礼拝宣教 マタイ13・44-50
先週は3日間全国牧師研修会が3.11東日本大震災の被災地であります宮城県松島で開かれ参加させて頂きました。「教会形成と災害」~東北・松島で考える~とのテーマのもと、お二人の講師のお話。そして8つの分科会。又、津波の被害がひどかった被災地東松島や石巻まで足をはこぶことができました。
一日目少し仙台空港に早く着きましたので、私は仙台市で津波の被害が最も大きかった若林地区をローカルバスに乗り、海の防波堤近くに行き着く中野という停留所まで参りました。バスの車窓からは震災から6年経っても、未だに空き地となっているところ、まだぼこぼこの土地が一面に広がっているところがあり、ここに6年前の震災の折、10メートル以上の津波が押し寄せて来た地なのだと知り、信じられなかったです。又、そのバスの路線上には震災前にはいくつもの小中学校があり賑わいでいたのですが。大津波の折は避難所となりその後は壊滅的な状態となり、後に建て替えられていた仙台私立東六郷小学校を見ると何ともいえない寂しさをおぼえました。
また2日目には石巻の被災地に参りました折も、津波の時に町の方々が避難した高台に上りそこに立ったのですが。石巻市の町中が大津波に襲われ、次々にありとあらゆるものが流されていく映像と、それが重なって見えてきました。わたしはただその高台に立ちつくし、何ともいえない思いがこみ上げてきました。その思いは研修会の期間中ずっと続きました。東日本大震災で未だに行方不明者が2556名おられるということです。
そのお一人おひとりにはそれぞれの人生があり、歴史があった。又日常とその生活があったということに思いを馳せました。研修会の前日には震災と津波で一人の女性の方の遺体の一部が見つかったということを伺いました。
大地震と津波、さらに原発事故によって、そこにあった尊いいのちや人々の生活や日常が奪われていったということを、被災地に実際に足を運ぶことによって、強く感じることができました。今回の研修会では、そこで声なき声、声に出すこともできない声に心を向け、聞いていくことの大事さをほんとうに知らされました。
これは被災地の教会のある教派のお話を聞いたのですが。それは震災時現存した教会が震災後減少したのではなく、さらに増加したというのです。その一つの教会のあかしが次のように紹介されています。「私たちの教会では5つの家族が家を失いました。身内を亡くした人もいます。そのような痛みの中を通りましたが、神様は私たちの教会を被災者に寄り添うボランティア活動に導いてくださいました。そしてその中から聖書の話に耳を傾け、イエス様を信じて人生が変えられる方が起されました。」
今回の研修会からほんとうに様々なことを学び、又、被災地に足を運ぶことによって気づきが与えられることもありました。
本日は先ほど読まれ、こどもメッセージもございましたマタイ13章44~50節より「宝ものを見出した人」と題し、御言葉に聞いていきます。
ここには3つの「天の国」のたとえが語られています。それはユダヤの日常を支える仕事と関わりのある「農夫」「商人」「漁師」といった人たちをたとえとしてイエスさまは用いて、「天の国」をお示しになるのです。人は「天の国」を別の世界のことのように夢見たり、あるいは社会的規範を守り行なうことで到達のしうるように考えたりします。「私もあの人も悪いことはしていないのだから死後は天国に行く」という考える方もおられます。けれども、本日のたとえ話は、つまるところ「天の国」は実は私たちの日常と直結しているのだというお話であります。
まず最初の「天の国」のたとえは、「宝ものを見出した人」について語られています。当時ユダヤでは、人々は財宝を壺に入れ土の中に隠したそうです。これはまあ強盗や武装した兵隊の略奪から守るための最も安全な方法だったのでしょう。
ところがその持ち主が死亡したり、何かのアクシデントに遭い行方が分からなくなった場合、その埋められた宝ものは土の中に放置されたままになってしまいます。
このたとえでは、その隠されていた宝ものを、おそらく畑仕事に雇われていた農夫が偶然にも見つけるのですね。彼は「それをそのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑ごと買う」。つまり畑ごと自分のものにするのです。
この宝の大発見は全く予想もしていなかった思いがけないものでした。自分がどんなに苦労して働いてもらえることのできないような、すばらしい宝。その人は唯驚き、喜び、その宝を自分のものとするために、これまで自分が大切にしていた物すべてを売り払って、畑の土地ごと買いあげ、宝を手に入れようとするのです。
