礼拝宣教 使徒20章17節~24節
本日は聖霊降臨日:ペンテコステです。主イエスが十字架の救いの業を成し遂げられ天に昇られて後のことですが。使徒言行録2章以降に、「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるように音が天から聞こえ、彼が座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と人類史上初の聖霊降臨の出来事が記されています。
聖霊は、そのように一同が一つになっているところに臨まれます。一つになるというのは一つ心になって祈っている状態を表します。その祈りとは、使徒言行録1章8節でイエスさまが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたことが実現するための祈りです。まさにキリストの使命(ミッション)と祈りに聖霊は臨まれ教会が誕生するのです。
又、聖霊は一人ひとりの上に、とどまった、とありますように、主によって集められた教会の一人ひとりにキリストの教会を建てあげるため、そして主の救いを宣べ伝えるための炎のような舌;すなわち福音の言葉となって留まるのですね。そうして誕生した教会を起点に主の証しと福音が言葉や文化の隔たりを乗り越えて全世界に伝えられていくのです。まさに私たちの大阪教会もこの聖霊降臨の恩恵によってこの地に福音の根をはってよき知らせを宣べ伝える実に64年の歳月を経てきたのですね。
さて、本日は使徒言行録20章より、使徒パウロがその困難にも拘わらず聖霊に促されてエルサレムに向かうという決意を、エフェソの教会の長老たちに告げるその箇所から御言葉を聞いていきます。
パウロはわざわざ人をやって60kmも離れたエフェソから長老たちにミレトスに集まってもらうのですが、それは以前エフェソで起こった騒動に再び巻き込まれるとやっかいなことになるという理由からかも知れませんが、16節によると「できれば五旬節にはエルサレムに着いていたかった」という願いからエフェソには立ち寄らなかったようです。
パウロにとってエフェソでの福音伝道は様々な苦難や試練がありました。彼はそのエフェソでの福音伝道を次のように総括します。19節以降で、「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立ち事は一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰を、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証ししてきたのです」とこのように述べています。使徒パウロといえど己の無力さに涙しつつ、しかし幾多の困難の中で大きな忍耐をもってその証をエフェソにおいて地道に続けることによって、そこで神に立ち返り、主イエスを信じて救われる多くの人が起こされ、又いくつもの家の教会ができていったのも恵みの収穫であったのですね。ですから、まだエフェソにとどまって福音伝道することも彼の選択肢として十分考えられたわけです。
けれども彼は、「霊に促されて(霊に縛られて)エルサレムに行きます」との決意へ導かれるのであります。
水曜日の聖書の学びでも話題になりましたが、ここでの聖霊に促されてはいい訳ではありません。原意に近い岩波訳ではここを「霊に縛られて」と訳しています。促されるのと縛られるのとは大きな違いがあります。パウロは霊に縛られてエルサレムに行く決意へ導かれるんですね。縛られて、捕えられてと言ってもいいでしょう。そのようにエルサレムに行くというのですから、本音を言うと、人間的に自らなのり出て行こうとは思えない。けれども行かないわけにはいかない。そのような聖霊の促し以上の押し出しともいえる迫りを受けていたということでしょう。
パウロ自身「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」と言い、エルサレムに行けば大変な艱難が待っていることは分かっていました。それにも拘わらずパウロはエルサレム行きを決意した。否、しないではおれない聖霊の力が迫ってきていたのです。
彼は次のように決意を表明いたします。
24節「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
このパウロの決意は、彼の信念によるもではなく、彼が「霊に縛られたがゆえに」導かれたことに外なりません。
「霊に縛られる」というのは、何か変な言い方のようにお思いになる方もいらっしゃるかも知れませんが。金縛りとか何とかいいますようね。けれどそういうことではなく、パウロは自分自身のことをキリスト・イエスの奴隷とか僕、と言い表しました。主イエス・キリストとその救い、神の愛に捕えられ、それゆえに奴隷が主人に服従するように仕える者なっている。「霊に縛られる」とはそのような響きをもった言葉だと思います。
パウロはユダヤ教徒のエリートであったとき、その知識と神への熱心を誇り、排他的になってクリスチャンを異端者だとひどく迫害し、そのことさえ自らの誇りとして生きていました。そんな折、パウロはさらなる迫害のためダマスコの途上で、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」との呼びかけを聞きます。パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との答えがありました。彼は大きな衝撃で目が見えなくなってしまいます。これまで主のためにと熱心にキリスト教徒と教会を迫害していたことが、実は主に対する迫害であったことを知ったパウロはその後、これまで自分が迫害を加えていた主の弟子アナニアによる執り成しの祈りによって、主の救いと聖霊の満たしを受け、深い回心と共に、目が元どおり見えるようになり、バプテスマを受けて、元気を取り戻すのですね。
