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神の業に対する冒涜

2017-02-12 14:38:38 | メッセージ
礼拝宣教 マタイ12・22-32

昨日はこの教会を会場に「2・11信教の自由を守る日」を覚えての関西地方連合社会委員会主催の集会がもたれました。こうして自由に集い主の福音に触れ、賛美ができるということがどんなに幸いなことか。映画の「沈黙(サイレンス)」も観に行きましたが。神の救いの業はどこまでも人を生かす力として働かれる。世には体制や勢力、イデオロギーによって個々人のいのちが軽んじられていく力が働き、時に神の救いの業を冒涜するようなことが起るのです。今日は2000年前の、そのような今に通じるお話であります。

まず、この出来事の前の箇所には、イエスさまの弟子たちが安息日に働いてはならないのに麦の穂を摘んでそれを食べ、ファリサイ派の人たちと問答になったエピソード。
さらに安息日にイエスさまが「手の萎えた人をいやす」エピソードが記されております。ファリサイ派の人々はその出来事を機に、「どのようにイエスを殺そうかと相談した」とあります。その一方、「大勢の群衆がイエスに従った」ともあります。ここに神の救いを切に求め、体験し、喜び迎える動きと、それを拒み、イエスさまを抹殺しようとする動きが起っていったことがわかります。

そういう中で今日のところでは、一人の悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエスさまのもとへ連れられてきて、イエスさまがいやされると、その人は、ものが言え、目が見えるようになります。
すると、群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったとあります。ダビデの子とは、来たるべきメシヤ、救世主、油注がれた王ということで、群衆はイエスさまこそ自分たちをローマの圧政から解放し、イスラエルを回復してくださる方ではないか、と期待したんですね。まあイエスさま御自身はそういう群衆に対して16節にあるように「自分のことはいいふらさないように」と、御自分がまつりあげられることをこばまれたのです。
それは18節以降の預言者イザヤの言葉を引用され、「神の霊の働きこそ心に留めるように」と促されるのであります。そしてイエスさまのうちに働いておられた「神の霊の業」は、20節にあるように「神の義であり、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」そのような神の救いの業であり、異邦人、つまり全世界すべての人にもたらされる主の救いの福音であります。
まあそのようなイエスさまを群衆は皆歓迎したのでありますが。この出来事を聞いたファリサイ派の人々の態度は、そんな群衆とはまったく対照的でした。
彼らは、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。すなわちイエスのなしたその行為は、「悪霊の力」によるものだ、と難癖をつけたというんですね。

彼らファリサイ派の人々にとっては、安息日に弟子たちが空腹のあまり麦の穂を摘んで食べたことに関するイエスさまの対応、また安息日に手の萎えた人をいやしたイエスさまの行為は、律法の安息日規定に違反するものであり断じて許されるものではなく、神に従う者が戒めをないがしろにするなどあり得ないと考えたのです。
ファリサイというのは「分離された者」という意味です。彼らは世俗から自分たちを分離し、律法を厳格に守り行なうことで神の前に聖別された者になろうと決心した人たちです。その志は熱心で立派であるかもしれません。しかし自らの義、正しさを「律法厳守」という自分の行いによって達成しようとしたとき、彼らは高慢になっていきました。神の側からの救いが訪れたのに、それを拒絶するという高慢です。
麦の穂を摘んで食べた弟子たちに軽蔑の視線を向ける彼らに、イエスさまは「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪のない人たちをとがめなかたであろう」とおっしゃいました。又、手に障がいを負っている人の痛みも思わないで、イエスさまを訴える口実に利用しようとする彼らに、イエスさまは「穴に落ちた羊より遙かに大切なその人の救いを示さた」のです。
それでもう逆恨みといいましょうか、逆ギレというんでしょうか、彼らはその高慢によってイエスさまのことが目の上のこぶのようのように邪魔な存在となり、「どうやって殺そうかと相談した」というのです。