ここを読んで、何で畑まで買う必要があるのだろう。宝ものだけ持って帰ればいいのにと思われる方もおられるかも知れません。それは、当時の合法的手段で罪を問われないようにということもあったのかも知れませんが。しかしここで強調されているのは、すばらしい本物の宝を前に、この人がそれまでの自分の生活を形づくってきたすべてのものと比較にならないほどの価値をその宝に見出したということです。
もう一つは、まあちょっとこの箇所を読んで思い浮かんだのは、高額宝くじが当たった人たちのことです。このような人たちがその後どのような生活を送っているのか興味がわいて調べてみました。すると、わりとそれまで通り勤勉に働き、ふつうに暮らしている人たちが多いようです。その一方で、「当たれば天国」のはずが、金銭トラブルに巻き込まれたり、人から嫉まれ、やっかみで人間関係が崩壊する人。浪費癖がついたり、また当選するのではというヘンな自信からギャンブル的なものにはまってしまう人などもいるそうです。その調査報告の末尾には、ご丁寧なことに「高額当選しても不幸にならない方法」というのが書かれてありました。
私も又、銀行に預けても今は利子がほんと低いですが、それでも6億円あれば定期預金にすればそりゃあまだ利子分で生活も楽になるだろうとか。そういうことかと思ったんですが。
違っていました。そこにはこうあったんです。「お金持ちに相応しい実力を身につけよう」。まあそれだけを聞くと何かいやらしい気がしますが。具体的には、「一番確実な方法として本や人との出会い、実践を通してビジネスを学ぶ」とありました。
否、今私たちは「天の国」について学んでいるのですが。ある面似ていると思うんです。いくら「神の国」を見つけた。「宝」を得たといっても、その宝に相応しい生き方がなければ何になるでしょうか。み言葉に聞き、人と出会い、主の教えを実践して生きていく。それが「畑ごと宝を買う」ということなのかと思いました。
この宝を見出した人は驚きと喜びから自分で畑を買い、この人は、ここが肝心なのですが、これからも農夫であり続けるのです。日毎汗水流して畑を耕す、そのような日常の生活をとおして本物の宝の真の価値を確認して生きる。そこに天の国の恵みが地上に開かれいくのであります。
この商人は真珠の買い付けを始めてから、「これぞ」というものをこの人はずっと探し続けてきた。
さて、天の国の二つ目のたとえ、「高価な真珠を見出した商人」について見ていきましょう。先の農夫のたとえでは、「思いがけない」こと、「予想もしていなかった」こと、「突然」ということが強調されていましたが。この高価な真珠を見つけた商人は、逆に「これまでずっと良い真珠を探し続けていた」ということが強調されています。
真珠の買い付けを始めてこのかた、「これぞ」というものをその人はずっと探し続けてきた。そして遂に見つけたのは、「高価な真珠」であった。「やっぱりいいもんは高いんやなあ」と。しかしそれは値段が高価だというのではなく、「価高い、価値がある」ということです。
私はこどもの頃、牛乳のフタを集めるのが趣味でした。それを友達とメンコ遊びするんですが。中でも1枚の生クリームのフタがピカイチで、これで勝負すると必ず勝つのです。おとなにとってみれば、それはゴミみたいものでしょうけど、私にとって最高に価値ある1枚でした。
この商人にとってこの真珠は、何ものにも代えがたい世界中でたった一つの、唯一の尊い真珠なのであります。この商人も、前の宝を見つけた農夫と同様、自分の「持ち物をすっかり売り払い、それを買い」求めるのであります。
今日の3番目の「天の国」のたとえでありますが。これは最初の「宝を見つけた農夫」や次の「高価な真珠を見つけた商人」のものとは異なります。何が違うかといえば、よい魚を手に入れようとするのは実は神であり、その網にかかった魚というのは、主イエスの福音に捕えられた一人ひとりであるということです。ここが大きな違いですよね。そしてこれがこの3番目のたとえのポイントなのですが。その獲れた魚は選り分けられる、というのであります。漁師の網が湖に投げ降ろされ、いろんな魚を集める。網がいっぱいになると人々は、漁師がいっぱいになった網を岸に引き上げ、良いものは器に、悪い者は投げ捨てる」。
このたとえは、実は前の24節からの「天の国」に関する「麦と毒麦」のたとえを受けたものです。良い種を畑に蒔いたけれど、敵が来て毒麦を蒔き両方育ってくる中で、気づいた僕たちが「その毒麦を抜き集めましょうか」というのですが。主人は29節にあるように、「いや、毒麦を集めるとき麦まで一緒に抜き取ってしまうことにもなりかねない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言うのです。そして遂に、
刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさいと、刈り入れる者に言いつけよう」と、いったというたとえであります。
