礼拝宣教 ヨハネ11・1~27
本日は「ラザロの死と復活に関する」11章の記事から、御言葉に聴いていきたいと思います。エルサレムの近くにベタ二アという村がありました。そこにマルタ、マリア、ラザロという3人の兄弟が住んでいました。イエスさまはこの兄弟とは以前から顔見知りで、度々彼らの家に泊り、そこで神の国のお話をなさっておられたのです。この3人とはことのほか仲が良く、5節にあるように、イエスさまは「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」のです。ところが、そのラザロがかなり重い病気に罹ってしまいました。心配でならないマルタとマリアはイエスさまのもとに遣いを送って、助けを求めます。この時イエスさまはヨルダン川東部において宣教活動をなさっていました。そこでは多くの人たちがイエスさまを信じた、とあります。イエスさまは人々に必要とされ多忙であったに違いありません。それでもマルタとマリアの姉妹はイエスさまが自分たちの兄弟、そのラザロのことを愛しておられることを知っていたので、きっとすぐにラザロのもとに来て、手をおいて祈ってくださると思っていたのです。
ところがイエスさまはラザロの病気の知らせをお聞きになると、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とおっしゃって、「なおも二日間同じ所に滞在された」というのですね。なぜイエスさまはラザロのもとに直行されなかったのでしょうか。それはイエスさまがラザロを愛しておられたと聖書がわざわざ伝えていることと矛盾するように思えます。
興味深いのは、5節で「イエスさまがラザロを愛しておられた」この「愛」はギリシャ語訳で「アガペーの愛」であることです。つまりそれは「神の愛」であったということです。これど3節の、マルタとマリアの姉妹がイエスさまのもとに遣いを送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたその「愛」は「フィリア」すなわち「友情や善意の愛」が使われています。イエスさまとラザロら兄弟との関わりはそういった友情や善意が確かにあった、働いていたでしょう。ほんとうに善い人間関係がそこにあったことでしょう。しかしそれによってイエスさまがラザロのもとへ直行なさることはなかったのです。聖書は、イエスさまがアガペー、神から来る愛をもってラザロを愛しておられたがゆえに、なお二日間そこに滞在された、ということを記すのであります。では、イエスさまが二日間もラザロを放置されたようになさったことのどこがアガペーの愛なのか。そのことについて見ていきたいと思います。
第一に、イエスさまは言われます。「この病気は死で終わるものではない。」
どういう意味でしょう。イエスさまははっきりとそうおっしゃるのです。口語訳聖書を見ますと「この病気は死ぬ程のものではない」と訳してありますが、正しい訳ではありません。ラザロは文字通り死ぬんです。人間にとって死は破壊的な力をもっています。なぜならそれはすべての終わりであり、すべてが終わるんです。しかしイエスさまはここで、「ラザロは死ぬが、それは死で終わるものではない」とおっしゃるんですね。終わらないんですよ。それは、彼の死が滅びでも絶望でもない、ということであります。
第二に、なお二日間留まられるのは、これからラザロの上に起こる出来事によって「神の栄光のためである。神の子がそれに栄光を受けるのである」と、イエスさまは言われるのです。
ヨハネ福音書が「神の栄光」というとき、それは「イエスさまの十字架の苦難と死」を意味しているということを幾度も宣教で申しましたが。
ここでのラザロの病気、死、さらによみがえりは、間近に迫ったイエスさまの苦難と死、復活を指し示す「しるし」なのです。
そのことと関連しますが、イエスさまは弟子たちに「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われます。弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言ったとあります。弟子たちはまだラザロは眠っているので、イエスさまが起こしにゆかれるんだ、とそのようにイエスさまの言葉を誤解します。
イエスさまはその弟子たちにはっきりと言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」
