日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

神の霊を受けて

2016-10-23 15:00:25 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル37:1~14  

この箇所は、バビロンの捕囚となっていた預言者エゼキエルが「主の霊によって」体験したこととして語られています。エゼキエルは「主の霊に連れ出され、谷の真ん中に降ろされるのでありますが。そこは骨でいっぱいであった」とあります。さらに「谷の上に甚だしく枯れていた骨」が放置されている有様を目にします。
今のこの時期はちょうどハロウィンということで、そこかしこにガイコツの絵や人形とか、わざわざ枯れはてたような服装などした人がその辺を歩いているようですが。まああんまり気持ちの良いものではありません。あれはよく誤解されるのですが、キリスト教とは全く関係がありません。古代ケルトで行なわれた収穫感謝の祝いと死者の祭り、いわばお盆のような風習が、現代の商業的イベントとして行なわれているだけで、喜ぶのは神さまではなく、お菓子の会社です。
この枯れた骨とは11節に「これらはイスラエルの全家である」と語られます。それはかつてエルサレムの神殿崩壊時に紛争の中で殺されたイスラエルの人のずっと放置されていた骨とも考えられでしょう。あるいは又、バビロンという捕囚の地に連行され、その異教の地で亡くなったイスラエルの人びとの骨であったとも考えることができます。しかしそれだけではなく、当時捕囚の地にあって苦悩し絶望する外なかったイスラエルの民。生きてはいるけれど、望みはうせ、滅びるばかりだと言う彼らも又、神さまの眼には枯れはてた骨のようであったのでありましょう。北イスラエル、さらに南ユダも滅ぼされ、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」という彼らに対して、生ける主なる神さまは、彼らのいのちの回復と民の復興を約束なさるのであります。一見するとおどろおどろしいこの情景ですが。しかしここには北イスラエルと南ユダの民が、生きておられる真の主、神を知り、その神との交わりの回復を得て、一本の木のように一つとされ復興していくその良き知らせ、福音が語られているのですね。

さて、捕囚の民をはじめエルサレムに残された民は、そのあまりに悲惨な状況ゆえに
生きてはいましたが、その有様は生きたしかばねのような状態。かつて日本の敗戦後がそのようであったのではないでしょうか。
主なる神は、「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」とお尋ねになります。エゼキエルはそれに対して、「いや、それは無理でしょう。あり得ません」とは言わず、「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えます。人は眼に見えるところで判断しますが、「神さまは人の思いを遙かに超えて働かれる方である。」この信仰がエゼキエルに、そう返答させたのでありましょう。
そこで主はエゼキエルに対して、そういう厳しい現実の只中にあった囚われの民に向かって、預言し、御言葉を語るようにお命じになります。
それが、4節以降の「主の言葉を聞け。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。するとお前たちは生き返る。・・・そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」とのお言葉でした。
エゼキエルは主が命じられたとおり預言しますと、7節「音がした。見よ、カタカタと音を立てて、骨と骨とが近づいた。わたしが見ていると、見よ、それらの骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上をすっかり覆った。(何だか命の誕生のようなすごい情景にも思えるのですが)しかし、その中に霊はなかった」というのです。
どういうことでしょう。「枯れた骨」が音をたててあわさり動き、それらの上に肉や皮膚が覆われても、そこに「霊」がなかった。それはどこか創世記の天地創造のくだりで神さまが人をいのちある者としてお造りになられた時の情景と重なって見えてまいります。創世記2章7節「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」この神の息は、神の霊の事であります。
つまり、いくら骨に筋や肉が生じ動くようになったとしても、それがたとえどんなに見栄えよく立派でも、そこに神の霊が吹き入れられてないのなら、生きているいのちとはいえない、ということであります。
この神の息、「霊」が吹き入れられるということは、すなわち神との交わりのうちに生きる者とされる、ということであります。それが本来の人が生きている状態であるということですね。しかし残念なことに、人はその罪の性質から神の愛に反して、神との交わりのうちに生きる楽園を追われ、世において生きるための様々な労苦を負う者となるのでありますけれども。
この当時のイスラエルの人々もまた、神に背き続けた結果といえる悲惨な状況の中で、「我々の望みはうせ、我々は滅びる」という失望感に囚われさいなまれていた。それはもはや未来を思い描くことのできない状態であります。
イザヤ書49章に次のような御言葉が記されております。
14節「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れた、と。」
「神さまは自分たち罪人をお見捨てになられた。神さまはは去って行かれたのだ。」そのような喪失感が人々の心を支配していたのです。その姿はあたかもエデンの園から追われた初めの人のようであります。
ここでそういう人たちを前に、エゼキエルがいくら「主の御言葉」を預言しても、萎えた人々の心にそれは届き難い現実があったのでしょう。
そこで主は、エゼキエルにお命じになります。
「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」
そうしたところが、10節「霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」というのです。主の霊によってしかばね同然のような者が、「生き返って、自分の足で立った。」その姿はとても主体的ですね。何ものかに依存するのでなく、力におもねるのでもなく、自分の足で立つ。神の霊が吹き入れられる人は、本当に生きる力を取り戻していくんですね。神さまとの関係の中で自ら決断し、行動していく力が取り戻されていくのです。その人はもはや神ではない世のものを神のように崇拝しません。世のあらゆる囚われから自由になり解放されていきます。生ける神さまとの交わりを回復した者は、どんな時にお感謝があり、何ものにも奪うことのできない喜びが溢れてきます。「主の霊のあるところには自由がある」と聖書にもあるとおりです。そのことを日常の中で体験するようになります。中にはどうしたらそのように生きられるのか、とお思いになる方もおられるかも知れませんが。それは先ほどから申しあげておりますように、神さまの霊が人のうちに吹き込まれることによって、神さまとの関係が回復されているならそのように生きることができるのです。