主イエスはたとえの説明を求める弟子たちに「刈り入れは世の終わり」のことで、天使たちが遣わされ「正しい人々の中にいる悪い者どもを選り分け、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのです。それがこの箇所の地曳網の中に入った良いものと悪いものを選り分けるといったたとえに繰り返されているんですね。ここで非常に気になりましたのが、正しい人々の中にいる悪い者どもという言葉です。それは世の人々という世界より、前の文脈から考えても、福音を聞いて救いに与っているはずの人たちということでしょう。本物の宝ものを見出したはずなのに、一つの高価な真珠を手に入れたはずなのに。いつの間にか喜びと感謝は色あせ、生活と言動が天の国と相容れないものとなっている、そんな姿が浮かんできます。しかしそれらは人には分からないし、人が人を裁くことは出来ません。むしろ私たちは忍耐強く互いの救いのために主に執り成し合うことに、希望を見出す事こそ大事です。選り分けるのは天使とされている通り、審きは神の領域なのです。
最後に、今日このところから思いましたことは、確かに私たちが「宝」や「高価な真珠」を見出しているわけですが。それは又、主なる神さまが私たち一人ひとりを御自身の「宝」「価高き真珠」として見出してくださっているということです。それは尊い御子イエスさまを代価としてまでも、私を、あなたを、この世界でたった一つの高価な真珠のような存在として愛してくださる。その福音メッセージであります。
冒頭宮城での研修会でのことをお話しました。私はその大津波にさらわれ、何もなくなったその静まりかえった地に一人立った時、海はほんとに穏やかなんですけれども、心が重くなりました。そこで暮らすお一人おひとりの日常があった。その声なき声が聞こえて来る思いがして。福島の原発事故から6年目にもうすぐなりますが、「アンダーコントロールできている」とか。避難解除までなされて帰宅される方もおられるそうですが。未だ原発事故非常事態宣言は解除されていないという驚くべきこの事実を知らされたのですが。そこにもそのような中で日常を生きる人たちがおられるのです。
今日の主イエスのたとえ話を思いめぐらしながら、あの私の心に訴えかけた声なき声は「いのちこそ宝」「いのちこそ唯一の値高き真珠なのだ」という声であったような気がしてなりません。
見出した者、見出されたいのちの存在として、それぞれの日常がこの福音の恵みを基にしてあゆむものとされてまいりましょう。ここから。
先週は3日間全国牧師研修会が3.11東日本大震災の被災地であります宮城県松島で開かれ参加させて頂きました。「教会形成と災害」~東北・松島で考える~とのテーマのもと、お二人の講師のお話。そして8つの分科会。又、津波の被害がひどかった被災地東松島や石巻まで足をはこぶことができました。
一日目少し仙台空港に早く着きましたので、私は仙台市で津波の被害が最も大きかった若林地区をローカルバスに乗り、海の防波堤近くに行き着く中野という停留所まで参りました。バスの車窓からは震災から6年経っても、未だに空き地となっているところ、まだぼこぼこの土地が一面に広がっているところがあり、ここに6年前の震災の折、10メートル以上の津波が押し寄せて来た地なのだと知り、信じられなかったです。又、そのバスの路線上には震災前にはいくつもの小中学校があり賑わいでいたのですが。大津波の折は避難所となりその後は壊滅的な状態となり、後に建て替えられていた仙台私立東六郷小学校を見ると何ともいえない寂しさをおぼえました。
また2日目には石巻の被災地に参りました折も、津波の時に町の方々が避難した高台に上りそこに立ったのですが。石巻市の町中が大津波に襲われ、次々にありとあらゆるものが流されていく映像と、それが重なって見えてきました。わたしはただその高台に立ちつくし、何ともいえない思いがこみ上げてきました。その思いは研修会の期間中ずっと続きました。東日本大震災で未だに行方不明者が2556名おられるということです。
そのお一人おひとりにはそれぞれの人生があり、歴史があった。又日常とその生活があったということに思いを馳せました。研修会の前日には震災と津波で一人の女性の方の遺体の一部が見つかったということを伺いました。
大地震と津波、さらに原発事故によって、そこにあった尊いいのちや人々の生活や日常が奪われていったということを、被災地に実際に足を運ぶことによって、強く感じることができました。今回の研修会では、そこで声なき声、声に出すこともできない声に心を向け、聞いていくことの大事さをほんとうに知らされました。
