日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

2016年イースター特別企画

2016-02-28 15:30:47 | イベント
藍色のシャマール
~フリージャーナリスト後藤健二さん・彼の視線の先にあったもの~

【プログラム】
第一章:音楽劇「イマジナリーライン」
第二章:トークライブ
       ※約2時間を予定しています。


【日時】2016年3月26日(土)14:00  27日(日)15:00
※開場は開演の30分前

【開場】日本バプテスト大阪教会
    大阪市天王寺区茶臼山町1-17(JR/大阪市地下鉄天王寺駅より北へ5分)
     HP:obcs@jimdo.com
駐車場はございません。最寄りの公共交通機関でお越しください。

【出演】(五十音順)
伊冴美緋彩(WEB-CINEMARS)
熊谷憲八
齋之内遊
ながはままなみ(劇団ウンウンウニウム)
馬場さくら
山本英輝(未来探偵社)
《ダンサー》
ストット彩
西谷友里
吉野有紗
《ゴスペル》
ゆかり☆ゴスペル
大橋旬子(SOUL☆MATE)
Tomoko Murabayashi
和歌淳子
(公演により2名〜4名
でのゴスペルユニット)

【音楽劇「イマジナリーライン」あらすじ】
戦場ジャーナリスト・ケンジは、アキラを連れて紛争直後のとある町に取材に来るが、町の中心である教会のシスターに取材を拒否される。許可を何度も求めるケンジに、シスターはなぜ取材をしたいのか理由に納得できたら取材を許可すると言う。ケンジは、自分が何故ジャーナリストになったのかを話し始める…。大学を卒業したばかりのアキラは、ジャーナリストに憧れ、ケンジにコネでついてきたが、ケンジのやり方にまどろっこしさを感じ、単独行動にでる。そして「イマジナリーライン(超えてはいけない一線)に直面する…・。紛争地域の子供たちや市民の生活を取材し続けた、フリージャーナリスト後藤健二氏の体験談をもとにしたオリジナル書き下ろし作品。
【演出】馬場さくら
脚本家。演出家。水都大阪2009で大阪市長賞受賞。
第27回S1グランプリ奨励賞授賞。
エンターテイメント社会派演劇で活躍中。
【お申込み】http://my.formman.com/form/pc/6TLSLf76uiPbzsmn/
※車椅子の方もそのままお入りいただけます。
※パソコン画面による字幕表示があります。
【お問合せ】Email:info@sakura-presents.com
TEL:080-5302-7101(制作平野)
桜人企画(さくらきかく)
HP:http://sakura-presents.com/
SAKURA PRESENTS 色シリーズ第9弾

第二章:トークライブ
【土曜トークゲスト】
守田 早生里(もりた さおり)
フリーライター
(クリスチャントゥデイ記者)
短大卒業後、米国に留学。
外資系企業で勤務の後、
2004年に長男を出産後、翻訳、執筆業などの在宅ワークを経て、
現在は、フリーライターとして、地方紙、行政紙、キリスト教ウェブニュース「クリスチャントゥデイ」などへ寄稿。
2014年5月には、「クリスチャントゥデイ」紙で、後藤氏へのインタビュー「それでも神は私を助けてくれる」を寄稿した。
1995年に受洗。日本ナザレン教団教会員。

【日曜トークゲスト】
伊良子 序(いらこ はじめ)
作家。
昭和24年、鳥取市出身。関西学院大卒。
祖父は明治の詩人・伊良子清白。
神戸新聞社で、社会部、学芸部、論説委員室などで勤務。学芸部時代に長年、映画を担当、論説委員時代は朝刊一面コラム「正平調」を5年間担当。
新聞社在職中、平成8年に神戸市に委嘱され「神戸100年映画祭」の総合プロデューサーを務め、阪神淡路大震災からの文化復興を目的にした1カ月のロングラン映画祭を、世界から約二十人の映画人を招いて開催する。現在はNPO「神戸100年映画祭」顧問。
新聞社退社後は執筆活動に専念。著書に「スリーマイル島への旅」「ジョン・フォード/孤高のフロンティア魂」「昭和の女優」「猫をはこぶ」「小津安二郎への旅」など。主にノンフィクション、エッセーなどを執筆。
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イエスは真のぶどうの木

