れ、震え上がる女性たちの姿。それはそのような状況に放り込まれた人間の、ありのままの姿を何の憶測も含まず、そのまんま伝えているわけですが。しかしそのことが逆にリアリティーをもっているように思えるのも事実です。天使の話を聞いて「わぁーそうですか、まあうれしい」などというのは何だかウソっぽい。悲しいのはそのままに、苦しいのもそのままに、自分でもどう気持ちを整理してよいのかわからない中で、希望を語られても正直はいそうですか、とは言えないのが私たち人間ではないでしょうか。
今この時、この地上において起るさまざまな理解し難いような出来事や災害に遭遇されている方々、身近にも未だに先行きが見えず苦しみ、闘っておられる方々がおられます。
私たちも人生において取り乱し、考えもまとまらず、思いをどう整理すればよいのか分からない状況が生じることがあるでしょう。あの女性たちのように、もう何がなんだか分からない恐れに捕らわれることもあるかも知れません。信仰を持っているとはいえ、それが私たちの現実です。そして、たいていは嵐の日々が通り過ぎた後々になって、「ああ、あの聖書の言葉に支えられていたなあとか、祈られ導かれていたんだなあ、ということを知らされる経験がおありではないでしょうか。そういった信仰の歩みを通して、「生きて働かれる主との出会い」を日々経験しているという確信をいただくのです。
さてここで、白い衣を着た若者の言葉をもう一度よく聞いて見ましょう。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
ここでわざわざナザレのイエスと言っているのは、人と何ら変わることのない苦しみ、そして死をイエスさまはは身に受けられたということを表しています。具体的な地に人とし生まれ、人として生き、人として苦しみ死なれた。それは神の共感であり、神共にいますという事の具体的姿だったのだ、と先週のイエスの十字架の箇所からお話いたしました。
イエスさまが十字架上において最期に、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶叫されて息を引き取られた。それは世の人にとっては惨めで無残な敗北の死としか映りません。しかし、その壮絶な苦悩と絶叫は、実は私たち人間の抱えているものであり、イエスさまが、「神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と絶叫して死なれたのは、外でもない人の子として私たちの最も深い所からの叫びを共にしてくださったそのお姿であります。イエスの十字架刑の指揮をとるため、そばにいたローマの百人隊長はそのイエスの最期を見て、「本当に、この人は神の子であった」と言いました。彼もまた、何か鮮やかな奇跡の中にではなく、暗闇の只中で神に絶叫するイエスの姿に、人の苦しみ、死の悲しみに共鳴する神を見たからです。
墓の中にいた天使とおぼしき若者は、その十字架の受難と死を経験されたナザレのイエスはもはや死人の墓にはおられない、復活された、と伝えます。
女性たちは、白い衣を着た若者の言葉をすぐに理解することはできなかったと思いますが。
確かに向こう側から語りかけている、あの天の声を聞くのであります。
『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、言われたとおり、そこでお目にかかれる』。
やがて、復活のイエスさまとお会いし、その大いなる恵み、喜びに満たされる時が来るという予告であります。
ガリラヤ、そこはかつて弟子たちが主イエスと出会われた場所であり、日常と人々の苦悩、人生の悲しみや喜びが交差する生活の場であります。差別や偏見、貧しさの中でも一日一日を精一杯生きようとする人びとの住む地ガリラヤ。
白い衣を着た若者は、弟子たちととりわけペトロに、そのガリラヤで「復活のイエスさまにお目にかかれる」と告げています。
弟子たちはイエスさまが捕えられ十字架に架けられると散り散りに逃げてしまいました。しかし、主はそのような弟子たちを見捨てることなく、ガリラヤで会おう、とおっしゃるのです。又、ここであえてペトロを名指ししているのにはわけがありました。その時、ペトロは深い絶望の淵に陥っていたからです。あれほどどこまでも従いますと言っておきながら、イエスを3度も知らないと言い放って否定した自分のふがいなさ、その罪深さに自分を責め続けていたペトロでした。復活の主イエスは、そのペトロに対して、はじめに出会った場所であり、出発の地である「ガリラヤで待っている」と伝言なされるのです。ペトロや弟子たちが最初にイエスさまから召命を受けたそのガリラヤで再び主イエスとお会いできる。それは新たな神のご計画がすでに準備されていることを予感させます。
私たちキリスト者は多くの場合、自らの人生の必要にかられ導きをおぼえる中で、主イエスを救い主として受け入れたことでしょう。それはこの時の女性たちと同様、イエスさまを肉眼で見たから信じたのではありません。何かハッキリとした啓示を受けたから信じたという人もまれでしょう。ではなぜ信じて生きてゆく道に一歩踏み出し得たのか。
それは、神の言葉である聖書のお言葉、聖霊の導き、あるいは教会の主にある兄弟姉妹の支えや祈りによって、神の子イエス・キリストの福音の確かさを経験したからではないでしょうか。今私たちは、肉眼で復活のイエスさまを見ているわけではありませんが、主イエスは確かに生きておられ、共におられる、ということを日々体験することができます。実にそのこと自体が奇跡であります。
Ⅱコリント5章18節の、「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」というお言葉のとおりです。
本日の聖書は、「主イエスは墓におられない。あの方は、あなた方より先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と伝えます。私たちのガリラヤ、日常のいとなみの中に復活の主はすでに先立ち待っておられます。私たちはそこで主とお会いすることが出来るでしょう。
イースターは、主イエスの命に生かされる約束の記念日であることを、今日心から感謝します。イースターおめでとうございます。