礼拝宣教 ヨハネ13:1-17 レント(受難節Ⅱ)
先日はローマ法王が移民政策について「どこであれ、壁を作ることだけを考え橋を作ろうとしない人はキリスト教徒ではない」と述べ話題になりました。先週のヨハネ12章20節以降からのメッセージでは、ギリシャ人という異邦人の訪問によってイエスさまの「時が来た」との宣言がなされたこと。又、弟子たちを通して民族や言葉の違いを越え神の福音がもたらされて来た事実をご一緒に確認しました。私たちも又、主に取り継ぐ・つないでゆく・橋渡ししてゆくという役目が託されています。
今日のメッセージはその具体的なあり方についてイエスさま自ら模範を示してくださったそのような箇所であります。私たちの教会の玄関には菅原画伯の絵がかけられていますが。イエスさまがひざまずき弟子の足を洗っておられ、弟子は何だか申し訳なさそうにしているという様子が描かれています。この絵は、新しくなって、さあこれから芽生え育っていこうとしている私たちに向けてのイエスさまからのメッセージとして贈って頂いたのだと、今回改めて気づいた次第です。立派な建物にまさってキリストの教会とされるのは、私たちが互いに足を洗い合うという実践においてであることを今日のメッセージから詳しく聴いていきたいと思います。
この「イエスさまが弟子たちの足を洗われる」洗足の記事は、ヨハネ福音書にしか記載されていません。他のマタイ、マルコ、ルカの共観福音書には、そのところにイエスさまが弟子たちと共にもたれた「最後の晩餐」の記事が記載されています。
先週はイエスさまが「時が来た」と言われ、「一粒の麦のたとえ」をお話になられましたが。今日の箇所でもイエスさまが「御自分の時が来たことを悟られ」て、自ら弟子たちの足をお洗いになったことが記されています。
「足を洗うこと」も「最後の晩餐をもたれたこと」も、間近に迫る神の時、十字架の道を前にイエスさまご自身の意志を弟子たちに示し、託されるためであったのです。
3節-5節「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」
そうしてイエスさまが弟子たち一人ひとりの足を洗い、ていねいに手ぬぐいでふかれ、ペトロの番が来ました。ところが、師であるイエスさまの思いもかけぬ行為に驚愕したペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と必死に断ります。なぜなら足を洗う事は当時奴隷の仕事であったからです。まあペトロは師であるイエスさまに大変な敬意をもっていましたから、「わたしの足など、決して洗わないでください」とお断りしたというのは人間的に分かる気がします。私がもしそこにいたとしたなら、やはり「とんでもないことです」と言って遠慮したかもしれません。しかし、イエスさまはそんなペトロに、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とお答えになるのです。これまたペトロには大変なショックであったでしょう。
ここを読むとき、イエスさまをして一つの真理が語られているように思えます。
それは、私たち人間のもつ自然な感情から生じる思いが、そのまま主の御心に適ったものになり得るものではない、ということです。
私たち日本人は恥の文化を持っていると言われます。こんなことを言ったら、人と違ったことをしたら恥ずかしい。常識的でないから恥ずかしい。人様に迷惑はかけられない。それは立派なことである反面、過敏になり過ぎると、せっかくの恵みや善意が無駄になることもあるでしょう。
「もしわたしがあなたを洗わないなら。」
イエスさまが足を洗われる行為には「十字架の死による罪の贖い」が象徴されていたのです。主イエスが流される血によって罪ゆるされ、きよめられる。そのもったいない恵みに与ることがなければペトロも私たちもイエスさまと何の関わりもないことになるんですね。
前の教会で主の晩餐が行われる礼拝に必ずお休みなさる方がおられました。その方に事情を伺うと、主の晩餐の折に「回って来るぶどう酒の入った杯がうまくとれなくてこぼしてしまう。それで迷惑をかけるのなら主の晩餐のある礼拝は控えよう」ということが一番の理由だったことを知らされ、私はショックを受けたのですが。その方にぶどう酒をこぼすことよりも主イエスさまの恵みをそれで頂かないことの方が神さまは悲しく思われます、とお話しすると、それから主の晩餐に毎月来られるようになられたのですね。
また、よく、人のために尽くし、活動的な人は、逆に他の人から同様にしてもらうことに対しては、素直に受け入れることが難しい、ということを聞くことがあります。