2016-02-28 15:29:17 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ15:1-17 レントⅢ


先週はイエスさまが弟子の足を洗われた記事から、「互いに足を洗い合いなさい」というメッセージを聞きました。今日はヨハネ15章の箇所から、イエスさまが「ぶどうの木」のたとえをとおしてお示しになるメッセージに耳を傾けていきたいと思います。

パレスチナは豊かなぶどうの産地で、そのまま食べたり保存食としたり、またぶどう酒にしたりと生活に欠かせない農作物です。出エジプトの折にヨシュアとカレブがその地を偵察に行き、たわわに実ったぶどうの房を携え帰って、その土地の豊かさを示したとあります。旧約聖書はイスラエルの民をそんなぶどうの木にたとえ、詩編80編9節には「あなたはぶどうの木をエジプトから移し 多くの民を追い出して、これを植えられました」と記しています。
イエスさまはそのぶどうの木に御自分を重ねながら今日の冒頭で、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」とおっしゃるのですね。ここで、イエスさまが「わたしはまことのぶどうの木」と敢えて言われたのは、本物の良きぶどうの木とはいえない、実をもたらすことができないような木があったということです。
イザヤ書5章4節では「わたしがぶどう畑のためになすべきことで 何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ、酢っぱいぶどうが実ったのか」と語られます。又、エレミヤ2章の21節で主は「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに どうして、わたしに背いて 悪い野ぶどうに変り果てたのか」と嘆いておられます。
イエスさまの時代もまた、多くの人々が主の救いの恵みを忘れ、その高慢によって主の愛と憐れみを蔑ろにするような事態が生じていたのです。イエスさまはそこで、「わたしがまことのぶどうの木である」と宣言なさるのです。そのイエスさまにつながることこそが豊かな実を結ぶことになる。これが今日の主題であるわけですが。
ところで、2節に「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れなさる」とありますよね。ちょっと不思議に思いますのは、イエスさまにつながっていても実を結ばない枝があるというのは、どういうことなのでしょう。屁理屈かも知れませんが、イエスさまにつながっているなら豊かに実を結ぶ、と宣言されたことと矛盾しているように思えます。そのことにひっかかってなかなか前に進めなかったのですが。それは後程触れることにいたしまして。
先日は教会の玄関のバラの剪定が先日お花のことに詳しいYさんにご奉仕いただき助かりましたが。剪定の時期を逃しますと、バラの花が咲かないだけでなく、バラ自体もダメになってしまうということでした。又、柔軟に誘引することができる枝を残し、剪定する人の描く形に誘引することができない堅い枝は取り除く外ないことも教えてもらいました。ぶどうの木を剪定する場合もそうなのでしょうが。通常剪定は果実期の終わり頃に行われ、冬は幹とわずかな枝だけになってしまうそうです。そしてぶどうの苗木は植えられてから3年は実を結ぶことはないそうです。石の上にも3年ではないですが、その間まあ徹底した剪定で刈り込まれることによって生命を貯え、よき実を結ぶために備えられるそうです。まあそうやって手入れをされながら実を結ばない枝は取り除かれ、実を結ぶ枝はなお手入れがなされていくというのですが。これってどこで実を結ぶか実を結ばないかを農夫である父なる神さまは見分けられるかということですね。私たちには正直分からないことです。
 ただ、ここでイエスさまは、弟子たちに「わたしの話した言葉によって、あなたがたはすでに清くなっている」とおっしゃることに注目したいと思います。教会の玄関前のバラもしっかり花を咲かすためには土を消毒し、葉が繁ってくればこまめに消毒しないといけないそうで、そうしないと根っこも葉も病気になったり害虫がついたりします。
私たちクリスチャンも主のお語りになる言葉によって清くされることが必要ですね。
イエスさまがここでおっしゃる清さというのは、神の前において聖別されたことを意味します。よく言う、清潔感のある人とか言うのとは違います。私たち人間は自分では拭っても決して取り去ることのできない罪や性質があるものです。全き聖なるお方の前に立つとき、「わたしはきよい者です」などとは決して言えないでしょう。唯「世の罪を取り除く神の小羊」イエスさまによる贖いのきよめに与る外ない。それが私たちです。その救い主イエスさまのお言葉に聞き、与かって生きて行く時、主は「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」とおっしゃるのですね。このイエスさまのお言葉、福音によって私たちも又、きよくされているのであります。

