礼拝宣教 エゼキエル33:1-11
「神のパッション」
本日はエゼキエル書33章から、「立ち帰って生きる喜び」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。新約聖書ヨハネ3章16節の御言葉にこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」私たちが「一人も滅びないで、永遠の命を受ける。」そのために神は独り子なるイエスさまをお与え下さったというこの御言葉は、聖書全体を凝縮した神さまからの愛のメッセージであるともいわれていますが。
本日の箇所の前半では、主なる神さまが民を見守る見張り番についてお語りになっていますけれども。民を見守るよう任命された見張りは、「剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任はこれ自身にある。しかし、見張りが、剣を臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。」
ここの「一人の命でも奪われるなら」とおっしゃる神さまの民に対する熱情・パッションは、先ほどのヨハネ福音書3章の「一人も滅びないで」という主のあの言葉とも相通じる神さまの愛であります。それは11節に語られるように、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。口語訳では「わたしは誰の死をも喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。まさに、主は、悪人がその道から立ち帰って生きることを、何よりも「喜ぶ」とおっしゃっているのです。滅びるばかりの罪の中に抜け殻のように生きていた私たちが、「神に立ち帰って生きる。」それは私たちの喜びであり、同時に父なる神さまの喜びであるのです。
「預言者の責務」
さて、このエゼキエに臨んだ主の言葉は、エゼキエルを「見張りとする」という召しでした。預言者(原語:ローマ-)には元々「見る者」という意味があります。主なる神はエゼキエルにこれから先のことを見通し得る者、人々に警告を発し、悪人に対しては悪の道から離れて主に立ち帰るよう毅然と語るべき者としての務めを与えられたのでした。主はその務めについて、先ほどの見張りのたとえで語られます。
主はエゼキエル自身に対して、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに語らねばならない。わたし(神)が悪人に向かって、『悪人よ、お前は死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」
その責務は大変重たいものであります。しかし裏を返せばそれほどまでに主はその民を愛してやまず、彼らが滅びることがないよう切に願っておられるということです。
それゆえに預言者エゼキエルに対してこのように厳命しておられるということですね。
先週お話しましたように、ユダの崩壊とバビロン捕囚後のエルサレムに残こされたユダの人々は、自分たちの罪を悔い改めるどころか、神は自分たちを見捨てたと神さま
のせいにして、異教の偶像を拝むようになっていました。又、神への畏れを無くしたユダの社会には不正や不義、搾取が起こり、貧富の格差が増し、あらゆる悪がはびこっていたのです。
そういう中バビロンにいたエゼキエルに託された課題はとてつもなく大きなものであったと思うのですけれども。ただここを読んで気づかされますのは、彼が国家とか、
権力というものに対して何か働きかけるように召されたのではなく、むしろ荒廃した、このままにしておけば罪に滅ぶほかないユダの民のひとり一人を見張り、忍耐強く語りかけるように召されたのだということです。それは単なる評論や非難としてではなく、ほんとうに彼らが立ち帰って生きるために、悪人に対しては悪によって滅ぶことがないよう悪の道から立ち帰ってほんとうの命を得るために、見守り、警告を発し、とりなしていくのです。エゼキエルはまさにそのために召命を受けたのであります。それはほんとうに至難の業であったと思えますが。神さまは、一人の人が救われる、立ち帰って生きる者とされることが、すなわちイスラエルの救いになると願われたのですね。
今主によって招かれている私たちも同様に、まずひとり一人がそれぞれに立ち帰って生きる者とされている。その道が守られている。それが主の教会全体の祝福となっているということであります。主の御恵みによって救いに与った私たちも又、エゼキエルのように見守る者として召され、さらに神さまが創造されたこの世界を見守り、見張り番として召されていることを覚えたいと思います。
確かに私たちはエゼキエルのような預言者ではありませんが。主なる神さまの御救いに導かれて、罪赦され、あがなわれ、新生に与った者なのであります。ローマの信徒への手紙8章28節には、わたしたちひとり一人は「神さまのご計画に従って召されている」とありますように、それぞれにオリジナルな主から託されている務めがあるということであります。
