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神の激怒を招く偶像

2016-10-09 17:29:37 | メッセージ
礼拝宣教 エゼキエル書8章1-13節
     

前回までの預言者エリヤ、エリシャの北イスラエルにおけるエピソードから、本日より南ユダの預言者本日よりエゼキエルの書から御言葉に聞いていきます。
時はイエスさまがお生まれになる約600年前の紀元前6世紀、先に北イスラエルはアッシリア帝国によって滅び、南ユダもバビロン王国によって滅ぼされることとなります。エゼキエルは捕囚としてバビロンに連れて行かれた人々に向かって神の言葉を伝えた預言者であり、預言者エレミヤとほぼ同時代の預言者でした。彼はエレミヤより少し後の預言者になるのですが。エレミヤはユダ王国の滅亡までの時代、ユダの民が神に立ち返らなければ滅びると訴え続けたのですが、エゼキエルはユダが滅んでしまった後の時代、なおも神に立ち返ることのないユダの民に対して、神の審きを訴え続けた預言者でした。同時に囚われの異教の地において、望みを持つことのできないエルサレムのユダの民に対して、なおそこに神の回復と救いの御業が起こる、そのような神の御計画と希望とを伝えたのであります。
エゼキエルという名前には、「神が強くする」という意味があります。それはまさに彼の預言者としての使命は、厳しい現実の中にあるユダの民が、やがて訪れるであろう神の大いなる御業を仰ぎ見、暗黒のような状況下においても「神が強くしてくださる」、そのことのために彼は用いられたということであります。

本日は8章3節「激怒を起こさせる像」5節「激怒を招く像」という2度に亘って語られた言葉から、「神の激怒を招く偶像」と題をつけました。
この題を先週の水曜日から、Yさんが和紙に書いて下さったものを、教会の看板に貼っております。いわゆる仏像等の多いこの天王寺界隈の寺院や仏閣にお参りに行かれる方々も教会の看板をご覧になられているかと思いますが。何か当てつけ、非難してという意味でありません。
先々週のことですが。教会のお隣のKさんのお母様がご逝去されたとのお知らせを聞き、お通夜に出席してまいりました。宗教は仏教(浄土宗)でしたので、お坊さんの読経のもと仏式で行なわれました。私たち家族は、故人のこれまでのお交わりの感謝を込め、残されたご長男さんはじめご遺族の上に深い慰めとお支えを願いつつ、参列させて頂きました。その時のお坊さんが何と、「大阪9条の会平和ネット」の事務局長さんで、世間はせまい、と思ったことですが。
このお坊さんが短いお奨めの中でおおよそ、このようなことをおっしゃっていました。「故人の魂はもうここには居らず、やすらぎの場へと移されたのだから、故人は自分のことよりもむしろ今地上にいるご家族や私たちのことを気遣っておられる。地上にいる
私たちがどのように生きてゆくかが大事」と。まあ、宗教は違いましても、たいへん共感いたしました。
霊は石や木で刻んだものの中にとどまるものではありません。ましてや木も石もすべて被造物は神さまがお造りになったのですから、どんな立派な建物や国宝といわれるような像の中にも、神さまをお納めすることはできません。真の神はどこにでも自由にお働きになられる生けるお方であられるのです。