ここで見逃してならないのは、そのイエスさまにつながっていることの大切さです。
ぶどうの幹であるイエスさまにつながり続けること、御言葉にとどまり続けることによって必要な養分を日々いただき、それが豊かに実を結ぶ枝とされるということなのです。

今、イースターの信仰告白に向けて河さんのバプテスマ準備会を持っていますが。Kさんが大阪教会に来られて半年になりますが。ご本人を前にして何ですけれど、福音の力ってすごいなぁ。主はほんとうに生きて働かれ人を新しくされるって改めて思わされ、逆に私の方が力づけ励ましを頂いているのですが。こうした救いの恵みは、教会につながり、兄弟姉妹と共に御言葉に聞き祈る中で与えられたものなのですね。

4節で「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」と、イエスさまはおっしゃいます。ここに「あなたがた」と複数形で呼ばれていますように、実によい実が結ばれていくには、「あなたがた」、つまり主イエスにある共同体、教会につながること、その必要性がここで語られているのです。わたしたち一人ひとりがちょうどぶどうの房のように主にある共同体として共に御言葉に聞き、祈り合い、支え合うところに福音の豊かな実りがもたらされるのです。

さて、9節-10節には「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」と語られています。
ここでイエスさまは「わたしの愛にとどまりなさい」とおっしゃいます。それは父なる神が子であるイエスさまを愛されたように、イエスさまは弟子たちを愛してこられた。そのイエスさまの愛にとどまるというのは、具体的には「イエスさまの掟を守ること」だというのです。さらに12節にあるように「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と、おっしゃるのです。
「互いに愛し合う」。かの12弟子といえども、それはイエスさまのお言葉なくして出来ることではありませんでした。ペトロが他の弟子をして「何度までゆるすべきでしょうか。7回までですか」と尋ね、イエスさまが「7の70倍、つまり際限のないほどゆるしなさい」といさめられた、そういうエピソードがあります。イエスさまは又、マタイ5章46節以降で、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」とおっしゃっています。そして「隣人を愛し、敵を憎め」という昔ながらの価値観を、イエスさまは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言い変えられて、自らそれを十字架の最期の時まで実践なさったのです。
しかし、そんなことはできない。そんな愛など私のうちにないというのが私たちの現実ではないでしょうか。どこか心地よい関係、自分にメリットのある関係なら何の苦労もいといません。けれどもイエスさまが招いておられるのは、自分の中には見出せないような愛、いわばこの世界では非常識な程の愛なのです。だからこそ、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたの足を洗ったように、あなたがたの救いを切に求めて十字架で血を流されたように、そのイエスさまにつながり、の愛にとどまり続けて、互いに愛し合うことを勧めておられるのです。
イエスさまはこれらのお言葉によって私たちをしばるためにおっしゃったのではありません。むしろ11節にありますように、「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃるのです。それは私たちに重荷を負わせるためのものでは決してないのです。イエスさまにつながりその愛と救いの福音を知れば知るほど感謝が溢れます。私たちは主の体なる教会につながる中で「互いに愛し合う」というイエスさまの御言葉の深さを発見し、育まれます。そうやって実りを得ていくのです。神さまの愛は、ある意味私たちが持ち得ない愛でありますけれども、しかし、イエスさまにつながり、イエスさまの愛にとどまり続ける者のうちに主は豊かにお働きくださり、実を結ぶものとならせてくださるのです。
2節に語られたとおり、主につながっているといいながら、実を結ばない枝はみな、取り除かれてしまうとございますが。大切なのは、主のお言葉に日々きよめられつつ、その愛と救いに共につながり、互いに愛し合うことです。そこに豊かな実りがもたらされると、イエスさまはおっしゃるのです。
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