人からしてもらうことを喜び受け入れることって素直で謙虚な心がないとできません。人に尽くすことはできても、人からしてもらうことを受け入れることができない人が意外と多いのではないでしょうか。
人の世話になること、人の手を煩わすことは良くない、という美徳があります。確かに謙遜なように思えますが、その裏側には自分の弱さや汚れた部分を周りには見せたくないという思いがあるかもしれません。それが悪い事だとは言えませんが、イエスさまが互いに足を洗い合いなさいとおっしゃったこの「互いに」ということの中には、えてして人にしてあげる側に立っていたい人間の、あるいは人より立派でいたいという人間の願望に対するお言葉であると言えます。ただ受けるのでもなく、ただ仕えるのでもない、「互いに仕え合う」この関係性を主イエスは大切にされておられるのでしょう。
さて、イエスさまは、十字架にはりつけにされ自らをさらしものとされるそのお姿を通して私たち人間をまるごと愛しておられることを示されました。それはまさに私たちが周りには見せたくないような弱さ、汚なさを自ら負い、私たちがゆるされ受け入れられるためでした。それが十字架の愛なのですね。1節冒頭のところで、「イエスは、、、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあるように、主イエスはすべての弟子たちの足をお洗いになられました。それはどんな弟子たちもイエスさまによって洗って頂く必要があったということです。そこにはイエスさまを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダもいました。イエスさまがその「ユダの足をも洗われた」ということの意義はほんとうに奥深いものです。しかしよくよく考えますと、ペトロもイエスさまが捕えられた時、主イエスを3度否んで裏切ったのです。そういう意味では両者とも同じでありました。けれども2人が大きく違っていたのは、ペトロは主イエスのお言葉とその胸に刻みつけていたということです。そのことによって主に立ち返ることができたということです。イスカリオテのユダはイエスさまを裏切った自分をひたすら責め、罪責感でいっぱいのまま主の救いの言葉を受け入れることなく自分の命を断ってしまうのです。主イエスの愛を拒みゆるしを否んだことの代償はあまりにも大きなものでした。ペトロとユダのそこに光と闇の別れ道があるといえるでしょう。
さて最初に、イエスさまが弟子たちの足を洗われたのは、イエスさまが御自身の意志を弟子たちに示し、託すものであったということを申しました。
14節-15節
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
イエスさまは、弟子たちの度重なる「誰が一番偉いだろうか」という議論を耳にする中で、自ら奴隷のようになって弟子たちの足を洗われました。互いに仕え合うこと、その仕えることと受けることを、自身の姿をとおしてお示しになられたのです。これ以上言葉を要しないほどの説得力をもった模範をイエスさまご自身がお示しになられたのです。そのお姿は弟子たちの胸に刻みつけられたことでしょう。
私ども人間同士の関係というのは、どこか自分に心地よく思えるところでは共感もし、受け入れあうことができても、わずらわしい部分やうっとうしく思えることがあると、自分とは関係ない関わりを断ってしまいたくなるものです。しかし、いつもその自分のその感情のままに関わりを断ってしまうような集まりなら、世のサークルや団体と何ら変わりありません。肝心なことは、主イエスが自ら模範をお示しになられたとおり、一番汚れているように思える足を洗い合うように、主イエスの愛とゆるしの中でキリストの弟子とされる、ということであります。
日常の生活において「足」は頻繁に洗う必要があるほど、汚れやすい部分であります。1回洗ったからずっときれいというものではありません。同様にその都度その都度主にゆるされているのですからゆるすものとなり、受け入れられているものとして受け入れるように努める。その関係性を喜び合えることにキリストの教会たる福音のかおりが放たれてゆくのではないでしょうか。私どもはうみつかれることなく、キリストの愛が満ち溢れることに期待してまいりましょう。
今、レント、受難節のただ中で私たちの歩みがなされておりますが。主イエスさまが僕の姿となって人に仕え、十字架の死に至るまで愛し抜いてくださったそのお姿を模範とし、この深い主の恵みをより多くの方々と分かち合うべく、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」とのお言葉に聞き従ってまいりましょう。