又、新約聖書テモテ第二の手紙4章2節に「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」と語られておりますが。このエゼキエルの時代同様、私たちも又、「神はもういない」「主の道は正しくない」と人々が言うような時代を生きています。不正や不義が横行し、拝金主義が当然のようにまかり通るこの世界、社会の中で、バビロンにおけるエゼキエルがそうであったように、私たちも神のことばを伝えることの困難を覚えることが多々あるのではないでしょうか。しかしそういう現実の中で、御言葉を伝え、証するというチャレンジが、新生に与った私たちひとり一人には与えられているのではないでしょうか。
丁度一昨日14日でYさんが闘病中の病床で「主イエスを救い主として信じることにしました」と信仰告白をされ、洗礼を受けられて新生クリスチャンとなられて1年が経ちました。彼はそれから奇跡の9日間を過ごして天国に旅立っていかれたのですが。お別れは残された奥様をはじめ私たち大阪教会の友にとりまして確かに寂しいものでございましたが。彼がご自分の創造主であり、救い主のもとへ立ち帰って新しい命に与ったということは何にも代えがたい喜びでありました。やがて私たちも天において新しい朝を迎えるその日には、主イエスの御もとにあって再びお会いできることでありましょう。
何度かお話しましたように、私は彼が闘病中であった時は、主の御救いについて正面から彼と向き合ってお話をすることの難しさを覚えていました。けれど土壇場にきて、ご本人が信じるか信じないか、受け入れるか否かはご本人が決めることであり、まずは
わたしには主イエスの福音を語る務めがある。牧師ですから当然といえばそうなのですが。この時改めてそう意を決し闘病の床にある彼にお尋ねしました。こうして彼は、「主イエスを信じることにいたしました」とはっきりと、信仰決心を口にされたんですね。この出来事はわたしにとって決して忘れることのできいない神さまからのプレゼントであったとほんとうに想いますけれども。しかしこのように一人の人が罪と死に滅びることなく、主の御救いに与り、神に立ち帰って生きるために務めるのは、何も牧師だけに託されたことではございません。先ほど申しましたように、みなさまおひとりお一人が今日の箇所の見守りの手として、神さまの御計画によって召されています。
「滅びの道に行ってはならない、立ち帰って生きよ。」神さまのその熱い愛のメッセージを伝え、証しする者でありたいです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても」という御言葉のチャレンジに、応え、用いて頂けるように祈り、備えたいと思います。
「立ち帰って生きる喜び」
さて最後に、今日の箇所で最も大切な受け取るべきメッセージは何でしょうか。
それは、「主は悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」とおっしゃるそのお言葉です。
それは主イエスがマタイ9章13節で、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃったそのことなんですね。イエスさまの周りには、実にそのような貧しさや病のために世間から取り残されたように生きざるを得なかった人、又、罪に囚われ負い目や劣等感を覚えていた人たちが集まってきたのです。
しかし当時の律法を遵守していたユダヤ教徒や律法の専門家たちの中には、そんなイエスさまを罪人の頭だと言って蔑み見下し、憎悪と嫉妬を覚え、排斥しようとした人たちがいたのですね。ほんとうに立ち帰らなければならなかったのは、自分たちには罪はないと神と人の前に自らを正当化し、イエスさまによる神の救いを認めようとしない彼らであったのです。彼らはその高慢のために神さまの慈愛に満ちた呼びかけが、もはや聞こえなくなっていました。これはクリスチャンであってもややともすると、自分が主イエスによって罪贖われ、赦されている尊い恵みを忘れ、救いの感謝が色あせてしまうと、
人を裁いたり、偏見をもち、優劣をつけてしまう恐ろしい過ちを犯してしまうかも知れません。主に立ち帰って生きることが、やはり絶えず必要なのです。主といつも生きた交信をしてつながり続けるということですが。これは一人でできるわけではありません。教会につながり、聖霊のとりなしのもと、週ごとにさらには日々新たに「立ち帰って生きる」者とされ、そうして御言葉を伝え、証しすべく遣わされていくのです。
「立ち帰って生きよ。」今日の主の熱いこのメッセージに真の平安と喜びがあります。今週もその主の御言葉を受け、応えるべくここから遣わされてまいりましょう。
祈りましょう。
「神のパッション」
