礼拝宣教 士師記7章1~8節 敬老感謝
今日は台風の影響が懸念されていましたが、こうして礼拝が守られるように主がお導き
下さいましたことに感謝いたします。今日は敬老感謝。
人生と信仰の先輩の方々に感謝を表しつつ、主に礼拝をお捧げしています。
私たちの教会の最高齢はOさんですが、近くご入会予定のNさんもOさんと同じご年齢
ということであります。さて、このお二人に共通していることがございます。それは礼
拝を捧げることを本当にいつも楽しみにしておられるということです。
私たちは、世にあって年を重ねる毎に体の衰えや、又、親しい友人が天に召される寂し
い経験をすることがあるでしょう。
しかし聖書の中にはこのような希望が語られています。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一
緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、
あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光
を帰すようになるためです。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの
『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされてい
きます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄
光をもたらすのです」(コリント二4章14節-16節)。
このように希望に生かされている平安をもって今日というかけがえのない日を、主の御
前に捧げたいと願います。
さて、本日も士師記7章より御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は士師として神さまに立てられたギデオンの召命と彼の人となりについて6章か
ら読みました。
ミディアン人が襲って来た時、酒ぶねの中に身を隠す程恐れていた彼を主の使いは
「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけ、お立てになるのであります。
それに対して「主が共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちに
ふりかかったのですか」と疑念を呈すギデオンに、主の使いは「あなたはその力をもっ
て行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。
わたしがあなたを遣わすのではないか」と言われます。
しかしギデオンは、「わたしの一族は最も貧弱なものです。わたしも家族の中で年下
のものです」と、とても後ろ向きでした。そして、もしそれが本当なら「そのしるしを見せて下さい」と言うのです。
すると主の使いはギデオンにしるしをお示しになり、ギデオンはその人物が主なる神
さまであったことを知ることになるのです。こうして彼はイスラエルを窮地から救う士師として立てられていくこととなります。
ところがこのギデオン。主が偶像と祭壇を壊すよう命じられると、人々を恐れ日中を
避け夜中にそれを行なうというように、酒ぶねに身を潜ませていたときと、そう変わったわけではありません。
今日のエピソードの前段にあるように、周辺の諸民族が結集して攻め込もうとしている中、神に「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、そのことが納得できるようなしるしをください」と要求するのですね。
すると主は、ここでもギデオンの求めるままに、二度までもしるしを表されたというと
いうような記事が書いてあります。
さて、ここからが今日の箇所ですが。
まあ、それだけしるしを求めなければならないほど、心配性で用心深く、勇者というイメージからはほど遠く思えるようなギデオン。
「陣を敷く」ためどれだけの人が集まるのか、当然気になったでしょう。そして実際三万二千人もの人が集まって来たとき、内心「これならいけるだろう」と思いがよぎったのではないでしょうか。
ところが主はギデオンに「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と」言われます。
主は人々の心をよくご存じでした。イスラエルの総勢三万二千人の数でこのままイスラ
エルがミディアンの軍勢に勝利したら。人々は主の力でなく、自分たちの力で勝利した
ように思い、それを大いに誇って、主に栄光を帰すことがなかったでしょう。それは、
神の民として生きるように召された彼らの信仰を損なうことになりかねません。
主はそのことを見抜いておられたんですね。
まあ、ギデオンにしてみれば、ミディアンの大陣営に立ち向かうためにはとにかくイスラエルの人々の数を集めることが重要だと当然考えていたでしょうが。
それでも、ギデオンは主の御言葉に聞き従います。
彼がそのお言葉どおり民に呼びかけると、「民の中から二万二千人が帰り、一万人が残
った」。
まあ3分の2以上の民が去っていったことになります。それを見て、ギデオンは内心「行
かないでくれ~え」と心の中で叫んでいたんじゃないでしょうか。
ところが、主はギデオンに「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきでないと告げる者は行かせてはならない」と言われるのです。
その時のギデオンの心境はどうだったでしょうか?もうこれ以上少なくなればどん
な状況になるのかと、不安と恐れが押し寄せてきたのではないでしょうか。
しかし彼はそこでも、主のおっしゃるとおり民を連れて水辺に下ります。