「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたのいためによかった」というのはどういうことでしょう? この言葉の意味は少し難解ですけれども。イエスさまがたとえばラザロの重篤の病床にかけつけて病気をおいやしになることもできたお方だと思いますが。ラザロが死んだのは、17節によりますと、イエスさま一行がベタ二アに着いた時、ラザロは死んで墓に埋葬されてからさらに4日が経っていたことが分かります。それを勘案しますと、マルタとマリアの遣いがイエスさまのところにその伝言を持って来たその日くらいに、ラザロはすでに死んでいたということになります。イエスさまはラザロが死んだことをご存じであったのではないでしょうか。つまり、イエスさまはラザロの死を知っておられ、その上で「わたしは彼を起こしに行く」と言われているのです。それを考えますと、ここでイエスさまが弟子たちに、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」という意味が解けます。
イエスさまにはその後、十字架の苦難と死をお受けになります。それは弟子たちに耐え難く乗り越え難い躓きとなっていくのです。イエスさまは、死んだラザロを生き返らすしるしを通して、弟子たちに「死をも越える命の信仰」を示し、それを彼らに与え、彼らを力づけようとなさったのであります。私たちも又、信仰の目をもってその「神の栄光」、神の御子、主イエスの十字架の苦難と死によってもたらされる復活の命の希望に活かされているのですね。それは主イエスを信じて日々歩む私たちにとっても、大きな力と支えであります。
さて、イエスさまがベタ二アに到着されたことを聞いたマルタは、イエスさまを迎えに行くと、開口一番「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。彼女はイエスさまに病人をいやす力があると信じていたがゆえに、ラザロが生きていた間にイエスさまがおられなかったことが残念でなりませんでした。しかし、彼女には微かな信仰の望みがあったのです。マルタはイエスさまに言います。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」かすかに望みがあると思いましたのは、マルタが「今でも」と言っていることです。それが起こった今でも、そんなことになってしまった今でも、主よ、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは承知しています。」
その彼女にイエスさまおっしゃいます。「あなたの兄弟は復活する。」
それに対してマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えています。マルタの答えはユダヤ社会一般に通じている復活観であったのです。しかしここでイエスさまが言われるラザロの復活は終末の時ではなく、まさに「今」イエスさまのお言葉が投げかけられたその時を指しているのです。
イエスさまはここでマルタと一対一で向き合いこう言われます。「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ここで、イエスさまは「御自分が復活であり、命である」と言われます。そのイエスさまを信じる者は「死んでも生きる。」ここにキリスト信仰の神髄が語られているのでありますが。皆様の中にはこのイエスさまの「死んでも生きる」とその後の「生きていてわたしを信じる者はだれも、死ぬことはない」と言う言葉とは矛盾しているのではないか、と思われた方もおられるでしょう。信じている人が死なないのなら、死んでも生きるというのはおかしいのでは、と。
それについてイエスさまは今日の箇所で、はっきりと「ラザロは死んだのだ」とおっしゃっています。始めにお話しましたように、死は必ず私たちに訪れます。私どもの肉体は朽ち果てます。しかし肝心なのはそれで終わることはない、という事であります。
聖書教育誌のコラムに次のような記事が掲載されていたのでご紹介します。「4節に、『この病気は死で終わるものではない』というみ言葉がありますが、これをひっくり返して題名にした書、それがキルケゴールの『死に至る病』です。この本の冒頭、緒言のところで彼はこのみ言葉から語っています。「ラザロが死人の中から呼びさまされたから、それだから、この病は死に至らないといえるのではなく、キリストが現にそこにいますから、それだから、この病は死に至らないのである。」
キルケゴールは復活のキリストに結ばれて生き続ける「命」のことをいっているのですね。死とは罪の報酬ですが、それで終わることのない「命」をもって生きる者でありたいですね。
