礼拝宣教 ルカ19章1~10節
本日は徴税人の頭で金持ちであったザアカイが主イエスと出会い、主に立ち返り、変えられていく物語であります。
彼は徴税人でありました。この当時徴税人はただの税金の取り立て人ではなく、ユダヤを支配していたローマから雇われたユダヤ人が、同胞である民から様々な税を取り立て、ローマに献上していたのです。先回もお話したように、その取り立ての裁量もある程度徴税人に任されていて、私腹を肥やす者も多かったのです。
まあ、そういうことからユダヤの民は徴税人を強く嫌い、ローマに魂を売った「売国奴」として見ていたのです。このザアカイはそのような徴税人たちの頭で、金持ちであったということですから、まあユダヤの人々からはどうしようもない「罪深い男」として激しく蔑視されていたのです。
本日の箇所で、彼がイエスさまを見ようとしますが、「群衆に遮られて見ることができなかった」とあります。背が低いザアカイに場所を空けてくれる人、声をかけてくれる人は寂しいかな、一人もいなかったのですね。地域や近所の人との関わりがない。挨拶してもらえないというのは寂しい。受け入れられていない事を知る寂しさはどんなに切ないものでしょう。
又、彼にとって深刻だったのは、ユダヤ人として、信仰の父であり、民族の父であるアブラハムの子と呼ばれる者の中に数え入れてもらえなかったということです。ユダヤの同胞から、あれはもうアブラハムの子という資格はないと、うしろゆびを指され続けてきたザアカイの心は、いつしか頑なになり、その態度も又、ささくれだつものになっていたのかも知れないと想像いたします。
さて、そのようなザアカイでしたが。彼は、どういう理由か「イエスがどんな人か一度見ようと思った」というのであります。普段ならお金にならない人とは関わろうとはせず、税金を取れるような人なら押しかけてでも会おうというのがザアカイであったと思えるのですが。そんな彼がどうしたことか、「イエスという人物に会ってみたい」と思ったのですね。
彼は時々聞こえて来るイエスという人のうわさを興味深く聞いていたのかも知れません。徴税人をはじめ当時罪深いとされていた人たちと食卓をともにし、神のゆるしと愛を語るというそのイエス。また、彼こそは永く待ち望まれて来たメシア・救い主なのではないかとうわさされるそのイエスはどういう人なのかと随分気になっていたのではないでしょうか。
同胞であるはずの人たちに遮られたその壁の向こう側に、何か救いがあるかもしれない。彼はもう祈るような気持ちで走り出し、先回りをしていちじく桑の木によじ登り、イエスを見ようとしたのです。
すると、5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい。』」
何と、イエスさまは大勢の群衆に囲まれながらも、いちじく桑の木に登っていたザアカイを見つけ、ザアカイの名前を呼ばれるのです。「あいつは罪深い男」だと後ろゆび指される彼をイエスさまは見出し、「ザアカイ」とその名を呼ばれるのですね。それは上からの目線ではなく、下から見上げるのです。まさにアンダースタンドのまなざしで呼びかけられるのです。
イエスさまがザアカイの名前を知っておられたのは、すでに弟子となった者の中に徴税人であったレビがいましたから、もしかするとレビがイエスさまに耳打ちしていたのかも知れませんが。大事なのはイエスさまが木の上に登ったザアカイの心の中を深く察して、その魂の必要、求めを見出されたということです。イエスさまは大勢の群衆を前にしますが、そのザアカイ一人の魂の必要を見出し、彼と一対一で出会われるのですね。
しかし、このことはザアカイだけのことでしょうか。いいえ、イエスさまはご聖霊をお送りくださって今この時も、ここにおられるお一人お一人の魂との出会いを求めておられるのです。神の国の福音は大勢に向けて語られておりますが、肝心なことは、主がこのザアカのように御救いを求める魂を見出すこと、一対一の出会いを願っておられるということです。御言葉が自分に語られているものとして聞いて受けていくときに、今日も主イエスは出会ってくださいます。それも、私たちの魂の悩み、飢え渇きの底なき淵に立って私の名を呼んでくださるのです。逆にそうでないのなら福音は素通りしていくだけでしょう。
ちなみに、このザアカイという名についてある説では、「ザカリア」という由緒あるユダヤの名前のギリシャなまりで、元来はザカリアであったとも言われております。このザカリアとは「主はおぼえておられる」という意味があります。
イエスさまが「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい。」
このイエスさまのこのお言葉はザアカイには、「主はわたしをおぼえておられる」と聞こえたのではないでしょうか。「主はわたしをお忘れにならなかった」。そう分かった時、ザアカイは喜びにあふれてまるで転がるように木から降り、イエスさまを家に迎え入れるのです。
しかし、イエスさまがザアカイの家に行くという選択は、周囲にいたユダヤの群衆に「あの罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやきや蔑視を生じさせることになりました。
