日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

イースターは教会へ!

2014-04-13 12:39:18 | 教会案内
イースター礼拝のご案内 2014
 
4月20日(日)10:30am-12:00pm

イースターはキリスト教会のクリスマスと並ぶお祝いの日です。

天王寺の街で63年目の春を迎え、昨年建て替えられた新しい教会堂
で初めてのイースター礼拝を祝います。ぜひ教会に足をお運びくだ
さり、ご一緒に主イエスの救いと復活の礼拝をお祝いいただければ、
と願っております。心より、ご来会をお待ち申しあげております。

私たちの教会は・・・
日本バプテスト連盟(全国324教会・伝道所)
に属し、福岡の西南学院、西南女学院、重症児施設久山療育園、
京都の日本バプテスト病院、同看護専門学校も、同じバプテスト
の事業体です。


日本バプテスト大阪教会

〒543-0063 大阪市天王寺区茶臼山町1-17
  ℡ 06(6771)3865  Email: obcs@nifty.com
  HP: obcs.jimdo.com







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本当に、この人は神の子だった

2014-04-13 12:39:18 | メッセージ
礼拝宣教  マルコ15章33~41節 

現代では十字架はファッションのようになっており、キリスト教信仰とは関係ないところでネックレスやキーホルダーやストラップになっていたりしますが。元々は到底そんな人に好き好まれるような美しいもの、かっこうのよいものではありません。それはローマ帝国が奴隷の反乱を防ぐために考案したもので、十字架に架けて長時間苦しみながら衰弱死するのを見せしめにする、そんな残酷な刑具であったのです。ですから、十字架刑による無残な死を遂げたイエスが救い主であるなどとは、当時のユダヤの人々にとっては到底あり得ないことだったのです。旧約聖書に「木に架けられた者は呪われる」という言葉にもあるよう十字架による死はまさに呪いそのものだと、多くのユダヤの人々は考えていました。彼らにとってイエスは神に呪われた者であり、十字架に架けられたその無残な姿は人々にとって躓き以外の何ものでもなかったのであります。

イエスさまは午前9時に十字架に架けられてから午後3時の最期の時を迎えられるまでに6時間苦しみ抜かれました。十字架に手と足を大きな釘で打たれ、想像を絶する苦痛の中、そこを通りがかった人々から侮辱やののしりを受けます。
「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」
彼らはほんの数日前にイエスさまがエルサレムに入城された時には、「ホサナ、ホサナ主の名によって来たるもの」と、はやしたて出迎えた人々でした。「ホサナ、我らの王ダビデの来るべき国に祝福があるように。」ローマの統治下にあったユダヤの人々は、ユダヤが再びダビデ王の時代のように国に繁栄をもたらす力強いメシヤなる王を、イエスに期待したのです。ところが、彼らの思いに反してイエスは十字架に架けられてしまうのです。期待は失望と憎悪に変わりました。
さらに、ユダヤの指導的立場にあった祭司長たちや律法学者たちからも、「他人は救ったのに自分は救えない」と侮辱され、しまいには十字架に架けられた者たちまでもが、「十字架から降りて自分を救ってみろ」と、イエスをののしったというのであります。彼らもまた、「おまえが本当に神から出たものであるなら、力ある業を示してそんなところから、そんな苦しみから逃れられるはずだろう。さもなければ神を呪ってみろ」と、挑発しているのです。イエスさまはそれらの声に対して何もおっしゃいませんでした。