最後に、イエスさまは「このことを信じるか」と、マルタに問われます。この問いかけはそのまま私たちへの問いかけであります。マルタはそのイエスさまの問いかけに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。マルタはまだラザロの復活を見ていないのです。ラザロに何が起こるのか彼女にはまだ分からなかったでしょう。しかし彼女は「主イエスよ、あなたを信じます」と、ここですべてを主に委ねて生きることを決意するのですね。
ヘブライ人の手紙11章に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されているとおり、マルタはそれがまだ見えていない中で、主に信頼し委ねきったのです。見えるから信じる、というのは信仰ではありません。目には見えない中でなおそれを望んでいくからこそ信仰なのです。主はその信仰を私たちに期待しておられるのです。
聖書はその後、復活であり、命である主イエスがラザロを死からよみがえらされたことを伝えます。単なる現象やしるし、見えるものによってではなく、命の主を信じ、主の命に与り、主につながって生きることこそ、死をも越える命の道であります。
私は今日のこの箇所を読みながら、昨年暮れに重篤の中、一時意識を回復された折に、その病床で「主イエスを救い主と信じますか」という問いかけに、「はい、信じることにいたしました」と、信仰告白されて死の床から起き上がったY兄のことが思い起こされました。10日間という喜びの中で教会に歩いていくための練習をなさり、クリスチャンとしてご家族、教会員と実に濃い時間をもたれ、主のもとに召された兄弟。ほんとうに、主がその時を備えてくださったことにただ感謝。兄弟の出来事を通して私たちも又、マルタとマリアのように命の主、復活の主に結ばれている確信と、その確認をさせて頂き、さらに感謝でした。
最後に、私たちが生きる世界で、神が無力であるように思えてならない現実の悲しみや絶望に直面することがございます。しかし、この私たちの苦悩を十字架の苦難と死を身に負われたイエスさまご自身が誰よりもご存じであります。自ら私たちの苦しみや悲しみ、痛みや悩みをすべて知ってくださった私たちの主イエス・キリスト。それは他の何ものにも替えがたい私たちの生きる力であります。今日の聖書のメッセージ。イエスさまが十字架の苦難と死、そして復活をもって打ち開いて下さった命の道を、今週も主に導かれ、従ってまいりましょう。たえず現わされた神の栄光、主イエスを仰ぎみつつ歩んでまいりましょう。
本日は「ラザロの死と復活に関する」11章の記事から、御言葉に聴いていきたいと思います。エルサレムの近くにベタ二アという村がありました。そこにマルタ、マリア、ラザロという3人の兄弟が住んでいました。イエスさまはこの兄弟とは以前から顔見知りで、度々彼らの家に泊り、そこで神の国のお話をなさっておられたのです。この3人とはことのほか仲が良く、5節にあるように、イエスさまは「マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」のです。ところが、そのラザロがかなり重い病気に罹ってしまいました。心配でならないマルタとマリアはイエスさまのもとに遣いを送って、助けを求めます。この時イエスさまはヨルダン川東部において宣教活動をなさっていました。そこでは多くの人たちがイエスさまを信じた、とあります。イエスさまは人々に必要とされ多忙であったに違いありません。それでもマルタとマリアの姉妹はイエスさまが自分たちの兄弟、そのラザロのことを愛しておられることを知っていたので、きっとすぐにラザロのもとに来て、手をおいて祈ってくださると思っていたのです。
ところがイエスさまはラザロの病気の知らせをお聞きになると、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とおっしゃって、「なおも二日間同じ所に滞在された」というのですね。なぜイエスさまはラザロのもとに直行されなかったのでしょうか。それはイエスさまがラザロを愛しておられたと聖書がわざわざ伝えていることと矛盾するように思えます。
興味深いのは、5節で「イエスさまがラザロを愛しておられた」この「愛」はギリシャ語訳で「アガペーの愛」であることです。つまりそれは「神の愛」であったということです。これど3節の、マルタとマリアの姉妹がイエスさまのもとに遣いを送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたその「愛」は「フィリア」すなわち「友情や善意の愛」が使われています。イエスさまとラザロら兄弟との関わりはそういった友情や善意が確かにあった、働いていたでしょう。ほんとうに善い人間関係がそこにあったことでしょう。しかしそれによってイエスさまがラザロのもとへ直行なさることはなかったのです。聖書は、イエスさまがアガペー、神から来る愛をもってラザロを愛しておられたがゆえに、なお二日間そこに滞在された、ということを記すのであります。では、イエスさまが二日間もラザロを放置されたようになさったことのどこがアガペーの愛なのか。そのことについて見ていきたいと思います。