パウロはこの自分が敵視し、迫害していた主の弟子アナ二アとの出会いによって、主イエスの十字架の意味、愛と赦しの福音を体験し、彼は神に悔改め、主イエスを信じて救いを体験するのです。そこから彼の伝道者としての歩みが始まり、3回の伝道旅行が示すとおり主の福音を様々な地に伝えていきました。しかし、それはまた主イエスと共なる、すなわち軛を共にするように、多くの苦しみや試練の始まりでもあったのですね。
本日のところにありますように、「彼は霊に縛られて、エルサレムに行こう」との決意へ導かれるのです。彼をそこまでかり立てたのは何であったのでしょう。それは先程の24節にありますとおり、「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするとの任務を果たす」ためであったのですね。
神の恵みの福音、それはまさに罪のゆえに滅ぶ外ない者であったのに、そのような者に罪を贖ってくださった神の御子イエスとその十字架による神との和解の福音であります。その福音の圧倒的な力に捕えられたパウロは、その生涯を主のために捧げました。
エルサレムに行くことは、投獄と苦難を受けることを意味していましたが、パウロを捕える主の御霊に押し出され、主イエスによって救われた恵みを、エルサレムにおいて語る決意へと導かれるのですね。
パウロは「主イエスからいただいた神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と、非常に重たい言葉を語ります。私たちクリスチャンはこのパウロが語った言葉に無感覚でいられるでしょうか。私どもは「主イエスからいただいた、神の恵みの福音」に捕えられた人、その深い感謝と応答を見るのであります。
先程、K姉の入会の証しを伺いました。3月に何かの力に押し出されるように大阪教会に来たのは偶然でない神さまの導きをおぼえているとのそのお証し、又、姉妹は聖書を読む度、神の言葉は生きている、と聖書に触れる毎に心動かされ、涙があふれてくるということをいつも伺っておりましたが。それは、神の招きに背を向けて来た事への悔改めと、主イエスによって神に立ち返ることができた喜びから来るものであることを、そのお証しから知らされます。そのような主の恵みを語らずにはいられない。
それがまさに炎の舌であり、聖霊のお働きなのですね。
そのようにこの大阪教会が福音を証しし、伝え、主の救い与って生きる喜びを分かち合っていくためには、まさに聖霊の力とお働きが必要です。すでに主は福音の様々な出会いと出来事を起こしてくださっておられます。私どもそれに応えていけるように、いよいよ深く、聖霊の力と助けを共に祈り求めてまいりましょう。
本日は聖霊降臨日:ペンテコステです。主イエスが十字架の救いの業を成し遂げられ天に昇られて後のことですが。使徒言行録2章以降に、「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるように音が天から聞こえ、彼が座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」と人類史上初の聖霊降臨の出来事が記されています。
聖霊は、そのように一同が一つになっているところに臨まれます。一つになるというのは一つ心になって祈っている状態を表します。その祈りとは、使徒言行録1章8節でイエスさまが「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われたことが実現するための祈りです。まさにキリストの使命(ミッション)と祈りに聖霊は臨まれ教会が誕生するのです。
又、聖霊は一人ひとりの上に、とどまった、とありますように、主によって集められた教会の一人ひとりにキリストの教会を建てあげるため、そして主の救いを宣べ伝えるための炎のような舌;すなわち福音の言葉となって留まるのですね。そうして誕生した教会を起点に主の証しと福音が言葉や文化の隔たりを乗り越えて全世界に伝えられていくのです。まさに私たちの大阪教会もこの聖霊降臨の恩恵によってこの地に福音の根をはってよき知らせを宣べ伝える実に64年の歳月を経てきたのですね。
さて、本日は使徒言行録20章より、使徒パウロがその困難にも拘わらず聖霊に促されてエルサレムに向かうという決意を、エフェソの教会の長老たちに告げるその箇所から御言葉を聞いていきます。
パウロはわざわざ人をやって60kmも離れたエフェソから長老たちにミレトスに集まってもらうのですが、それは以前エフェソで起こった騒動に再び巻き込まれるとやっかいなことになるという理由からかも知れませんが、16節によると「できれば五旬節にはエルサレムに着いていたかった」という願いからエフェソには立ち寄らなかったようです。
パウロにとってエフェソでの福音伝道は様々な苦難や試練がありました。彼はそのエフェソでの福音伝道を次のように総括します。19節以降で、「すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立ち事は一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰を、ユダヤ人にもギリシャ人にも力強く証ししてきたのです」とこのように述べています。使徒パウロといえど己の無力さに涙しつつ、しかし幾多の困難の中で大きな忍耐をもってその証をエフェソにおいて地道に続けることによって、そこで神に立ち返り、主イエスを信じて救われる多くの人が起こされ、又いくつもの家の教会ができていったのも恵みの収穫であったのですね。ですから、まだエフェソにとどまって福音伝道することも彼の選択肢として十分考えられたわけです。