そうして、「昼の12時になると、全地が暗くなり、それが3時迄続いた」とあります。
ルカの福音書には「太陽が光を失った」と記されています。それがどういった現象であったのか定かではありませんが、それはあたかも罪のないイエスさまを十字架に架けて殺害する人間の心の闇、世の権力のおぞましさを象徴しているかのようであります。十字架に架けられたイエスさまはさらに3時間その暗闇の中で苦痛と苦悩にさらされ続けるのであります。
 そして遂に、午後3時に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、大声を出して息を引き取られるのです。
イエスさまはご自分のありのままの思いを最期のその時に神に叫ばれました。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」
何と衝撃的な言葉でしょうか。神の御心に聞き従い通して生きて来られたにも拘わらず、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、絶叫する無残な姿。それは多くの人々を失望させました。
ところが、このマルコの福音書は、ここにイエスさまの十字架刑の指揮に当たり、そばに立っていたローマの百人隊長が、十字架上でイエスさまが最期に息を引き取られたのを見て、「この人は、神の子だった」と言った、という証言を記すのです。
ちなみにマタイの福音書では、イエスさまが息を引き取られた後、27章51節以降で「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」そういういろんな出来事を見て、百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言った、と伝えています。
しかし、このマルコの福音書の百人隊長が見たのは、十字架上で何の奇跡も起こせず、ただ無残にも絶叫して死んでいった無力なイエスさまの姿であります。にも拘らず彼は、「本当に、この人は神の子だった」と口にするのであります。

「イエスの十字架の死は敗北であった」と、嘲笑う人もいるかも知れません。イエスが神の子であるならば、十字架から降りて自分を救う奇跡をなして、人々にそれを示すべきだった、という考えもあります。それは今なお変わることなく多くの人の心に浮かんでくる不信の思いでありましょう。

私たちは時に「神さまなぜこんな事が起こるのですか」「神さまどうしてこんな目に私があわないといけないのですか」というような事どもに直面することがあります。そういう危機の中で、祈ったのに何も自体は変わらない。どこに神はおられるのか、という思い。又、外からも、あなたはキリストを信仰しているが何も起こらないじゃないか。奇跡はどこにあるのか、というような冷やかな視線。しかし、そこで奇跡的な現象が起こらなかったのなら、そこに神さまはおられなかったということでしょうか。
百人隊長は人々が不信の中で失望する只中で、唯一人イエスの無力で無残なその姿に天の光を見出しました。「本当に、この人は神の子だった。」

私はどうしてこの人がこの場面でそのように言い得たのか、それをうまく言葉にすることはできません。ただ一つわかることは、ひどい目に遭わされ、どんなに人にののしられても、ののしり返さず最期のギリギリまで神に相対して祈り、叫ぶそのイエスの姿に、彼は神を見た、という事実です。
 私ははじめの冒頭に、多くの人がファッションとして十字架を好んでつけるといいましたが。実はクリスチャンでなくとも、又、キリスト教の何たるかを知らない人であっても、イエスの十字架の苦しみの中に何らかの救いを見出しているから、それを好んだり、身に着けたりする人が多いのではないかとも思えるのです。それは「わたしの苦しみ、広くは人間のあらゆる苦悩に共鳴する神の苦しみ、神の苦悩」です。
イエスさまが十字架でこのような最期を遂げたのは、神さまが私たちのどん底にある苦悩や苦痛を御自身も同じように、いやそれ以上に受けてくださった。神の共鳴、「神、共にいます」という事実があるのです。それこそイエス・キリストの起こされた最大にして、最高の奇跡!そう思いになりませんか。
来週はイースター;主イエスの復活を記念する礼拝を迎えますが、実にこの真の奇跡、神が私たちとどこまでも共におられるということを突き抜けたところに、復活のイースターは訪れるのであります。一人でも多くの方とこの救いの礼拝を共にしたいと願いますが。