第一に、イエスさまは言われます。「この病気は死で終わるものではない。」
どういう意味でしょう。イエスさまははっきりとそうおっしゃるのです。口語訳聖書を見ますと「この病気は死ぬ程のものではない」と訳してありますが、正しい訳ではありません。ラザロは文字通り死ぬんです。人間にとって死は破壊的な力をもっています。なぜならそれはすべての終わりであり、すべてが終わるんです。しかしイエスさまはここで、「ラザロは死ぬが、それは死で終わるものではない」とおっしゃるんですね。終わらないんですよ。それは、彼の死が滅びでも絶望でもない、ということであります。
第二に、なお二日間留まられるのは、これからラザロの上に起こる出来事によって「神の栄光のためである。神の子がそれに栄光を受けるのである」と、イエスさまは言われるのです。
ヨハネ福音書が「神の栄光」というとき、それは「イエスさまの十字架の苦難と死」を意味しているということを幾度も宣教で申しましたが。
ここでのラザロの病気、死、さらによみがえりは、間近に迫ったイエスさまの苦難と死、復活を指し示す「しるし」なのです。
そのことと関連しますが、イエスさまは弟子たちに「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言われます。弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言ったとあります。弟子たちはまだラザロは眠っているので、イエスさまが起こしにゆかれるんだ、とそのようにイエスさまの言葉を誤解します。
イエスさまはその弟子たちにはっきりと言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」
「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたのいためによかった」というのはどういうことでしょう? この言葉の意味は少し難解ですけれども。イエスさまがたとえばラザロの重篤の病床にかけつけて病気をおいやしになることもできたお方だと思いますが。ラザロが死んだのは、17節によりますと、イエスさま一行がベタ二アに着いた時、ラザロは死んで墓に埋葬されてからさらに4日が経っていたことが分かります。それを勘案しますと、マルタとマリアの遣いがイエスさまのところにその伝言を持って来たその日くらいに、ラザロはすでに死んでいたということになります。イエスさまはラザロが死んだことをご存じであったのではないでしょうか。つまり、イエスさまはラザロの死を知っておられ、その上で「わたしは彼を起こしに行く」と言われているのです。それを考えますと、ここでイエスさまが弟子たちに、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」という意味が解けます。
イエスさまにはその後、十字架の苦難と死をお受けになります。それは弟子たちに耐え難く乗り越え難い躓きとなっていくのです。イエスさまは、死んだラザロを生き返らすしるしを通して、弟子たちに「死をも越える命の信仰」を示し、それを彼らに与え、彼らを力づけようとなさったのであります。私たちも又、信仰の目をもってその「神の栄光」、神の御子、主イエスの十字架の苦難と死によってもたらされる復活の命の希望に活かされているのですね。それは主イエスを信じて日々歩む私たちにとっても、大きな力と支えであります。
さて、イエスさまがベタ二アに到着されたことを聞いたマルタは、イエスさまを迎えに行くと、開口一番「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。彼女はイエスさまに病人をいやす力があると信じていたがゆえに、ラザロが生きていた間にイエスさまがおられなかったことが残念でなりませんでした。しかし、彼女には微かな信仰の望みがあったのです。マルタはイエスさまに言います。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」かすかに望みがあると思いましたのは、マルタが「今でも」と言っていることです。それが起こった今でも、そんなことになってしまった今でも、主よ、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは承知しています。」