先日はローマ法王が移民政策について「どこであれ、壁を作ることだけを考え橋を作ろうとしない人はキリスト教徒ではない」と述べ話題になりました。先週のヨハネ12章20節以降からのメッセージでは、ギリシャ人という異邦人の訪問によってイエスさまの「時が来た」との宣言がなされたこと。又、弟子たちを通して民族や言葉の違いを越え神の福音がもたらされて来た事実をご一緒に確認しました。私たちも又、主に取り継ぐ・つないでゆく・橋渡ししてゆくという役目が託されています。
今日のメッセージはその具体的なあり方についてイエスさま自ら模範を示してくださったそのような箇所であります。私たちの教会の玄関には菅原画伯の絵がかけられていますが。イエスさまがひざまずき弟子の足を洗っておられ、弟子は何だか申し訳なさそうにしているという様子が描かれています。この絵は、新しくなって、さあこれから芽生え育っていこうとしている私たちに向けてのイエスさまからのメッセージとして贈って頂いたのだと、今回改めて気づいた次第です。立派な建物にまさってキリストの教会とされるのは、私たちが互いに足を洗い合うという実践においてであることを今日のメッセージから詳しく聴いていきたいと思います。
この「イエスさまが弟子たちの足を洗われる」洗足の記事は、ヨハネ福音書にしか記載されていません。他のマタイ、マルコ、ルカの共観福音書には、そのところにイエスさまが弟子たちと共にもたれた「最後の晩餐」の記事が記載されています。
先週はイエスさまが「時が来た」と言われ、「一粒の麦のたとえ」をお話になられましたが。今日の箇所でもイエスさまが「御自分の時が来たことを悟られ」て、自ら弟子たちの足をお洗いになったことが記されています。
「足を洗うこと」も「最後の晩餐をもたれたこと」も、間近に迫る神の時、十字架の道を前にイエスさまご自身の意志を弟子たちに示し、託されるためであったのです。
3節-5節「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」
そうしてイエスさまが弟子たち一人ひとりの足を洗い、ていねいに手ぬぐいでふかれ、ペトロの番が来ました。ところが、師であるイエスさまの思いもかけぬ行為に驚愕したペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と必死に断ります。なぜなら足を洗う事は当時奴隷の仕事であったからです。まあペトロは師であるイエスさまに大変な敬意をもっていましたから、「わたしの足など、決して洗わないでください」とお断りしたというのは人間的に分かる気がします。私がもしそこにいたとしたなら、やはり「とんでもないことです」と言って遠慮したかもしれません。しかし、イエスさまはそんなペトロに、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とお答えになるのです。これまたペトロには大変なショックであったでしょう。
ここを読むとき、イエスさまをして一つの真理が語られているように思えます。
それは、私たち人間のもつ自然な感情から生じる思いが、そのまま主の御心に適ったものになり得るものではない、ということです。
私たち日本人は恥の文化を持っていると言われます。こんなことを言ったら、人と違ったことをしたら恥ずかしい。常識的でないから恥ずかしい。人様に迷惑はかけられない。それは立派なことである反面、過敏になり過ぎると、せっかくの恵みや善意が無駄になることもあるでしょう。
「もしわたしがあなたを洗わないなら。」
イエスさまが足を洗われる行為には「十字架の死による罪の贖い」が象徴されていたのです。主イエスが流される血によって罪ゆるされ、きよめられる。そのもったいない恵みに与ることがなければペトロも私たちもイエスさまと何の関わりもないことになるんですね。
前の教会で主の晩餐が行われる礼拝に必ずお休みなさる方がおられました。その方に事情を伺うと、主の晩餐の折に「回って来るぶどう酒の入った杯がうまくとれなくてこぼしてしまう。それで迷惑をかけるのなら主の晩餐のある礼拝は控えよう」ということが一番の理由だったことを知らされ、私はショックを受けたのですが。その方にぶどう酒をこぼすことよりも主イエスさまの恵みをそれで頂かないことの方が神さまは悲しく思われます、とお話しすると、それから主の晩餐に毎月来られるようになられたのですね。
また、よく、人のために尽くし、活動的な人は、逆に他の人から同様にしてもらうことに対しては、素直に受け入れることが難しい、ということを聞くことがあります。