本日の受難週において、改めて心に留めなければならないことがあります。
それは、イエスさまの十字架は、単に私たち人間の罪のゆるしのために起こったのではないということです。それは、私たち「人間のうちにある罪」が、イエスさまを十字架に架けて殺害したという事実であります。何で2000年前に生まれてもいなかった私が、どうしてそんな恐ろしいことができようか、という方もおられるでしょう。又、わたしとそこにいた彼らと何の関係があるの、と言われる方もおられるでしょう。しかし、それは単に物理的時間的な問題ではありません。私たちが世にある限り罪の力は働き続けているのです。信仰告白をしてバプテスマを受けたとはいえ、私たちには世にある限り罪の力が働き続け、主イエスの愛と信仰から引き離し、滅びへといざなうサタンと罪の力は働き続けています。
そういう中で、努めて日々心新たに、イエスさまが私たちと共に生きてくださるために負われた十字架の苦難と死の計り難い重たさをしっかりと心に留め、その御心に聞き従っていく日々の歩みが必要なのであります。イエスさまが御神に相対してゆかれたように、私たちも又、御神の御心を示す主イエスに相対して、祈り、御後に従って生きる者とされてまいりましょう。

さて、本日のイエスさまが十字架で最期を遂げられた時に、もう一つ記述されているのは、それを遠くから見守っていた人々の中に、「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」ということです。このような最期まで従い続けてきた女性たちがいたということです。これらの女性たちは、表舞台にではなくイエスさまとその一行の身のまわりや食事の世話をしてきたのでありますが。弟子たちが逃げて行く中で、この女性たちはひときわ存在感があります。それは、イエスさまの埋葬と復活の場面においても彼女たちの働きが坦々と描写されています。彼女たちは特別目立つような働きをしたわけではなく、ただ主イエスとその教えに喜びを見出し、感謝と愛をもって何も見返りを求めず自分のできることを続けていたのだろうと思います。そして、日々主イエスに仕え、従ってきた彼女らは、弟子たちに先駆けて復活の主とお会いすることとなります。その後、主を信じる者が増し加えられていく折にも、彼女たちは坦々と喜びと愛をもって仕える中で、初代教会の礎となっていったに違いありません。
 現代の教会においても、信仰においても、こうした女性の存在が大変大きいということは、言うまでもなく皆さまご承知のとおりでありましょう。

最後に、本日の十字架のイエスさまの最期の場面から、際立て見えてきますのは、「イエスが神の子だった」と証言したのが、自分たちこそ神に選ばれた民だと自負し、律法を厳守することで救われていると自任していたユダヤ人たちではなく、神の救いから除外されていると見なされていた異邦人の百人隊長であったという事であります。
そこには、キリスト(メシヤ)はもはやユダヤの王に留まらず、世界の王、救い主キリストであることが表明されているのです。島々はその救いを待ち望む。今やその救いは私たちのもとにももたらされたわけでありますが。
又、本日の箇所には姿を現わさず、それぞれどこかに身を隠していた弟子たちでありますが。彼らは、誰が主の右や左に座れるのかとか、誰が偉いのかなどと盛んに議論していたのですが。いわば最も大事な時といいますか、肝心なイエスさまの十字架の苦難を彼らは見届けることができませんでした。しかし、その彼らもその後、主イエスの復活と聖霊降臨の出来事を経験することによって、真に神の子イエスを信じる新しい歩みが始まっていくのでありますが。その時には、主イエスと過ごした日々とそのお姿、お言葉の数々をいつも思い起こしながら、主の救いを一日一日伝えるために奮闘したことでしょう。

今日のこの個所から教えられますことは、私たち主イエスを信じて救いの道を歩む者にとって、この一日一日は主イエスが十字架で苦難の末から勝ち取ってくださった恵みの日々であり、そのかけがえのない日々を、絶えざる祈り、聖霊のお働きと聖書の言葉の導きをいただきつつ、主イエスの御後に従って行くそういった歩みの積み重ねが、今のわたし、これからのわたしを形づくっていく、ということです。
十字架のイエスさまの最期の姿は、たとえ多くの人には躓きであっても、信じる私たちにはどんなに大きな魂の拠り所、又、生きる力となるでしょう。受難週であるこの一週間、あの百人隊長のように、主イエスと出会い、主告白が起こされていく方が、世界中で見出されていきますことを祈りながら、来週のイースターに備えましょう。
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