礼拝宣教 「友なるイエス」 ルカ16章1~9節
昨日は新会堂が建てられて最初の「結婚式」が祝福のもと行われました。お天気にも恵まれ2階のバルコニーが結婚式で初めて用いられたことも嬉しかったですね。カナの婚礼で水をぶどう酒に変えられた主イエスは、新しいご家庭を築いてゆかれるお二人と、み守る人すべてに今も素晴らしい幸いをくださることを感謝します。又、この挙式のために準備と奉仕、あるいは参列くださった教会の皆さまに心より感謝申しあげます。お二人のご家族、ご友人、知人の方々にこの結婚式をとおして福音の種が蒔かれたことも喜びでありました。証の立てられるよいご家庭となりますよう、お祈り申しあげます。
さて、先週は「放蕩息子」のたとえ話を読みました。父親の財産を放蕩三昧の果てに使い果たして帰って来た弟息子を、父親は雇い人(奴隷)の一人としてではなく、愛する子として迎え入れたというお話でした。そこには、罪ある者の魂が滅びることなく、命を得るようにと、その御独り子イエスさまをお与えくださった神さまの犠牲の愛が示されているということを、改めて知らされ感謝でした。
本日の箇所もイエスさまによる「不正な管理人」のたとえ話であります。
このたとえ話は、聖書の中でも最も難解なたとえ話の一つ、と言われております。それは世間一般では理解し難いようなことがそこに語られ、いわゆる道徳訓や私たちが考える福音理解とぶつかってしまうからです。
このたとえ話を読むためには、まず私たちの固定観念をぬぐい去る必要があります。
人は自分が考える以上に思い込みが強く、偏見をぬぐいきれず、それに囚われて本質的なことがみえないことが往々にしてあるものです。このたとえ話はあたかも「だまし絵」のように見る見方によって、素晴らしい神さまの福音のメッセージを伝えるものであることを、初めにおぼえて読んでいきたいと思います。
では、イエスさまの今日のたとえ話をもう一度丁寧に読んでいきましょう。
イエスさまは弟子たちに次のように話されました。ある金持ちに一人の管理人がいたが、主人の財産を不正に浪費していることが明るみに出てしまった。主人は、もうその管理人に管理を任せておくわけにいかないと考え、管理人に会計報告を出すように命じ、解雇の予告をしました。私たちの身近でも今だに議員さんの政治とカネが問題になり、嫌気がさしますが。
管理人は主人から一切の権限を与えられていたのですね。だからそういう浪費もできたのでしょうが。このたとえでは、この管理人が、どんなことにそれを使ったかなどは何も語られません。けれどもそれは仕事や経理上の失敗ではなく、明らかな浪費、無駄に使ったという事実があり、それが主人にばれてしまった。そのため責任を問われ、解雇されるかもしれない、そういう窮地に追い込まれたことだけが語られています。
そこで、この管理人は会計の報告を作るために与えられた時間を考え抜いて、「自分がたとえ管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と思いつくのです。
彼はそくそれを行動に移します。主人に借りのある者一人一人呼び出して、最初の負債者の油100バトスの借りの証文を50バトスに、別の負債者の小麦100コロスの証文を80コロスに、それぞれ減額して、自分の前で証書を書き直させて負債者たちに恩義を売ったのです。これはいわゆる証文書偽造の不正行為でありますが。
まあ主人にとってこの管理人のしたことは、まず財産を浪費された上に、さらに油と麦を貸し与えた証文を書き変えられて損害を被るのですね。まあひどい話であります。
この管理人は情状酌量の余地はどこにもないように思えます。そこで主人が怒り狂ってこの管理人を訴え出てもおかしくないところでしょう。
ところがこの主人は、何と驚いたことに、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのですね。まあ、こんなことをされてほめる人は普通いないでしょう。こんな不正なやり方がまかり通り、肯定されてよいわけがありません。
この当時のこういった油(オリーブ油)や小麦などの収穫物の貸借については、いわゆる先物取引のようなものとして作物自体にも貸借の利子を決めて、それを加算していたようです。農作物は出来不出来によって収穫の多い年と少ない年がありますから、そうしたリスクを含めて小麦の利子は20パーセントと、そのうえに作物相場の変動リスクとして5パーセントを加えた25パーセント。オリーブ油の場合は利子が非常に高くて80パーセントと、相場のリスク20パーセントを加えた100パーセント、つまり返済するときは2倍の量にして返さなければならなかったそうです。油の利子がこんなに高いのは小麦と違って薄めて混ぜ物にされてしまうリスクが高かったので、その保証料が利子として高くついたそうです。けれどもこれはいくらなんでも高すぎです。この管理人は貸手の「油100バトス」だったのを「50バトス」に、別の貸手の「小麦100コロス」だったのを「80コロス」に書き直させたというのは、いわば貸手に無利子としてやったということです。