人からしてもらうことを喜び受け入れることって素直で謙虚な心がないとできません。人に尽くすことはできても、人からしてもらうことを受け入れることができない人が意外と多いのではないでしょうか。
人の世話になること、人の手を煩わすことは良くない、という美徳があります。確かに謙遜なように思えますが、その裏側には自分の弱さや汚れた部分を周りには見せたくないという思いがあるかもしれません。それが悪い事だとは言えませんが、イエスさまが互いに足を洗い合いなさいとおっしゃったこの「互いに」ということの中には、えてして人にしてあげる側に立っていたい人間の、あるいは人より立派でいたいという人間の願望に対するお言葉であると言えます。ただ受けるのでもなく、ただ仕えるのでもない、「互いに仕え合う」この関係性を主イエスは大切にされておられるのでしょう。
さて、イエスさまは、十字架にはりつけにされ自らをさらしものとされるそのお姿を通して私たち人間をまるごと愛しておられることを示されました。それはまさに私たちが周りには見せたくないような弱さ、汚なさを自ら負い、私たちがゆるされ受け入れられるためでした。それが十字架の愛なのですね。1節冒頭のところで、「イエスは、、、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあるように、主イエスはすべての弟子たちの足をお洗いになられました。それはどんな弟子たちもイエスさまによって洗って頂く必要があったということです。そこにはイエスさまを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダもいました。イエスさまがその「ユダの足をも洗われた」ということの意義はほんとうに奥深いものです。しかしよくよく考えますと、ペトロもイエスさまが捕えられた時、主イエスを3度否んで裏切ったのです。そういう意味では両者とも同じでありました。けれども2人が大きく違っていたのは、ペトロは主イエスのお言葉とその胸に刻みつけていたということです。そのことによって主に立ち返ることができたということです。イスカリオテのユダはイエスさまを裏切った自分をひたすら責め、罪責感でいっぱいのまま主の救いの言葉を受け入れることなく自分の命を断ってしまうのです。主イエスの愛を拒みゆるしを否んだことの代償はあまりにも大きなものでした。ペトロとユダのそこに光と闇の別れ道があるといえるでしょう。
さて最初に、イエスさまが弟子たちの足を洗われたのは、イエスさまが御自身の意志を弟子たちに示し、託すものであったということを申しました。
14節-15節
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
イエスさまは、弟子たちの度重なる「誰が一番偉いだろうか」という議論を耳にする中で、自ら奴隷のようになって弟子たちの足を洗われました。互いに仕え合うこと、その仕えることと受けることを、自身の姿をとおしてお示しになられたのです。これ以上言葉を要しないほどの説得力をもった模範をイエスさまご自身がお示しになられたのです。そのお姿は弟子たちの胸に刻みつけられたことでしょう。
私ども人間同士の関係というのは、どこか自分に心地よく思えるところでは共感もし、受け入れあうことができても、わずらわしい部分やうっとうしく思えることがあると、自分とは関係ない関わりを断ってしまいたくなるものです。しかし、いつもその自分のその感情のままに関わりを断ってしまうような集まりなら、世のサークルや団体と何ら変わりありません。肝心なことは、主イエスが自ら模範をお示しになられたとおり、一番汚れているように思える足を洗い合うように、主イエスの愛とゆるしの中でキリストの弟子とされる、ということであります。
日常の生活において「足」は頻繁に洗う必要があるほど、汚れやすい部分であります。1回洗ったからずっときれいというものではありません。同様にその都度その都度主にゆるされているのですからゆるすものとなり、受け入れられているものとして受け入れるように努める。その関係性を喜び合えることにキリストの教会たる福音のかおりが放たれてゆくのではないでしょうか。私どもはうみつかれることなく、キリストの愛が満ち溢れることに期待してまいりましょう。
今、レント、受難節のただ中で私たちの歩みがなされておりますが。主イエスさまが僕の姿となって人に仕え、十字架の死に至るまで愛し抜いてくださったそのお姿を模範とし、この深い主の恵みをより多くの方々と分かち合うべく、「あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」とのお言葉に聞き従ってまいりましょう。