本日はエゼキエル書33章から、「立ち帰って生きる喜び」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。新約聖書ヨハネ3章16節の御言葉にこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」私たちが「一人も滅びないで、永遠の命を受ける。」そのために神は独り子なるイエスさまをお与え下さったというこの御言葉は、聖書全体を凝縮した神さまからの愛のメッセージであるともいわれていますが。
本日の箇所の前半では、主なる神さまが民を見守る見張り番についてお語りになっていますけれども。民を見守るよう任命された見張りは、「剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任はこれ自身にある。しかし、見張りが、剣を臨むのを見ながら、角笛を吹かず、民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、血の責任をわたしは見張りの手に求める。」
ここの「一人の命でも奪われるなら」とおっしゃる神さまの民に対する熱情・パッションは、先ほどのヨハネ福音書3章の「一人も滅びないで」という主のあの言葉とも相通じる神さまの愛であります。それは11節に語られるように、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。口語訳では「わたしは誰の死をも喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。まさに、主は、悪人がその道から立ち帰って生きることを、何よりも「喜ぶ」とおっしゃっているのです。滅びるばかりの罪の中に抜け殻のように生きていた私たちが、「神に立ち帰って生きる。」それは私たちの喜びであり、同時に父なる神さまの喜びであるのです。
「預言者の責務」
さて、このエゼキエに臨んだ主の言葉は、エゼキエルを「見張りとする」という召しでした。預言者(原語:ローマ-)には元々「見る者」という意味があります。主なる神はエゼキエルにこれから先のことを見通し得る者、人々に警告を発し、悪人に対しては悪の道から離れて主に立ち帰るよう毅然と語るべき者としての務めを与えられたのでした。主はその務めについて、先ほどの見張りのたとえで語られます。
主はエゼキエル自身に対して、「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに語らねばならない。わたし(神)が悪人に向かって、『悪人よ、お前は死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」
その責務は大変重たいものであります。しかし裏を返せばそれほどまでに主はその民を愛してやまず、彼らが滅びることがないよう切に願っておられるということです。
それゆえに預言者エゼキエルに対してこのように厳命しておられるということですね。
先週お話しましたように、ユダの崩壊とバビロン捕囚後のエルサレムに残こされたユダの人々は、自分たちの罪を悔い改めるどころか、神は自分たちを見捨てたと神さま
のせいにして、異教の偶像を拝むようになっていました。又、神への畏れを無くしたユダの社会には不正や不義、搾取が起こり、貧富の格差が増し、あらゆる悪がはびこっていたのです。
そういう中バビロンにいたエゼキエルに託された課題はとてつもなく大きなものであったと思うのですけれども。ただここを読んで気づかされますのは、彼が国家とか、
権力というものに対して何か働きかけるように召されたのではなく、むしろ荒廃した、このままにしておけば罪に滅ぶほかないユダの民のひとり一人を見張り、忍耐強く語りかけるように召されたのだということです。それは単なる評論や非難としてではなく、ほんとうに彼らが立ち帰って生きるために、悪人に対しては悪によって滅ぶことがないよう悪の道から立ち帰ってほんとうの命を得るために、見守り、警告を発し、とりなしていくのです。エゼキエルはまさにそのために召命を受けたのであります。それはほんとうに至難の業であったと思えますが。神さまは、一人の人が救われる、立ち帰って生きる者とされることが、すなわちイスラエルの救いになると願われたのですね。
今主によって招かれている私たちも同様に、まずひとり一人がそれぞれに立ち帰って生きる者とされている。その道が守られている。それが主の教会全体の祝福となっているということであります。主の御恵みによって救いに与った私たちも又、エゼキエルのように見守る者として召され、さらに神さまが創造されたこの世界を見守り、見張り番として召されていることを覚えたいと思います。