さて、冒頭申しましたようにユダ王国とエルサレム陥落により、ユダの指導者たちや知識人や技術者、また祭司や預言者たちはバビロンの捕囚として連行されます。エゼキエルもその一人でした。その一方いわゆる一般の庶民らの多くはエルサレムに残されるのです。
最初のバビロンの捕囚から6年目の年、バビロンの地にいたエゼキエルが捕囚とされていたユダの長老たちと自分の家で集まりをしていた時のことです。エゼキエルの上に、「主なる神の御手が下り、髪の毛の房をつかまれ、天と地の間に引き上げられ、現在のエルサレムの神殿の様子を見せられたのです。それは、バビロン捕囚に連行されず、エルサレムに残った長老をはじめ人々が、「神の激怒を招く偶像」を作り、偶像礼拝を行なっている異様な光景でありました。
さらに、主のおっしゃるままに庭の入り口の壁穴ごしに中をのぞきこんで、入って見ると。周りの壁一面に、あらゆる地を這う者と獣の憎むべき像(神ならざるものを神として祀った像)やあらゆる偶像が彫り込まれています。そこにはイスラエルの長老70人がおり、その中心にシャファンの子ヤアザンヤが立っていた、とあります。この人物は、かつてヨシヤ王が宗教改革をもってイスラエルからあらゆる偶像を一掃したときの、優れた書記官シャハテの息子であったのです。父親とは全く逆にその息子は偶像をエルサレム神殿に増殖させ、神の激怒を招く偶像礼拝の指揮をとっていたのです。
今日は14節以降お読みしませんでしたが、そこでは数々の偶像礼拝が具体的に記されています。民は主の神殿を背にしていたとありますが。これは神を捨てる背信行為を表します。彼らは顔を東に向け、神でなく太陽を崇拝していたとあります。
バビロンの捕囚からわずか6年。エルサレムに残ったユダの人々は、悔い改め、神に立ち返るどころか偶像礼拝に明け暮れる日々を過ごし、神の激怒を招いていたのです。ここには彼らがなぜそのように神ならざるものを拝むようになってしまったか、その言い分が次のように記されています。
12節「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられたと言っている」。
そもそもユダとエルサレムの滅亡は再三に亘る神の戒めと警告に耳をかさず、罪から離れることなく不義を行なってきた民に対する審きでありました。それは打たれた民が自ら悔い改め、おのが神である主に立ち返って生きるためであったのです。しかし民は目の前の状況や不安から、目に見える形での安心材料、安易な拠所としての偶像を造り、それを拝したのです。この事について祈祷会の時、ある方がその体験をお話して下さいました。「かつてこの教会で役員も務め働きをなさっていた人が、教会に来なくなった。ある日テレビを観ていると、山の上で偶像に一心不乱に向かい崇拝しているその人を見た。前の通りでお会いして、尋ねることはとてもできなかったが、テレビの人物はその人に間違いなかった。何が彼をそのように走らせたのか。大変ショックだった」。誠に残念な事例でありますが。
 ここでユダの人々は、「主は我々を御覧にならない。主はこの地を捨てられた」と言っているわけですが。しかしここの8章4節を見ますと何と書かれているでしょうか。
「イスラエルの神の栄光があった」。今だエルサレムに神の栄光が「あった」とちゃんと記されているんですね。現状に失望したエルサレムの人々には、このイスラエルの神の栄光が見えていなかったのですね。ここから、私たちも目に見える状況に左右されることなく、主はともにおられるというインマヌエルの約束を忘れない者でありたいと願います。
 ところで、このイスラエルの民から見た神の栄光とは、イスラエルの民を宝の民として愛してやまない、ということ一つであります。神が民の偶像礼拝に「激怒した」と新共同訳で訳されている言葉を、口語訳では「ねたみ」と訳されています。それは、神のイスラエルの民に対する熱情を表しています。十戒のところに語られる「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」。この熱情の神というのも「ねたむ神」と以前は原意に近く訳されていました。それほどまでに神は主の民を愛してやまないお方であるということです。みなさんお一人おひとりもそうです。主はねたむほどに愛しておられるんですね。だから前の6章などでは、偶像礼拝を姦淫だとまでおっしゃっています。それほど主はご自分の民一人ひとりを愛しておられるということです。
エルサレムに残ったユダの民が「主は自分たちを御覧にならない。主はこの地を捨てられた」などと言って、偶像礼拝に走る。これこそ主の御心をどれだけ悲しませ、傷つけてることでしょうか。信頼関係を裏切られた時私たちは言い尽くしがたい悲しみと怒りを感じるでしょう。「ねたむほどまで愛しておられる」。それは私たちにとって十字架にかかり血を流し、肉を裂かれて、そうしてまでわたしを救ってくださったその愛であります。その主の愛を忘れ神ならざるものにより頼んで崇拝し、主にねたみを起こさせ悲しませることのないよう、日々主への感謝と信頼をもって生涯をあゆみ通したいものです。

最後に、先日のニュースに類人猿が他者の思考を推し量ることができる、まあそういう能力があるのではないかという研究発表がなされたそうですが。その同じ京大の霊長類研究所らが2014年に発表した人間と人間に近いとされるチンパンジーの大きな違いについて、わたしは9月久山療育園の全国支援者会議の席で伺い驚きました。チンパンジーと人間その一番の違いなんだと思われますか。それは「想像力」だそうです。実験リポートではチンパンジー6頭と人間のこども(1歳~3歳57人)を対象に絵を描く能力を比較したところ、チンパンジーにも人間同様に線をなぞる能力などが一定にあるが、「想像して書く力」はないことがわかったそうです。人間は輪郭をなぞるだけでなく、2歳後半になると「おめめ、ない」などと言って「ない」部分を補って書くことができたそうです。チンパンジーは、かけた部分を補うことは一頭もできなかったそうです。想像する力は人間に与えられた特異な能力といえる、ということですね。
そのようなことを聞いて思いましたのは、それは、実は天地万物をお造りになり、私たち人類をお造りになられた神さまの恵みであるのでしょう。創世記に神は御自身の似姿として「人」を創られたとございます。この神の似姿こそ、自分と異なる存在、他者の思いを想像し、大切にすることが出来る。それは単に思慮を推し量るだけではなく愛すること、それこそが神の似姿といえるのではないでしょうか。まあ近年愛をもたらす想像力が逆に退化していく人間の有様に、新しい研究として「サル化していく人間」というのもなされているそうですが。寂しい限りですけれども。ほんとうにそうならないように、私たちは罪を繰り返してしまう弱い存在であることを自覚して、たえず神に立ち返り、罪を悔い改めて神の愛を知るという、最も尊い想像力を頂いていく必要がございます。
 私たち一人ひとりの魂をねたむほどに愛して下さる熱情の神さまとその救いの御業を決して忘れることがないように、日々を歩んでまいりたいと願います。祈ります。
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