片やこの主人はというと、利子分は入らなくなりますが元手はそれで減ったわけではなく、まあもうけはないが、損はしないということです。そして勿論主人も貸手から大変感謝されることになるでしょう。この管理人はそういうことを推し図った上ですね、たとえ主人から解雇通告を受けても、二人の貸手に大きな恩義を売ったのだから、もしもの時は彼らが自分を迎え入れてくれるだろうという想定をして、それを実行に移したんです。だから「主人は、不正な管理人のこの抜け目のないやり方をほめた」ということなんですね。
たとえ話はここで終わり、その後この管理人がどうなったかは語られていまにで分かりませんが。
イエスさまはこの抜け目のない管理人をして、8節「この世の子らは、自分の仲間に対して、このように光の子らよりも賢くふるまっている」。まあここまでは分かります。光の子というのはクリスチャンのことなんですが、世間にはクリスチャンでなくとも抜け目のない人、計算高い人、世渡り上手という人って確かにいます。ところが問題はこの後の言葉です。弟子たちも愕然としたであろうことをイエスさまは口になさるのです。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住いに迎え入れてもらえる」。
「まさかイエスさまが不正にまみれた富で友を作れ」とおっしゃるとは驚きであります。
けれども、ここで初めに申しましたように、このたとえ話は「だまし絵」を見るように、一方的な見方に囚われないで、別の角度からも読むことが必要です。
私たちは「正しく生きる」ということにあまりにも道徳的な固定観念を持つあまり、本質的なことが見えなくなっている場合が往々にしてあるのです。イエスさまを非難した律法学者やファリサイ派の人たちもそうでした。
しかし私たちはまずここで、イエスさまが「そうしておけば、あなたがたは永遠の住いに迎えてもらえる」とおっしゃっているその方向からこの言葉を聞くことが大切なのです。
このたとえで、実は主人が不正な管理人をほめたのは、彼が今主人から託されている富を使って、自分を受け入れてくれる友を作っておくように賢く備えていたからです。つまり、この話を聞いていた弟子たちに主イエスは、「永遠の住いに迎えてもらえるための友を作れ」とおっしゃっているわけですが。まあ律法学者らは戒めを守り、自らの義を立てることで永遠の命を獲得することができるように努めるのであります。しかし、イエスさまは永遠の住いを得るための友を作って備えなさい、というのであります。さらにそれを、不正にまみれた富を使って、というのですから弟子たちも、又私たちも混乱するわけです。しかし、どうでしょう。みなさん。私たちは聖書を読んで律法学者、ファリサイ派をわからずやのように思ったりするかも知れません。けれども、彼らは長い歴史の中で今も変わらずに細かな律法の規定を大変な努力をして厳格に守っているのです。一方、私たちクリスチャンはどうでしょうか。特に何をしたからというのではなく、さらに神に対して日々罪を犯すような私たちを神は、ただ主イエスの救いの十字架の業によって赦され、受け入れられているのですね。これは天国から見たら不正ではないでしょうか。自分には義がないのに、唯主イエスの血によって贖われ、救いに入れられ、その上、ともに天の国の喜びに与る友をこうして得ているのです。それは本当に素晴らしい天の恵みであります。それはまさに、変な言い方かも知れませんが、不正な富で得た友であり、お互いを永遠の住いに迎い入れてくれる、主イエス・キリストにある友であります。神は救い主イエスさまを私たちの友としてお与えくださったのです。又、イエスさまをその私たち一人ひとりの友としてくださったのです。
ですから、私たちの間に躓きや問題がたとえあったとしても、許し合い、和解を心がけ、又お互いの違いを喜んで、「あなたは、私を永遠の住いに迎い入れてくれる友です」と、お互いを貴い存在としていくように主が招いておられることに、目を留めてまいりたいものです。
さらに、ここには実際のお金や財産に関する富についても語られています。
私たちは実にそれらのものをすべて神さまから委ねられており、如何に用いて使うか託されているのです。この世の富に仕え神とその恵みを軽んじ、世の滅びに向かうのであるなら、それは何ともったいない浪費でしょうか。与えられた恵みを活かして、友人、知人、家族、さらにあなたの隣人となるべき人々を主イエスの友として、永遠の住いに迎い入れる働きに、ごく小さな事から忠実に仕えていきましょう。祈ります。
