日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

来たるべき方は、あなたですか

2017-02-06 09:28:37 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ11・2-19

洗礼者ヨハネは3章に記されているように、ユダヤの荒れ野において「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣言しました。そして彼のもとにぞくぞくと集まって来て、罪を告白する人々に「悔い改めに導くバプテスマ」を施していました。
ヨハネは「自分の後に来られるお方こそ、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語っていました。
ヨハネはその後、領主ヘロデの兄弟と妻の結婚が律法で許されていないことや、ヘロデ自身に行なったあらゆる悪事について、率直に神の前によろしくないと、苦言を呈したため、捕えられ投獄されてしまいます。
そういう中、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」とあります。ここにわざわざイエスでなく「キリスト」(救世主)と記されています。それはヨハネがイエスさまこそ来たるべき救い主として大きな期待をもっていたことを表しています。ヨハネは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えるまで火で焼き払われる」とかつて言っているように、この世の義人と悪人とを選り分け、正しい裁きを行なって世を正される。そういった政治力をもった王であると、考えていたのです。
ところが自分が牢の中でその「キリスト」のなさったことを聞くと、そのようなイメージとは何ともほど遠いのですね。正面切って政治批判するわけでもないし、民衆を奮い立たせて革命を起す気配もない。伝わってくるのは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え続けておられることや、罪人と呼ばれる人と飲み食いしているらしいとの噂。ヨハネにとっては、病人のいやしなどの多くのしるしを行ったところで、政治権力のもとから神の民を解放することができないなら何になるか。現代的にいえば社会が変えられないなら一人ひとりも救われないじゃないか、というような焦りやじれったさがあったのではないでしょうか。
そこで、ヨハネは自分の弟子たちを(イエスさまのもとに)送って、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたのです。
 さて、そうしますとイエスさまは、ヨハネのお弟子さんたちに「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」とお答えになります。ここで肝心なのは「あなたたちが実際見聞きしていること」をヨハネに告げなさいと、言われていることです。人の噂ではなくて、あなたがたが実際に目で見て、耳で聞いて体験したことをヨハネに伝えなさい。「自分の体験をあかししなさい」いうことです。

主イエスは言われます。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
聖書はその後、ヨハネの弟子達がどうなったかについては何も記されていないのでわかりません。しかし、イエスさまはここで、人や噂ではなく、「あなた」が見聞きした体験を伝えること、あかしすることが大事だとお語りになっていることを心に留めたいと思うのです。

先ほど招きの言葉でイザヤ書29章18節19節の「その日には、耳の聞こえない者が書物に書かれている言葉すら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い。貧しい人々は、イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る」という主の到来によってもたらされる回復の預言が読まれました。
そはまさに主イエスによって事実となるのです。イエスさまはヨハネの弟子達に対して、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語られますが。この回復の預言をして主イエスによってもたらされた恵みの事実に与って生きるようにと、招かれるのです。

話は変わりますが、先週、大阪キリスト教連合と大阪南YMCA共催のキリスト教オープンセミナー、テーマ「共に生きる」~熊本地震の体験を通して~と題し、大阪南YMCAを会場に講演会が開催されましたので、聴講させて頂きました。講師の神田牧師は、22年前の阪神淡路大震災に中学2年の時に遭われ、その後28歳の時にお母様の死という大変辛い経験をされた後、牧師となる献身に導かれ関西学院大学神学部を卒業されて、2014年から熊本の日本基督教団武蔵ヶ丘教会の牧師として赴任されて、昨年4月の熊本地震に遭われたという方です。
4月16日未明の震度7の本震が起った時のことについて、神田牧師は「2階の牧師館で寝ていましたが、20分ほどの猛烈な揺れが続き、あまりの恐怖で死を覚悟し、父親に連絡したほどです。幸い、身近では人的被害が少なくて済みましたが、被災者としての苦労は阪神・淡路と変わりません。精神的ダメージは熊本地震の方が大きいと思います」と述べておられます。
そうして御教会が日本基督教団九州教区の震災対策本部となって様々なお働きをされ、その体験談を伺うことができましたが。その本震の後も豪雨、雨漏りとたたみかけるように起っていく中で、「心が折れる」とおっしゃっていました。地震から9ヶ月たっても未だに「闘っている」と、その思いを吐露されましたが。
そのご講演の後で質疑応答が行なわれたのですが、その一コマが私は心に焼きつきました。それはある方が「被災者の支援はもっと政治家の活動が必要じゃないでしょうか」という質問をされたんですけれど。それに対して神田牧師は丁寧にお答えになって、「私たちの活動は政治力ではなく、政治の力さえ及ばない、そういうところからも漏れている人たちに寄り添う、そこに教会にしかできないことがあるのではないでしょうか」とおっしゃったんですね。
この日は、水曜祈祷会が午前中あり、この聖書の箇所を共に読み分かち合った後、このご講演に臨んだのですが。まさに今日のこの箇所が語りかけている、主イエスさまのお働きと大切にされている思い、神の慈愛というものが心に迫ってまいりました。