そこで主は「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい」と命じます。
ギデオンは主の言われるとおりに、その三百人だけは引き留めておき、他のすべてイスラエル陣営九千七百人をそれぞれの天幕に帰らせた」のです。
ここでもギデオンは主のおっしゃったとおり行なうんですね。
目の前の現実は12節にあるように「ミディアン人、アマレク人、東方諸民族は、いな
ごのように数多く、平野に横たわり、らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなか
った」と、まあその総勢十二万五千人はいたようですが。そのような大軍を前にし
て、三百人をもって戦うことなど常識では考えられないことです。
こうなってはもはやギデオンの心は恐れおののきの限界を突き抜けて、「唯、主の力の
み」に頼る他なかったのではないでしょうか。
先に申しましたように、先週の6章では、ギデオンが主に願うと、主はそのしるしを見せ、主が彼と共におられることをお示しになりました。普通ならあり得ないしるしを何度もみせて下さいました。
そのように人間、何でも思う通りになりますと、そのうち自分はついているなあとか。何か特別なような気持ちになっていくものです。そしてやがては「神をも恐れぬ」というような高慢になっていき、滅びを招いていくのですね。
ギデオンもイスラエルの民も三万二千人の民をもって勝利を収めれば、そのような高慢と滅びに向かったかも知れません。
話は変わりますが。8月の礼拝でバベルの塔の箇所(創世記11章)を読みましたが。昔、人々が「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と建設に着手しますが、彼らは互いの言葉が聞き分けられなくなり、そこからちりちりばらばらに散らされ、塔の建設の中止を余儀なくされるという物語です。
そこには、人間が何か見えるものによって安心を得たいというような、その根底にある不安や恐れ。又、人間の果てしない野望といったものまでも、どこかこのバベルの塔は象徴しているかのように思えますが。
昨日、オランダの画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が大阪国立国際美術館で開催されているということで、こういう機会はなかなかないこともあり行ってきました。
そこには16世紀のオランダの絵画の名品や名画家ボスの作品が展示されおり、メインのブリューゲルの絵画の数々、その展示の最後にバベルの塔の大傑作を見ることができました。そのバベルの塔の作品を見ますと、ブリューゲルは塔の建設にあたっている人々のその様子を大変事細かく描いています。米粒より小さく描かれた人、人、人。拡大してみてやっと確認することができます。
とってもユニークだったのが。塔に向かって左側の縦部分が白くなっているのです。それは石灰石か何かを使って作業にあたっていた人々が塔の上からその粉をこぼし、下にいた人たちにかかってみんな白くなっているという様子だそうですが。この作品を見て、何かブリューゲルは神の目をかりてこの絵を描いたようにも思えるほど、その絵は実に繊細かつ壮大なものでありました。ブリューゲルはこのバベルの塔を描くことで何を伝えようとしているんだろうか?それはその絵を見た人それぞれに答があるようにわたしには思えました。
話をもどしますが。
さて、先週の6章ではギデオンが主にしるしを見せてくださいと主を試みるところが何度もあったわけですが。ところが本日の箇所では、主が逆にギデオンの信仰を試されていて、いわばギデオンと主の立場が逆転しているかのようです。
イスラエル三万二千人の陣営が一万人に減らされ、最終的に三百人にまで減らされていきました。イスラエルの総勢三万二千人のうちの僅か1%しか残らなかった。ミディアン人ら十二万五千人の大軍に到底立ち向かえるような数ではありません。数や人の力では決して太刀打ちできない。いうならば、ギデオンの自信はそこまで削ぎ落とされ、「唯、神の力のみ」頼るしかなくなるのです。
先週の午前の祈祷会に元大阪教会員のTさんがいらしてくださったのですが。
今日の箇所のイスラエルの残った1%が日本のクリスチャン人口の1%と重なった、というようなことをおっしゃっていたことが、心に留まりました。
日本は同じアジアなのに韓国や台湾などに比べると、どうしてこうもクリスチャンが少ないのかという。。。ある意味、それは伝道の困難さであり、信仰を守り通していくことの困難さであるわけですが。
それに又、1%の数で何の実行力になるのか、と私たちは考えるわけですね。そこで私たちは御救いに与っていく人たちが一人でも多く興されていくことを望むわけでありますが。
ただ、今日のこの箇所が私たちに向けて語りかけているメッセージは、実はそれとは
別のところにございます。
この1%の三百人という数は、イスラエルが自分の手で自分を救ったと言えない数であるということです。それはつまり、神さまはイスラエルの人々に、人の数やその勢力によってお働きなさるのではなく、「唯、神の力のみ」に信頼する人のうえに、神さまはお働きになられるということであります。
そのことは又、1%に満たない日本のクリスチャンに向けても同様、「唯、神の力のみ」に信頼して生きる者に、神さまはゆたかな恵みと祝福をもって臨んでくださるということであります。
私たちの日々の生活の中においても、自分の力ではもうどうすることもできない、という経験がないでしょうか。しがみついていた指を一本一本はずされるような状況の中で、もう「主よ!」とすがるほかない。
そういうときに、その現実を恨み悔いて終るか、唯、神の力のみに信頼していくか。神を信じて救いに与っているクリスチャンのしるしはここにございます。