昨日は新会堂が建てられて最初の「結婚式」が祝福のもと行われました。お天気にも恵まれ2階のバルコニーが結婚式で初めて用いられたことも嬉しかったですね。カナの婚礼で水をぶどう酒に変えられた主イエスは、新しいご家庭を築いてゆかれるお二人と、み守る人すべてに今も素晴らしい幸いをくださることを感謝します。又、この挙式のために準備と奉仕、あるいは参列くださった教会の皆さまに心より感謝申しあげます。お二人のご家族、ご友人、知人の方々にこの結婚式をとおして福音の種が蒔かれたことも喜びでありました。証の立てられるよいご家庭となりますよう、お祈り申しあげます。
さて、先週は「放蕩息子」のたとえ話を読みました。父親の財産を放蕩三昧の果てに使い果たして帰って来た弟息子を、父親は雇い人(奴隷)の一人としてではなく、愛する子として迎え入れたというお話でした。そこには、罪ある者の魂が滅びることなく、命を得るようにと、その御独り子イエスさまをお与えくださった神さまの犠牲の愛が示されているということを、改めて知らされ感謝でした。
本日の箇所もイエスさまによる「不正な管理人」のたとえ話であります。
このたとえ話は、聖書の中でも最も難解なたとえ話の一つ、と言われております。それは世間一般では理解し難いようなことがそこに語られ、いわゆる道徳訓や私たちが考える福音理解とぶつかってしまうからです。
このたとえ話を読むためには、まず私たちの固定観念をぬぐい去る必要があります。
人は自分が考える以上に思い込みが強く、偏見をぬぐいきれず、それに囚われて本質的なことがみえないことが往々にしてあるものです。このたとえ話はあたかも「だまし絵」のように見る見方によって、素晴らしい神さまの福音のメッセージを伝えるものであることを、初めにおぼえて読んでいきたいと思います。
では、イエスさまの今日のたとえ話をもう一度丁寧に読んでいきましょう。
イエスさまは弟子たちに次のように話されました。ある金持ちに一人の管理人がいたが、主人の財産を不正に浪費していることが明るみに出てしまった。主人は、もうその管理人に管理を任せておくわけにいかないと考え、管理人に会計報告を出すように命じ、解雇の予告をしました。私たちの身近でも今だに議員さんの政治とカネが問題になり、嫌気がさしますが。
管理人は主人から一切の権限を与えられていたのですね。だからそういう浪費もできたのでしょうが。このたとえでは、この管理人が、どんなことにそれを使ったかなどは何も語られません。けれどもそれは仕事や経理上の失敗ではなく、明らかな浪費、無駄に使ったという事実があり、それが主人にばれてしまった。そのため責任を問われ、解雇されるかもしれない、そういう窮地に追い込まれたことだけが語られています。
そこで、この管理人は会計の報告を作るために与えられた時間を考え抜いて、「自分がたとえ管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」と思いつくのです。
彼はそくそれを行動に移します。主人に借りのある者一人一人呼び出して、最初の負債者の油100バトスの借りの証文を50バトスに、別の負債者の小麦100コロスの証文を80コロスに、それぞれ減額して、自分の前で証書を書き直させて負債者たちに恩義を売ったのです。これはいわゆる証文書偽造の不正行為でありますが。
まあ主人にとってこの管理人のしたことは、まず財産を浪費された上に、さらに油と麦を貸し与えた証文を書き変えられて損害を被るのですね。まあひどい話であります。
この管理人は情状酌量の余地はどこにもないように思えます。そこで主人が怒り狂ってこの管理人を訴え出てもおかしくないところでしょう。
ところがこの主人は、何と驚いたことに、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのですね。まあ、こんなことをされてほめる人は普通いないでしょう。こんな不正なやり方がまかり通り、肯定されてよいわけがありません。
この当時のこういった油(オリーブ油)や小麦などの収穫物の貸借については、いわゆる先物取引のようなものとして作物自体にも貸借の利子を決めて、それを加算していたようです。農作物は出来不出来によって収穫の多い年と少ない年がありますから、そうしたリスクを含めて小麦の利子は20パーセントと、そのうえに作物相場の変動リスクとして5パーセントを加えた25パーセント。オリーブ油の場合は利子が非常に高くて80パーセントと、相場のリスク20パーセントを加えた100パーセント、つまり返済するときは2倍の量にして返さなければならなかったそうです。油の利子がこんなに高いのは小麦と違って薄めて混ぜ物にされてしまうリスクが高かったので、その保証料が利子として高くついたそうです。けれどもこれはいくらなんでも高すぎです。この管理人は貸手の「油100バトス」だったのを「50バトス」に、別の貸手の「小麦100コロス」だったのを「80コロス」に書き直させたというのは、いわば貸手に無利子としてやったということです。