この主の霊によって新しいいのちに与っているクリスチャンにとりましても、日ごとに主の霊に満たして頂いて「主よ、あなたの御業を顕わしてください」と、主に期待をもて祈ることができる、それは何にも代えがたい大きな恵みではないでしょうか。そしてさらに、神の霊、聖霊によって創られた主のからだなる教会にあってこうして礼拝し、祈り合うことを通して、主は人知では計りがたい御業を顕わしてくださいます。個人的にはそのような証しがあり、又しょっちゅう伺いもするのですが。より多くの方と分かち合うことがまだできていないので、そういう証の機会がもっと増えるとよいなと願っているのですが。
そういうことで、私たちは共に「主よ、あなたの御業を求めます」と祈り求めていくことによって、主御自身がその栄光を顕わしてくださいます。主の御業を目の当たりに体験した人は、生ける神さまの証しが満ちあふれます。まさに今日の御言葉のように、「わたしが主であることを知るようになる」(6節、14節)のです。
先ほど読んだイザヤ書49章14節の「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れた」というイスラエルの民の失望感と嘆きの言葉に対して、主なる神さまは、その後の15節にこのようにお答えになっています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。」
これがわたしたちの主なる神さまなのです。
主は、わたしたちが世の罪の力に支配され、滅んでいく事を決して望んでおられません。たとえ私たちが見放され、忘れられたように考え、疲れ弱りはてて、自分が枯れた骨のように思えてしまうそんな時があったとしても、決して主はあきらめない。お見捨てにならない。「あなたと一緒に十字架のどん底までいってあなたを救う。」これが聖書の根底に流れる神の愛のメッセージであります。その愛の真実をお示しになるためにイエス・キリストはこの地上においでくださいました。今も変わることなく、すべての人びとが、そして今日ここにおられるおひとりお一人が神の霊によって新しく生まれるようにと、招いてくださっています。
聖霊は、私たち一人ひとりが日々新しくされ、自分の足で立ってあゆむ力を備えてくださいます。さらに、教会の交わりに聖霊の風を起こして下さり、ひとり一人を生かし、共にあって「主は生きておられる」との証しを立てさせてくださいます。この主の愛を受け取り、主の証に満ち溢れる、祈り合う主の群れへとさらに導かれてまいりましょう。
 
最後になりますが。先週礼拝に東熊本教会のNさんが出席され、ご本人より直接ご証しをお聞きすることができました。ロビーの週報ボックスの上に掲示してありますとおり、その被害の大きさたるや、教会の方々の悲鳴が聞こえてきそうでありましたが。Nさん曰く、「そういう礼拝堂の壁も無残に崩れ落ちる被害に遭う中で、全国のバプテスト連盟の諸教会、大阪教会からも震災支援の募金をお寄せ頂いたおかげで、礼拝堂の崩れ落ちた壁を修復できました」と、ご丁寧なお礼の言葉を頂きました。わたしはその言葉を伺いながら、逆にわたしの方が励ましをいただいた思いでした。実は数日前に南九州地方連合を窓口とした支援金によって熊本の3教会の修復が叶ったことで今月いっぱいでひとまず終了という報告を受け、わたし自身どこか一段落ついたというような思いがあったのです。けれどもNさんの報告をお聞きしながら、当事者と言いますか、実際に被災された方々にとりましては、電気が通り建物が修復されてきてはいますけれども、未だ骨に筋が生じ、肉付けされている段階であり、そこにはいのちの息吹が取り戻されいく事がどんなに待望されていることかと想像いたしました。それは又、先日の鳥取地震による被災者、東日本大震災と原発事故の被災者の方もそうでありましょう。わたしたちは大きな災害、そして被災者の現実を前にして何とも無力です。けれども今日のところに「カタカタと音をたて、その無力な骨と骨が近づいた」ように、私たちも近づき合って、主の御言葉に肉づけされた関わりを築いていきたいですね。全国の連盟、又関西地方の連合諸教会との繋がりを活かして時には出かけ、送り出す。そうやって主の御言葉が受肉していく中に、必ず神さまはいのちの息を吹き込んで下さいます。
「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらのものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」エゼキエルが命じられたように預言すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」アーメン。
私たちも生ける神さまの霊に満たされて、今週もここから遣わされてまいりましょう。
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