主は生きておられます。目に見えるところにではなく、共におられる神に依り頼んで、
今週もここから、それぞれの場所に遣わされてまいりましょう。
今日は台風の影響が懸念されていましたが、こうして礼拝が守られるように主がお導き
下さいましたことに感謝いたします。今日は敬老感謝。
人生と信仰の先輩の方々に感謝を表しつつ、主に礼拝をお捧げしています。
私たちの教会の最高齢はOさんですが、近くご入会予定のNさんもOさんと同じご年齢
ということであります。さて、このお二人に共通していることがございます。それは礼
拝を捧げることを本当にいつも楽しみにしておられるということです。
私たちは、世にあって年を重ねる毎に体の衰えや、又、親しい友人が天に召される寂し
い経験をすることがあるでしょう。
しかし聖書の中にはこのような希望が語られています。
「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一
緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。すべてこれらのことは、
あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光
を帰すようになるためです。だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの
『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされてい
きます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄
光をもたらすのです」(コリント二4章14節-16節)。
このように希望に生かされている平安をもって今日というかけがえのない日を、主の御
前に捧げたいと願います。
さて、本日も士師記7章より御言葉を聞いていきたいと思います。
先週は士師として神さまに立てられたギデオンの召命と彼の人となりについて6章か
ら読みました。
ミディアン人が襲って来た時、酒ぶねの中に身を隠す程恐れていた彼を主の使いは
「勇者よ、主があなたと共におられます」と呼びかけ、お立てになるのであります。
それに対して「主が共においでになるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちに
ふりかかったのですか」と疑念を呈すギデオンに、主の使いは「あなたはその力をもっ
て行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。
わたしがあなたを遣わすのではないか」と言われます。
しかしギデオンは、「わたしの一族は最も貧弱なものです。わたしも家族の中で年下
のものです」と、とても後ろ向きでした。そして、もしそれが本当なら「そのしるしを見せて下さい」と言うのです。
すると主の使いはギデオンにしるしをお示しになり、ギデオンはその人物が主なる神
さまであったことを知ることになるのです。こうして彼はイスラエルを窮地から救う士師として立てられていくこととなります。
ところがこのギデオン。主が偶像と祭壇を壊すよう命じられると、人々を恐れ日中を
避け夜中にそれを行なうというように、酒ぶねに身を潜ませていたときと、そう変わったわけではありません。
今日のエピソードの前段にあるように、周辺の諸民族が結集して攻め込もうとしている中、神に「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、そのことが納得できるようなしるしをください」と要求するのですね。
すると主は、ここでもギデオンの求めるままに、二度までもしるしを表されたというと
いうような記事が書いてあります。
さて、ここからが今日の箇所ですが。
まあ、それだけしるしを求めなければならないほど、心配性で用心深く、勇者というイメージからはほど遠く思えるようなギデオン。
「陣を敷く」ためどれだけの人が集まるのか、当然気になったでしょう。そして実際三万二千人もの人が集まって来たとき、内心「これならいけるだろう」と思いがよぎったのではないでしょうか。
ところが主はギデオンに「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と」言われます。
主は人々の心をよくご存じでした。イスラエルの総勢三万二千人の数でこのままイスラ
エルがミディアンの軍勢に勝利したら。人々は主の力でなく、自分たちの力で勝利した
ように思い、それを大いに誇って、主に栄光を帰すことがなかったでしょう。それは、
神の民として生きるように召された彼らの信仰を損なうことになりかねません。
主はそのことを見抜いておられたんですね。
まあ、ギデオンにしてみれば、ミディアンの大陣営に立ち向かうためにはとにかくイスラエルの人々の数を集めることが重要だと当然考えていたでしょうが。
それでも、ギデオンは主の御言葉に聞き従います。
彼がそのお言葉どおり民に呼びかけると、「民の中から二万二千人が帰り、一万人が残
った」。
まあ3分の2以上の民が去っていったことになります。それを見て、ギデオンは内心「行
かないでくれ~え」と心の中で叫んでいたんじゃないでしょうか。
ところが、主はギデオンに「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきでないと告げる者は行かせてはならない」と言われるのです。
その時のギデオンの心境はどうだったでしょうか?もうこれ以上少なくなればどん
な状況になるのかと、不安と恐れが押し寄せてきたのではないでしょうか。
しかし彼はそこでも、主のおっしゃるとおり民を連れて水辺に下ります。