聖書に戻りますが。
イエスさまは、ヨハネの弟子達が帰った後、群衆にヨハネについて話し始められます。
「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。・・・(そして強調して)はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネよりも偉大な者は現れなかった」。
イエスさまはここで、時代や風潮に移り変わるヒーロー的なスター、権力をもった指導者、宗教的指導者を崇め、仰ぐために荒れ野に行ったのかと群衆に問いかけておられるんですね。いや、そうではないだろう。権力者や指導者に対してもまっすぐに「悔い改めよ。天の国は近づいた」と勧告するバプテスマのヨハネのもとに行ったのではないか。彼は正に預言者以上の者で、人間の世に於いて彼より偉大な者は現れなかった、とイエスさまは絶賛します。ヨハネこそ律法による義に生きる者として最高の人であったということです。
イエスさまは「しかし、天の国で最も小さい者でも、彼より偉大である」と語られます。この「天の国で最も小さい者」とは一体どういう存在でしょうか。それは天使のような存在を指しているのではなく、天の国が到来したという恵みのうちに生きる者を指しているんですね。私たち主を信じ救いに与る者もそうであります。しかしそれは何も、私たちが偉大だという事ではなく、繰り返しますが、主イエスによってもたらされた神の義と救いの恵みこそが偉大なのであり、私たちはその尊い恵みに与る存在であるという事であります。実はそこに主イエスさまが救い主として来られた真理があるのです。
イエスさまは世にあって小さくされた者、弱くされた者、病いをもつ者、罪人とされた者と交流され、食事をなさいました。それは何か上から目線、してあげるということではなく、それこそ共に生きる者、寄り添う者としておいでになられたのです。それら一人ひとりが心から救いを願ってやまないことをご存じであられるお方です。本当に救われた喜びをもつ人は、その喜びと感謝をもって生きるでしょう。天の国は近づいたとの恵みの中に歩み出すでしょう。イエスさまはその救いをして「信仰によって生きる人は、ヨハネに優る義に生きている」とおっしゃっているのです。

最後に、イエスさまは「耳のある者は聞きなさい」とおっしゃいます。
そして、当時のユダヤの社会や時代の人々を、市場(広場ではない)に集まっているこどもたちの結婚式ごっこや葬儀ごっこといった遊びのたとえをなさいます。ところ変われば、ユダヤではそういうごっこ遊びをしていたようですが。いわばこれは、わらべ唄ですよね。
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」。自分たちが一緒にごっこ遊びをやろうと呼びかけたのに、誰ものってこない。他のこどもたちは無関心で、ただ傍観者のようにしている態度に、ちょっと悔しがりながら、又残念な気持ちを歌ったのかも知れません。
そんなふうに「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子(主イエス)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。そうです。律法の義にまっすぐに生きた「ヨハネ」にも、又、福音をもたらし実現された「主イエス」にも、人々は冷淡で無関心であると、たとえを通し嘆かれているのです。

人々の無関心や冷淡さは確かに存在します。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」と主イエスは語られます。
 
ヨハネは、主イエスに「来たるべきお方は、あなたですか」と尋ねましたが。それはキリスト、救世主(メシア)である王はあなたですか、との問いでありました。世を正し、権威をもって統治されるお方には変わりありません。けれどもゼカリヤ書4章6節に「武力によらず、権力によらず、能力によらず、ただわが霊によって」ともあるとおり、主はそのように神の国を到来を成し遂げるお方なのです。
このマタイ福音書は、イエスさまがお生まれになるに際し、「その名はインマヌエル」:「神が我々と共におられる」という意味であると、伝えます。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
主イエスは私たちの日常の中に、そのひきこもごも、喜びも悲しみのときも共にいてくださるお方として今日もおいでになる。ここに私たちの救いがあります。祈ります。
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