確かに私たちはエゼキエルのような預言者ではありませんが。主なる神さまの御救いに導かれて、罪赦され、あがなわれ、新生に与った者なのであります。ローマの信徒への手紙8章28節には、わたしたちひとり一人は「神さまのご計画に従って召されている」とありますように、それぞれにオリジナルな主から託されている務めがあるということであります。
又、新約聖書テモテ第二の手紙4章2節に「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」と語られておりますが。このエゼキエルの時代同様、私たちも又、「神はもういない」「主の道は正しくない」と人々が言うような時代を生きています。不正や不義が横行し、拝金主義が当然のようにまかり通るこの世界、社会の中で、バビロンにおけるエゼキエルがそうであったように、私たちも神のことばを伝えることの困難を覚えることが多々あるのではないでしょうか。しかしそういう現実の中で、御言葉を伝え、証するというチャレンジが、新生に与った私たちひとり一人には与えられているのではないでしょうか。
丁度一昨日14日でYさんが闘病中の病床で「主イエスを救い主として信じることにしました」と信仰告白をされ、洗礼を受けられて新生クリスチャンとなられて1年が経ちました。彼はそれから奇跡の9日間を過ごして天国に旅立っていかれたのですが。お別れは残された奥様をはじめ私たち大阪教会の友にとりまして確かに寂しいものでございましたが。彼がご自分の創造主であり、救い主のもとへ立ち帰って新しい命に与ったということは何にも代えがたい喜びでありました。やがて私たちも天において新しい朝を迎えるその日には、主イエスの御もとにあって再びお会いできることでありましょう。
何度かお話しましたように、私は彼が闘病中であった時は、主の御救いについて正面から彼と向き合ってお話をすることの難しさを覚えていました。けれど土壇場にきて、ご本人が信じるか信じないか、受け入れるか否かはご本人が決めることであり、まずは
わたしには主イエスの福音を語る務めがある。牧師ですから当然といえばそうなのですが。この時改めてそう意を決し闘病の床にある彼にお尋ねしました。こうして彼は、「主イエスを信じることにいたしました」とはっきりと、信仰決心を口にされたんですね。この出来事はわたしにとって決して忘れることのできいない神さまからのプレゼントであったとほんとうに想いますけれども。しかしこのように一人の人が罪と死に滅びることなく、主の御救いに与り、神に立ち帰って生きるために務めるのは、何も牧師だけに託されたことではございません。先ほど申しましたように、みなさまおひとりお一人が今日の箇所の見守りの手として、神さまの御計画によって召されています。
「滅びの道に行ってはならない、立ち帰って生きよ。」神さまのその熱い愛のメッセージを伝え、証しする者でありたいです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても」という御言葉のチャレンジに、応え、用いて頂けるように祈り、備えたいと思います。
「立ち帰って生きる喜び」
さて最後に、今日の箇所で最も大切な受け取るべきメッセージは何でしょうか。
それは、「主は悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」とおっしゃるそのお言葉です。
それは主イエスがマタイ9章13節で、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃったそのことなんですね。イエスさまの周りには、実にそのような貧しさや病のために世間から取り残されたように生きざるを得なかった人、又、罪に囚われ負い目や劣等感を覚えていた人たちが集まってきたのです。
しかし当時の律法を遵守していたユダヤ教徒や律法の専門家たちの中には、そんなイエスさまを罪人の頭だと言って蔑み見下し、憎悪と嫉妬を覚え、排斥しようとした人たちがいたのですね。ほんとうに立ち帰らなければならなかったのは、自分たちには罪はないと神と人の前に自らを正当化し、イエスさまによる神の救いを認めようとしない彼らであったのです。彼らはその高慢のために神さまの慈愛に満ちた呼びかけが、もはや聞こえなくなっていました。これはクリスチャンであってもややともすると、自分が主イエスによって罪贖われ、赦されている尊い恵みを忘れ、救いの感謝が色あせてしまうと、
人を裁いたり、偏見をもち、優劣をつけてしまう恐ろしい過ちを犯してしまうかも知れません。主に立ち帰って生きることが、やはり絶えず必要なのです。主といつも生きた交信をしてつながり続けるということですが。これは一人でできるわけではありません。教会につながり、聖霊のとりなしのもと、週ごとにさらには日々新たに「立ち帰って生きる」者とされ、そうして御言葉を伝え、証しすべく遣わされていくのです。
「立ち帰って生きよ。」今日の主の熱いこのメッセージに真の平安と喜びがあります。今週もその主の御言葉を受け、応えるべくここから遣わされてまいりましょう。
祈りましょう。