これは被災地の教会のある教派のお話を聞いたのですが。それは震災時現存した教会が震災後減少したのではなく、さらに増加したというのです。その一つの教会のあかしが次のように紹介されています。「私たちの教会では5つの家族が家を失いました。身内を亡くした人もいます。そのような痛みの中を通りましたが、神様は私たちの教会を被災者に寄り添うボランティア活動に導いてくださいました。そしてその中から聖書の話に耳を傾け、イエス様を信じて人生が変えられる方が起されました。」
今回の研修会からほんとうに様々なことを学び、又、被災地に足を運ぶことによって気づきが与えられることもありました。
本日は先ほど読まれ、こどもメッセージもございましたマタイ13章44~50節より「宝ものを見出した人」と題し、御言葉に聞いていきます。
ここには3つの「天の国」のたとえが語られています。それはユダヤの日常を支える仕事と関わりのある「農夫」「商人」「漁師」といった人たちをたとえとしてイエスさまは用いて、「天の国」をお示しになるのです。人は「天の国」を別の世界のことのように夢見たり、あるいは社会的規範を守り行なうことで到達のしうるように考えたりします。「私もあの人も悪いことはしていないのだから死後は天国に行く」という考える方もおられます。けれども、本日のたとえ話は、つまるところ「天の国」は実は私たちの日常と直結しているのだというお話であります。
まず最初の「天の国」のたとえは、「宝ものを見出した人」について語られています。当時ユダヤでは、人々は財宝を壺に入れ土の中に隠したそうです。これはまあ強盗や武装した兵隊の略奪から守るための最も安全な方法だったのでしょう。
ところがその持ち主が死亡したり、何かのアクシデントに遭い行方が分からなくなった場合、その埋められた宝ものは土の中に放置されたままになってしまいます。
このたとえでは、その隠されていた宝ものを、おそらく畑仕事に雇われていた農夫が偶然にも見つけるのですね。彼は「それをそのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑ごと買う」。つまり畑ごと自分のものにするのです。
この宝の大発見は全く予想もしていなかった思いがけないものでした。自分がどんなに苦労して働いてもらえることのできないような、すばらしい宝。その人は唯驚き、喜び、その宝を自分のものとするために、これまで自分が大切にしていた物すべてを売り払って、畑の土地ごと買いあげ、宝を手に入れようとするのです。
ここを読んで、何で畑まで買う必要があるのだろう。宝ものだけ持って帰ればいいのにと思われる方もおられるかも知れません。それは、当時の合法的手段で罪を問われないようにということもあったのかも知れませんが。しかしここで強調されているのは、すばらしい本物の宝を前に、この人がそれまでの自分の生活を形づくってきたすべてのものと比較にならないほどの価値をその宝に見出したということです。
もう一つは、まあちょっとこの箇所を読んで思い浮かんだのは、高額宝くじが当たった人たちのことです。このような人たちがその後どのような生活を送っているのか興味がわいて調べてみました。すると、わりとそれまで通り勤勉に働き、ふつうに暮らしている人たちが多いようです。その一方で、「当たれば天国」のはずが、金銭トラブルに巻き込まれたり、人から嫉まれ、やっかみで人間関係が崩壊する人。浪費癖がついたり、また当選するのではというヘンな自信からギャンブル的なものにはまってしまう人などもいるそうです。その調査報告の末尾には、ご丁寧なことに「高額当選しても不幸にならない方法」というのが書かれてありました。
私も又、銀行に預けても今は利子がほんと低いですが、それでも6億円あれば定期預金にすればそりゃあまだ利子分で生活も楽になるだろうとか。そういうことかと思ったんですが。
違っていました。そこにはこうあったんです。「お金持ちに相応しい実力を身につけよう」。まあそれだけを聞くと何かいやらしい気がしますが。具体的には、「一番確実な方法として本や人との出会い、実践を通してビジネスを学ぶ」とありました。
否、今私たちは「天の国」について学んでいるのですが。ある面似ていると思うんです。いくら「神の国」を見つけた。「宝」を得たといっても、その宝に相応しい生き方がなければ何になるでしょうか。み言葉に聞き、人と出会い、主の教えを実践して生きていく。それが「畑ごと宝を買う」ということなのかと思いました。
この宝を見出した人は驚きと喜びから自分で畑を買い、この人は、ここが肝心なのですが、これからも農夫であり続けるのです。日毎汗水流して畑を耕す、そのような日常の生活をとおして本物の宝の真の価値を確認して生きる。そこに天の国の恵みが地上に開かれいくのであります。
この商人は真珠の買い付けを始めてから、「これぞ」というものをこの人はずっと探し続けてきた。
さて、天の国の二つ目のたとえ、「高価な真珠を見出した商人」について見ていきましょう。先の農夫のたとえでは、「思いがけない」こと、「予想もしていなかった」こと、「突然」ということが強調されていましたが。この高価な真珠を見つけた商人は、逆に「これまでずっと良い真珠を探し続けていた」ということが強調されています。