さて、話を本日の箇所に戻しますが。
この当時ユダヤでは、異邦人を中心に、怪しげな呪術が横行していたという背景もあったようです。ユダヤのファリサイ派の人たちから見れば、イエスもうさんくさい呪術魔術で群衆を惑わすやからのように映ったのでしょうか。とにかく群衆がイエスさまを「ダビデの子、メシヤではないだろうか」といったことが、もう彼らには許されないんですよね。イエスをベルゼベル「悪霊の頭の力によらなければ、この者は悪霊を追い出せない」と非難したのであります。

それに対してイエスさまは、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くのだろうか」と、独特なたとえでもって反論いたします。そして「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と、反対に問い質されます。
実は当時、ユダヤ教の中でも悪霊追い出しによる病人のいやしが行なわれていたということです。それでイエスさまは、「あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出しているのか。もし言うように悪霊の頭によって癒しが起こるのなら、あなたたちの仲間もそうなのか。それでは内輪もめだなあ」と皮肉を込めておっしゃったのですね。イエスさまもやるなあと思いますが。
まあそう釘を刺された後でイエスさまは威厳をもってこうおっしゃるのです。
28節「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

それはですね。イエスさまが宣教を開始して「悔い改めよ。天の国は近づいた」。それが接近しているとおっしゃった時よりも、さらに、もう天の国、神の国はあなたたちのところに近づいた。いやすでに今ここに来ている、とおっしゃっているのです。神の霊で悪霊を追いだしているのであれば、この悪霊にとりつかれているとされている人が解放され、言葉をもたなかった人が自分で話せるようになり、見えなかったことが見えるようになった。それは一人の人間が神の前に取り戻されたという事を現しているのです。

イエスさまはこのようなかたちで現に「神の国があなたたちのところに来ているのだ」
とおっしゃっているんですね。別の箇所で、イエスさまは神の国というのは、あそこにあるとか、どこにあるというようなものではなくて、「実にあなたたちの間にある」とおっしゃっています。
今私たちもそうですが。神の前に尊い一人ひとり、かけがえのない命として取り戻されたことを知った時、又認められた時。それが救いであり、神の国と実感できる時。信じ得る時ではないでしょうか。聖書はそれこそが、神の霊の業であり、神の国の到来であるというのですね。

最後に今日の箇所からもう一つ大事なメッセージをお伝えして宣教を閉じたいと思います。それはイエスさまがおっしゃった末尾の「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが。霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない」というお言葉です。

イエスさまはファリサイ派の人たちのように自分を正当化したり、自己絶対化されません。それどころか、自分に対しての悪口や非難の言葉、あるいは言い逆らう言動があったとしても、それは赦されるとおっしゃるのです。そこがすごいなあと思うのですが。イエスさまは自分を正当化するのではなく、ただ神の霊の業である、先ほど申しあげた「救いと神の国」が現されるそのことを何よりも最優先になさっているんですよね。
イエスさまはその後、遂に十字架にかけられ、すべての人の犯す罪や冒瀆の言葉の一切を身に引き受け、神の霊による完全な救いの業を成し遂げてくださいました。
その赦しの福音は、まさに悪魔の縄目にある私たち人間を完全に解放へと導くものです。
この神の霊の壮絶な愛によって、私たちは今日も主の御救いに与ることを許され、神の国の訪れを体験しているのです。
イエスさまは「人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるが、この神の霊の業に対する冒涜は決して赦されない。聖霊に言い逆らう者は、赦されることはない」とおっしゃっています。
ファリサイ派の人々がそうであったように、自分の主義主張を絶対化し、正当化し、「神の霊の救いの業によって一人の人が神の前に取り戻されていくその救いの御業を否定し、冒涜する者はその救いを受けることなく、それがすでに滅びであり裁きとなっているということでありましょう。

今日のメッセージから、神の霊のお働きの何たるかを心に留めて、ここから遣わされてまいりましょう。

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