その彼女にイエスさまおっしゃいます。「あなたの兄弟は復活する。」
それに対してマルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えています。マルタの答えはユダヤ社会一般に通じている復活観であったのです。しかしここでイエスさまが言われるラザロの復活は終末の時ではなく、まさに「今」イエスさまのお言葉が投げかけられたその時を指しているのです。
イエスさまはここでマルタと一対一で向き合いこう言われます。「わたしが復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
ここで、イエスさまは「御自分が復活であり、命である」と言われます。そのイエスさまを信じる者は「死んでも生きる。」ここにキリスト信仰の神髄が語られているのでありますが。皆様の中にはこのイエスさまの「死んでも生きる」とその後の「生きていてわたしを信じる者はだれも、死ぬことはない」と言う言葉とは矛盾しているのではないか、と思われた方もおられるでしょう。信じている人が死なないのなら、死んでも生きるというのはおかしいのでは、と。
それについてイエスさまは今日の箇所で、はっきりと「ラザロは死んだのだ」とおっしゃっています。始めにお話しましたように、死は必ず私たちに訪れます。私どもの肉体は朽ち果てます。しかし肝心なのはそれで終わることはない、という事であります。
聖書教育誌のコラムに次のような記事が掲載されていたのでご紹介します。「4節に、『この病気は死で終わるものではない』というみ言葉がありますが、これをひっくり返して題名にした書、それがキルケゴールの『死に至る病』です。この本の冒頭、緒言のところで彼はこのみ言葉から語っています。「ラザロが死人の中から呼びさまされたから、それだから、この病は死に至らないといえるのではなく、キリストが現にそこにいますから、それだから、この病は死に至らないのである。」
キルケゴールは復活のキリストに結ばれて生き続ける「命」のことをいっているのですね。死とは罪の報酬ですが、それで終わることのない「命」をもって生きる者でありたいですね。
最後に、イエスさまは「このことを信じるか」と、マルタに問われます。この問いかけはそのまま私たちへの問いかけであります。マルタはそのイエスさまの問いかけに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えました。マルタはまだラザロの復活を見ていないのです。ラザロに何が起こるのか彼女にはまだ分からなかったでしょう。しかし彼女は「主イエスよ、あなたを信じます」と、ここですべてを主に委ねて生きることを決意するのですね。
ヘブライ人の手紙11章に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されているとおり、マルタはそれがまだ見えていない中で、主に信頼し委ねきったのです。見えるから信じる、というのは信仰ではありません。目には見えない中でなおそれを望んでいくからこそ信仰なのです。主はその信仰を私たちに期待しておられるのです。
聖書はその後、復活であり、命である主イエスがラザロを死からよみがえらされたことを伝えます。単なる現象やしるし、見えるものによってではなく、命の主を信じ、主の命に与り、主につながって生きることこそ、死をも越える命の道であります。
私は今日のこの箇所を読みながら、昨年暮れに重篤の中、一時意識を回復された折に、その病床で「主イエスを救い主と信じますか」という問いかけに、「はい、信じることにいたしました」と、信仰告白されて死の床から起き上がったY兄のことが思い起こされました。10日間という喜びの中で教会に歩いていくための練習をなさり、クリスチャンとしてご家族、教会員と実に濃い時間をもたれ、主のもとに召された兄弟。ほんとうに、主がその時を備えてくださったことにただ感謝。兄弟の出来事を通して私たちも又、マルタとマリアのように命の主、復活の主に結ばれている確信と、その確認をさせて頂き、さらに感謝でした。
最後に、私たちが生きる世界で、神が無力であるように思えてならない現実の悲しみや絶望に直面することがございます。しかし、この私たちの苦悩を十字架の苦難と死を身に負われたイエスさまご自身が誰よりもご存じであります。自ら私たちの苦しみや悲しみ、痛みや悩みをすべて知ってくださった私たちの主イエス・キリスト。それは他の何ものにも替えがたい私たちの生きる力であります。今日の聖書のメッセージ。イエスさまが十字架の苦難と死、そして復活をもって打ち開いて下さった命の道を、今週も主に導かれ、従ってまいりましょう。たえず現わされた神の栄光、主イエスを仰ぎみつつ歩んでまいりましょう。