真珠の買い付けを始めてこのかた、「これぞ」というものをその人はずっと探し続けてきた。そして遂に見つけたのは、「高価な真珠」であった。「やっぱりいいもんは高いんやなあ」と。しかしそれは値段が高価だというのではなく、「価高い、価値がある」ということです。
私はこどもの頃、牛乳のフタを集めるのが趣味でした。それを友達とメンコ遊びするんですが。中でも1枚の生クリームのフタがピカイチで、これで勝負すると必ず勝つのです。おとなにとってみれば、それはゴミみたいものでしょうけど、私にとって最高に価値ある1枚でした。
この商人にとってこの真珠は、何ものにも代えがたい世界中でたった一つの、唯一の尊い真珠なのであります。この商人も、前の宝を見つけた農夫と同様、自分の「持ち物をすっかり売り払い、それを買い」求めるのであります。
今日の3番目の「天の国」のたとえでありますが。これは最初の「宝を見つけた農夫」や次の「高価な真珠を見つけた商人」のものとは異なります。何が違うかといえば、よい魚を手に入れようとするのは実は神であり、その網にかかった魚というのは、主イエスの福音に捕えられた一人ひとりであるということです。ここが大きな違いですよね。そしてこれがこの3番目のたとえのポイントなのですが。その獲れた魚は選り分けられる、というのであります。漁師の網が湖に投げ降ろされ、いろんな魚を集める。網がいっぱいになると人々は、漁師がいっぱいになった網を岸に引き上げ、良いものは器に、悪い者は投げ捨てる」。
このたとえは、実は前の24節からの「天の国」に関する「麦と毒麦」のたとえを受けたものです。良い種を畑に蒔いたけれど、敵が来て毒麦を蒔き両方育ってくる中で、気づいた僕たちが「その毒麦を抜き集めましょうか」というのですが。主人は29節にあるように、「いや、毒麦を集めるとき麦まで一緒に抜き取ってしまうことにもなりかねない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言うのです。そして遂に、
刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさいと、刈り入れる者に言いつけよう」と、いったというたとえであります。
主イエスはたとえの説明を求める弟子たちに「刈り入れは世の終わり」のことで、天使たちが遣わされ「正しい人々の中にいる悪い者どもを選り分け、燃え盛る炉の中に投げ込む」というのです。それがこの箇所の地曳網の中に入った良いものと悪いものを選り分けるといったたとえに繰り返されているんですね。ここで非常に気になりましたのが、正しい人々の中にいる悪い者どもという言葉です。それは世の人々という世界より、前の文脈から考えても、福音を聞いて救いに与っているはずの人たちということでしょう。本物の宝ものを見出したはずなのに、一つの高価な真珠を手に入れたはずなのに。いつの間にか喜びと感謝は色あせ、生活と言動が天の国と相容れないものとなっている、そんな姿が浮かんできます。しかしそれらは人には分からないし、人が人を裁くことは出来ません。むしろ私たちは忍耐強く互いの救いのために主に執り成し合うことに、希望を見出す事こそ大事です。選り分けるのは天使とされている通り、審きは神の領域なのです。
最後に、今日このところから思いましたことは、確かに私たちが「宝」や「高価な真珠」を見出しているわけですが。それは又、主なる神さまが私たち一人ひとりを御自身の「宝」「価高き真珠」として見出してくださっているということです。それは尊い御子イエスさまを代価としてまでも、私を、あなたを、この世界でたった一つの高価な真珠のような存在として愛してくださる。その福音メッセージであります。
冒頭宮城での研修会でのことをお話しました。私はその大津波にさらわれ、何もなくなったその静まりかえった地に一人立った時、海はほんとに穏やかなんですけれども、心が重くなりました。そこで暮らすお一人おひとりの日常があった。その声なき声が聞こえて来る思いがして。福島の原発事故から6年目にもうすぐなりますが、「アンダーコントロールできている」とか。避難解除までなされて帰宅される方もおられるそうですが。未だ原発事故非常事態宣言は解除されていないという驚くべきこの事実を知らされたのですが。そこにもそのような中で日常を生きる人たちがおられるのです。
今日の主イエスのたとえ話を思いめぐらしながら、あの私の心に訴えかけた声なき声は「いのちこそ宝」「いのちこそ唯一の値高き真珠なのだ」という声であったような気がしてなりません。
見出した者、見出されたいのちの存在として、それぞれの日常がこの福音の恵みを基にしてあゆむものとされてまいりましょう。ここから。