きっとその時ザアカイは、人々のつぶやきや蔑視を我が身に負ってまで自分を受け入れようとされるイエスさまに救い主の真実を見るのですね。うわべじゃない。この方は本気なのだ、と彼は知るんです。
8節「ザアカイは、立ち上がって、主に言った」とあります。
彼はここでイエスさまにではなくキュリオス;主に言ったというのです。これは主に立ち返ったザアカイのまさに信仰告白なのです。そして彼は救いを受け入れた真実を示すかのように神と人々の前に、こう宣言するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
それをお聞きになったイエスさまは言われます。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
11節には「人々がこれらのことに聞き入っていた」と記されています。あのザアカイの変えられた様、その宣言の中に、そしてイエスさまのお言葉の中に、つぶやき、蔑視した人たちのうちにも、主の御救いの豊かさを知らされるのであります。これが福音の豊かさであります。一人の人が見出され、救いを得るという出来事が、それを目にし、耳にする人にまで主の御救いを仰がせるのです。
最後になりますが、一昨日13日、私はMさんのお母さまのお兄さま、伯父さんの告別式のご奉仕をさせて頂きました。「10日夜、クリスチャンの伯父が天に召されたので、火葬前に聖書を読んで最後のお祈りをしてもらえないか」とK夫妻からお電話がありました。故人の所属している教会の牧師は事情があり難しいということで、私に依頼があったわけですが。私も13日だけはスケジュールがあいていましたので、お引き受けできたのです。そして、当初は火葬前の僅か5分足らずのご遺族だけのお別れの時の予定であったのですが。姪っ子のMさんがご遺族に働きかけて、ご親族含め15人程で告別式を行うことになり、故人を天の故郷にお見送りすることとなりました。
私はその告別の式において、そこに集っておられる方々の讃美歌の歌声の大きさにちょっと驚きつつ感激しました。実に、その多くの方がクリスチャンであられ、又、教会にも通われたことのある方がおられることを知らされました。そして何よりも、こうしてお別れの時を持つことができたことは、本当に神さまのお取り計らいであったということを思わされました。故人のご子息は小さい頃教会に連れられていたそうですが、この出来事を通して、神さまがきっと彼をまた教会へ導いてくださるであろうことを信じて、祈りました。
「今日、救いがこの家に訪れた。」
今日も失われたものを捜して救うために来て下さったイエスさまに、神の愛と救いを私たちも見出しつつ、主の招きに応えていく者とされていきましょう。
本日は徴税人の頭で金持ちであったザアカイが主イエスと出会い、主に立ち返り、変えられていく物語であります。
彼は徴税人でありました。この当時徴税人はただの税金の取り立て人ではなく、ユダヤを支配していたローマから雇われたユダヤ人が、同胞である民から様々な税を取り立て、ローマに献上していたのです。先回もお話したように、その取り立ての裁量もある程度徴税人に任されていて、私腹を肥やす者も多かったのです。
まあ、そういうことからユダヤの民は徴税人を強く嫌い、ローマに魂を売った「売国奴」として見ていたのです。このザアカイはそのような徴税人たちの頭で、金持ちであったということですから、まあユダヤの人々からはどうしようもない「罪深い男」として激しく蔑視されていたのです。
本日の箇所で、彼がイエスさまを見ようとしますが、「群衆に遮られて見ることができなかった」とあります。背が低いザアカイに場所を空けてくれる人、声をかけてくれる人は寂しいかな、一人もいなかったのですね。地域や近所の人との関わりがない。挨拶してもらえないというのは寂しい。受け入れられていない事を知る寂しさはどんなに切ないものでしょう。
又、彼にとって深刻だったのは、ユダヤ人として、信仰の父であり、民族の父であるアブラハムの子と呼ばれる者の中に数え入れてもらえなかったということです。ユダヤの同胞から、あれはもうアブラハムの子という資格はないと、うしろゆびを指され続けてきたザアカイの心は、いつしか頑なになり、その態度も又、ささくれだつものになっていたのかも知れないと想像いたします。
さて、そのようなザアカイでしたが。彼は、どういう理由か「イエスがどんな人か一度見ようと思った」というのであります。普段ならお金にならない人とは関わろうとはせず、税金を取れるような人なら押しかけてでも会おうというのがザアカイであったと思えるのですが。そんな彼がどうしたことか、「イエスという人物に会ってみたい」と思ったのですね。
彼は時々聞こえて来るイエスという人のうわさを興味深く聞いていたのかも知れません。徴税人をはじめ当時罪深いとされていた人たちと食卓をともにし、神のゆるしと愛を語るというそのイエス。また、彼こそは永く待ち望まれて来たメシア・救い主なのではないかとうわさされるそのイエスはどういう人なのかと随分気になっていたのではないでしょうか。
同胞であるはずの人たちに遮られたその壁の向こう側に、何か救いがあるかもしれない。彼はもう祈るような気持ちで走り出し、先回りをしていちじく桑の木によじ登り、イエスを見ようとしたのです。
すると、5節「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい。』」