そこで主は「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい」と命じます。
ギデオンは主の言われるとおりに、その三百人だけは引き留めておき、他のすべてイスラエル陣営九千七百人をそれぞれの天幕に帰らせた」のです。
ここでもギデオンは主のおっしゃったとおり行なうんですね。
目の前の現実は12節にあるように「ミディアン人、アマレク人、東方諸民族は、いな
ごのように数多く、平野に横たわり、らくだも海辺の砂のように数多く、数えきれなか
った」と、まあその総勢十二万五千人はいたようですが。そのような大軍を前にし
て、三百人をもって戦うことなど常識では考えられないことです。
こうなってはもはやギデオンの心は恐れおののきの限界を突き抜けて、「唯、主の力の
み」に頼る他なかったのではないでしょうか。
先に申しましたように、先週の6章では、ギデオンが主に願うと、主はそのしるしを見せ、主が彼と共におられることをお示しになりました。普通ならあり得ないしるしを何度もみせて下さいました。
そのように人間、何でも思う通りになりますと、そのうち自分はついているなあとか。何か特別なような気持ちになっていくものです。そしてやがては「神をも恐れぬ」というような高慢になっていき、滅びを招いていくのですね。
ギデオンもイスラエルの民も三万二千人の民をもって勝利を収めれば、そのような高慢と滅びに向かったかも知れません。
話は変わりますが。8月の礼拝でバベルの塔の箇所(創世記11章)を読みましたが。昔、人々が「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と建設に着手しますが、彼らは互いの言葉が聞き分けられなくなり、そこからちりちりばらばらに散らされ、塔の建設の中止を余儀なくされるという物語です。
そこには、人間が何か見えるものによって安心を得たいというような、その根底にある不安や恐れ。又、人間の果てしない野望といったものまでも、どこかこのバベルの塔は象徴しているかのように思えますが。
昨日、オランダの画家ブリューゲルの「バベルの塔」展が大阪国立国際美術館で開催されているということで、こういう機会はなかなかないこともあり行ってきました。
そこには16世紀のオランダの絵画の名品や名画家ボスの作品が展示されおり、メインのブリューゲルの絵画の数々、その展示の最後にバベルの塔の大傑作を見ることができました。そのバベルの塔の作品を見ますと、ブリューゲルは塔の建設にあたっている人々のその様子を大変事細かく描いています。米粒より小さく描かれた人、人、人。拡大してみてやっと確認することができます。
とってもユニークだったのが。塔に向かって左側の縦部分が白くなっているのです。それは石灰石か何かを使って作業にあたっていた人々が塔の上からその粉をこぼし、下にいた人たちにかかってみんな白くなっているという様子だそうですが。この作品を見て、何かブリューゲルは神の目をかりてこの絵を描いたようにも思えるほど、その絵は実に繊細かつ壮大なものでありました。ブリューゲルはこのバベルの塔を描くことで何を伝えようとしているんだろうか?それはその絵を見た人それぞれに答があるようにわたしには思えました。
話をもどしますが。
さて、先週の6章ではギデオンが主にしるしを見せてくださいと主を試みるところが何度もあったわけですが。ところが本日の箇所では、主が逆にギデオンの信仰を試されていて、いわばギデオンと主の立場が逆転しているかのようです。
イスラエル三万二千人の陣営が一万人に減らされ、最終的に三百人にまで減らされていきました。イスラエルの総勢三万二千人のうちの僅か1%しか残らなかった。ミディアン人ら十二万五千人の大軍に到底立ち向かえるような数ではありません。数や人の力では決して太刀打ちできない。いうならば、ギデオンの自信はそこまで削ぎ落とされ、「唯、神の力のみ」頼るしかなくなるのです。
先週の午前の祈祷会に元大阪教会員のTさんがいらしてくださったのですが。
今日の箇所のイスラエルの残った1%が日本のクリスチャン人口の1%と重なった、というようなことをおっしゃっていたことが、心に留まりました。
日本は同じアジアなのに韓国や台湾などに比べると、どうしてこうもクリスチャンが少ないのかという。。。ある意味、それは伝道の困難さであり、信仰を守り通していくことの困難さであるわけですが。
それに又、1%の数で何の実行力になるのか、と私たちは考えるわけですね。そこで私たちは御救いに与っていく人たちが一人でも多く興されていくことを望むわけでありますが。
ただ、今日のこの箇所が私たちに向けて語りかけているメッセージは、実はそれとは
別のところにございます。
この1%の三百人という数は、イスラエルが自分の手で自分を救ったと言えない数であるということです。それはつまり、神さまはイスラエルの人々に、人の数やその勢力によってお働きなさるのではなく、「唯、神の力のみ」に信頼する人のうえに、神さまはお働きになられるということであります。
そのことは又、1%に満たない日本のクリスチャンに向けても同様、「唯、神の力のみ」に信頼して生きる者に、神さまはゆたかな恵みと祝福をもって臨んでくださるということであります。
私たちの日々の生活の中においても、自分の力ではもうどうすることもできない、という経験がないでしょうか。しがみついていた指を一本一本はずされるような状況の中で、もう「主よ!」とすがるほかない。
そういうときに、その現実を恨み悔いて終るか、唯、神の力のみに信頼していくか。神を信じて救いに与っているクリスチャンのしるしはここにございます。
主は生きておられます。目に見えるところにではなく、共におられる神に依り頼んで、
今週もここから、それぞれの場所に遣わされてまいりましょう。