片やこの主人はというと、利子分は入らなくなりますが元手はそれで減ったわけではなく、まあもうけはないが、損はしないということです。そして勿論主人も貸手から大変感謝されることになるでしょう。この管理人はそういうことを推し図った上ですね、たとえ主人から解雇通告を受けても、二人の貸手に大きな恩義を売ったのだから、もしもの時は彼らが自分を迎え入れてくれるだろうという想定をして、それを実行に移したんです。だから「主人は、不正な管理人のこの抜け目のないやり方をほめた」ということなんですね。
たとえ話はここで終わり、その後この管理人がどうなったかは語られていまにで分かりませんが。
イエスさまはこの抜け目のない管理人をして、8節「この世の子らは、自分の仲間に対して、このように光の子らよりも賢くふるまっている」。まあここまでは分かります。光の子というのはクリスチャンのことなんですが、世間にはクリスチャンでなくとも抜け目のない人、計算高い人、世渡り上手という人って確かにいます。ところが問題はこの後の言葉です。弟子たちも愕然としたであろうことをイエスさまは口になさるのです。「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住いに迎え入れてもらえる」。
「まさかイエスさまが不正にまみれた富で友を作れ」とおっしゃるとは驚きであります。
けれども、ここで初めに申しましたように、このたとえ話は「だまし絵」を見るように、一方的な見方に囚われないで、別の角度からも読むことが必要です。
私たちは「正しく生きる」ということにあまりにも道徳的な固定観念を持つあまり、本質的なことが見えなくなっている場合が往々にしてあるのです。イエスさまを非難した律法学者やファリサイ派の人たちもそうでした。
しかし私たちはまずここで、イエスさまが「そうしておけば、あなたがたは永遠の住いに迎えてもらえる」とおっしゃっているその方向からこの言葉を聞くことが大切なのです。
このたとえで、実は主人が不正な管理人をほめたのは、彼が今主人から託されている富を使って、自分を受け入れてくれる友を作っておくように賢く備えていたからです。つまり、この話を聞いていた弟子たちに主イエスは、「永遠の住いに迎えてもらえるための友を作れ」とおっしゃっているわけですが。まあ律法学者らは戒めを守り、自らの義を立てることで永遠の命を獲得することができるように努めるのであります。しかし、イエスさまは永遠の住いを得るための友を作って備えなさい、というのであります。さらにそれを、不正にまみれた富を使って、というのですから弟子たちも、又私たちも混乱するわけです。しかし、どうでしょう。みなさん。私たちは聖書を読んで律法学者、ファリサイ派をわからずやのように思ったりするかも知れません。けれども、彼らは長い歴史の中で今も変わらずに細かな律法の規定を大変な努力をして厳格に守っているのです。一方、私たちクリスチャンはどうでしょうか。特に何をしたからというのではなく、さらに神に対して日々罪を犯すような私たちを神は、ただ主イエスの救いの十字架の業によって赦され、受け入れられているのですね。これは天国から見たら不正ではないでしょうか。自分には義がないのに、唯主イエスの血によって贖われ、救いに入れられ、その上、ともに天の国の喜びに与る友をこうして得ているのです。それは本当に素晴らしい天の恵みであります。それはまさに、変な言い方かも知れませんが、不正な富で得た友であり、お互いを永遠の住いに迎い入れてくれる、主イエス・キリストにある友であります。神は救い主イエスさまを私たちの友としてお与えくださったのです。又、イエスさまをその私たち一人ひとりの友としてくださったのです。
ですから、私たちの間に躓きや問題がたとえあったとしても、許し合い、和解を心がけ、又お互いの違いを喜んで、「あなたは、私を永遠の住いに迎い入れてくれる友です」と、お互いを貴い存在としていくように主が招いておられることに、目を留めてまいりたいものです。
さらに、ここには実際のお金や財産に関する富についても語られています。
私たちは実にそれらのものをすべて神さまから委ねられており、如何に用いて使うか託されているのです。この世の富に仕え神とその恵みを軽んじ、世の滅びに向かうのであるなら、それは何ともったいない浪費でしょうか。与えられた恵みを活かして、友人、知人、家族、さらにあなたの隣人となるべき人々を主イエスの友として、永遠の住いに迎い入れる働きに、ごく小さな事から忠実に仕えていきましょう。祈ります。