何と、イエスさまは大勢の群衆に囲まれながらも、いちじく桑の木に登っていたザアカイを見つけ、ザアカイの名前を呼ばれるのです。「あいつは罪深い男」だと後ろゆび指される彼をイエスさまは見出し、「ザアカイ」とその名を呼ばれるのですね。それは上からの目線ではなく、下から見上げるのです。まさにアンダースタンドのまなざしで呼びかけられるのです。
イエスさまがザアカイの名前を知っておられたのは、すでに弟子となった者の中に徴税人であったレビがいましたから、もしかするとレビがイエスさまに耳打ちしていたのかも知れませんが。大事なのはイエスさまが木の上に登ったザアカイの心の中を深く察して、その魂の必要、求めを見出されたということです。イエスさまは大勢の群衆を前にしますが、そのザアカイ一人の魂の必要を見出し、彼と一対一で出会われるのですね。
しかし、このことはザアカイだけのことでしょうか。いいえ、イエスさまはご聖霊をお送りくださって今この時も、ここにおられるお一人お一人の魂との出会いを求めておられるのです。神の国の福音は大勢に向けて語られておりますが、肝心なことは、主がこのザアカのように御救いを求める魂を見出すこと、一対一の出会いを願っておられるということです。御言葉が自分に語られているものとして聞いて受けていくときに、今日も主イエスは出会ってくださいます。それも、私たちの魂の悩み、飢え渇きの底なき淵に立って私の名を呼んでくださるのです。逆にそうでないのなら福音は素通りしていくだけでしょう。
ちなみに、このザアカイという名についてある説では、「ザカリア」という由緒あるユダヤの名前のギリシャなまりで、元来はザカリアであったとも言われております。このザカリアとは「主はおぼえておられる」という意味があります。
イエスさまが「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊りたい。」
このイエスさまのこのお言葉はザアカイには、「主はわたしをおぼえておられる」と聞こえたのではないでしょうか。「主はわたしをお忘れにならなかった」。そう分かった時、ザアカイは喜びにあふれてまるで転がるように木から降り、イエスさまを家に迎え入れるのです。
しかし、イエスさまがザアカイの家に行くという選択は、周囲にいたユダヤの群衆に「あの罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやきや蔑視を生じさせることになりました。
きっとその時ザアカイは、人々のつぶやきや蔑視を我が身に負ってまで自分を受け入れようとされるイエスさまに救い主の真実を見るのですね。うわべじゃない。この方は本気なのだ、と彼は知るんです。
8節「ザアカイは、立ち上がって、主に言った」とあります。
彼はここでイエスさまにではなくキュリオス;主に言ったというのです。これは主に立ち返ったザアカイのまさに信仰告白なのです。そして彼は救いを受け入れた真実を示すかのように神と人々の前に、こう宣言するのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
それをお聞きになったイエスさまは言われます。
「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
11節には「人々がこれらのことに聞き入っていた」と記されています。あのザアカイの変えられた様、その宣言の中に、そしてイエスさまのお言葉の中に、つぶやき、蔑視した人たちのうちにも、主の御救いの豊かさを知らされるのであります。これが福音の豊かさであります。一人の人が見出され、救いを得るという出来事が、それを目にし、耳にする人にまで主の御救いを仰がせるのです。
最後になりますが、一昨日13日、私はMさんのお母さまのお兄さま、伯父さんの告別式のご奉仕をさせて頂きました。「10日夜、クリスチャンの伯父が天に召されたので、火葬前に聖書を読んで最後のお祈りをしてもらえないか」とK夫妻からお電話がありました。故人の所属している教会の牧師は事情があり難しいということで、私に依頼があったわけですが。私も13日だけはスケジュールがあいていましたので、お引き受けできたのです。そして、当初は火葬前の僅か5分足らずのご遺族だけのお別れの時の予定であったのですが。姪っ子のMさんがご遺族に働きかけて、ご親族含め15人程で告別式を行うことになり、故人を天の故郷にお見送りすることとなりました。
私はその告別の式において、そこに集っておられる方々の讃美歌の歌声の大きさにちょっと驚きつつ感激しました。実に、その多くの方がクリスチャンであられ、又、教会にも通われたことのある方がおられることを知らされました。そして何よりも、こうしてお別れの時を持つことができたことは、本当に神さまのお取り計らいであったということを思わされました。故人のご子息は小さい頃教会に連れられていたそうですが、この出来事を通して、神さまがきっと彼をまた教会へ導いてくださるであろうことを信じて、祈りました。
「今日、救いがこの家に訪れた。」
今日も失われたものを捜して救うために来て下さったイエスさまに、神の愛と救いを私たちも見出しつつ、主の招きに応えていく者とされていきましょう。