けれども彼は、「霊に促されて(霊に縛られて)エルサレムに行きます」との決意へ導かれるのであります。
水曜日の聖書の学びでも話題になりましたが、ここでの聖霊に促されてはいい訳ではありません。原意に近い岩波訳ではここを「霊に縛られて」と訳しています。促されるのと縛られるのとは大きな違いがあります。パウロは霊に縛られてエルサレムに行く決意へ導かれるんですね。縛られて、捕えられてと言ってもいいでしょう。そのようにエルサレムに行くというのですから、本音を言うと、人間的に自らなのり出て行こうとは思えない。けれども行かないわけにはいかない。そのような聖霊の促し以上の押し出しともいえる迫りを受けていたということでしょう。
パウロ自身「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています」と言い、エルサレムに行けば大変な艱難が待っていることは分かっていました。それにも拘わらずパウロはエルサレム行きを決意した。否、しないではおれない聖霊の力が迫ってきていたのです。
彼は次のように決意を表明いたします。
24節「自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」
このパウロの決意は、彼の信念によるもではなく、彼が「霊に縛られたがゆえに」導かれたことに外なりません。
「霊に縛られる」というのは、何か変な言い方のようにお思いになる方もいらっしゃるかも知れませんが。金縛りとか何とかいいますようね。けれどそういうことではなく、パウロは自分自身のことをキリスト・イエスの奴隷とか僕、と言い表しました。主イエス・キリストとその救い、神の愛に捕えられ、それゆえに奴隷が主人に服従するように仕える者なっている。「霊に縛られる」とはそのような響きをもった言葉だと思います。
パウロはユダヤ教徒のエリートであったとき、その知識と神への熱心を誇り、排他的になってクリスチャンを異端者だとひどく迫害し、そのことさえ自らの誇りとして生きていました。そんな折、パウロはさらなる迫害のためダマスコの途上で、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」との呼びかけを聞きます。パウロが「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」との答えがありました。彼は大きな衝撃で目が見えなくなってしまいます。これまで主のためにと熱心にキリスト教徒と教会を迫害していたことが、実は主に対する迫害であったことを知ったパウロはその後、これまで自分が迫害を加えていた主の弟子アナニアによる執り成しの祈りによって、主の救いと聖霊の満たしを受け、深い回心と共に、目が元どおり見えるようになり、バプテスマを受けて、元気を取り戻すのですね。
パウロはこの自分が敵視し、迫害していた主の弟子アナ二アとの出会いによって、主イエスの十字架の意味、愛と赦しの福音を体験し、彼は神に悔改め、主イエスを信じて救いを体験するのです。そこから彼の伝道者としての歩みが始まり、3回の伝道旅行が示すとおり主の福音を様々な地に伝えていきました。しかし、それはまた主イエスと共なる、すなわち軛を共にするように、多くの苦しみや試練の始まりでもあったのですね。
本日のところにありますように、「彼は霊に縛られて、エルサレムに行こう」との決意へ導かれるのです。彼をそこまでかり立てたのは何であったのでしょう。それは先程の24節にありますとおり、「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするとの任務を果たす」ためであったのですね。
神の恵みの福音、それはまさに罪のゆえに滅ぶ外ない者であったのに、そのような者に罪を贖ってくださった神の御子イエスとその十字架による神との和解の福音であります。その福音の圧倒的な力に捕えられたパウロは、その生涯を主のために捧げました。
エルサレムに行くことは、投獄と苦難を受けることを意味していましたが、パウロを捕える主の御霊に押し出され、主イエスによって救われた恵みを、エルサレムにおいて語る決意へと導かれるのですね。
パウロは「主イエスからいただいた神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」と、非常に重たい言葉を語ります。私たちクリスチャンはこのパウロが語った言葉に無感覚でいられるでしょうか。私どもは「主イエスからいただいた、神の恵みの福音」に捕えられた人、その深い感謝と応答を見るのであります。
先程、K姉の入会の証しを伺いました。3月に何かの力に押し出されるように大阪教会に来たのは偶然でない神さまの導きをおぼえているとのそのお証し、又、姉妹は聖書を読む度、神の言葉は生きている、と聖書に触れる毎に心動かされ、涙があふれてくるということをいつも伺っておりましたが。それは、神の招きに背を向けて来た事への悔改めと、主イエスによって神に立ち返ることができた喜びから来るものであることを、そのお証しから知らされます。そのような主の恵みを語らずにはいられない。
それがまさに炎の舌であり、聖霊のお働きなのですね。
そのようにこの大阪教会が福音を証しし、伝え、主の救い与って生きる喜びを分かち合っていくためには、まさに聖霊の力とお働きが必要です。すでに主は福音の様々な出会いと出来事を起こしてくださっておられます。私どもそれに応えていけるように、いよいよ深く、聖霊の力と助けを共に祈り求めてまいりましょう。