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あなたのその力をもって行くがよい

2017-09-10 15:44:10 | メッセージ
礼拝宣教 士師記6章11-24節

本日より3週に亘り士師記のギデオンの記事を中心に御言葉を聞いていきます。
9月迄の創世記からかなり時代がとびまして、寄留の地エジプトでイスラエルの民はその数を増し、神が立てた指導者モーセと共にカナンの地を目指します。そうしてその地に定住するためにモーセの後継の指導者としてヨシュアが立てられ、イスラエルの民は主に仕え、王政をもたず、12の部族それぞれが互いに連携し、助け合いながらカナンの地に住んでいました。おおよそ紀元前13世紀頃とされています。
ところが、士師記2章8節以降によりますと、その指導者ヨシュアが亡くなり、その世代が皆絶えてしまうと、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行なわれた御業も知らない別の世代が興り、イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなっていきます。こうして彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏したとあります。
救いの御業を知らない世代となり、もはやそれを伝える者、思い起こさせる者がいなくなっていくとき、地上に悪がはびこるのです。
そのイスラエルに対して主は怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるままにし、周りの敵の手に渡されたため、彼らは苦境に立たされます。しかしそういう中で、彼らは再び救いの主を思い出して、主に助けを求めるのですね。
すると主は、その彼らのために「士師を立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださった」というのです。

ここに士師の起源を見るのでありますが。まあ、士師といえば裁き人とか指導者とか支配者など呼ばれますが、主がイスラエルの民の苦境を憐まれる中で立てたそれは「救助者」であったのですね。
ところがその一人の士師が死ぬと、彼らは一層堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかったと、記されています。
するとまた、外敵による攻撃にさらされて苦境に立たされ、また主に向き直り助けを乞うと、主がさらに次の士師を立てて彼らを敵の手から救われるのです。
しかしその士師が死ぬと、また彼らは、一層堕落し、他の神々に従っていくというようなことが繰り返され、民のそういった状況は悪化の一途を辿っていくのです。
そんなイスラエルの民であるにも拘わらず、主は彼らをお見捨てにならず、そのイスラエルの民の切なる訴えに応えて、士師を繰り返しお立てになるのです。

ここを読みますと、神さまはノアの洪水の出来事以来「人は生まれつき悪い者である」とおっしゃりながらも、もう「二度と地を滅ぼすようなことはしない」とのお約束を貫かれ、それが今日にまで至っています。
そのことを思いますとき、人の罪深さとそのような人を憐れむ父なる神さまの愛を知らされるものです。そのようにここは、「如何に罪深い人間であっても決してあきらめない」神さまのお姿が示されているように思えます。

そういうことを踏まえ、今日は「主がギデオンを士師としてお立てになる」6章の箇所から御言葉に聞いていきたいと思います。

この時もイスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行なったために、ミディアン人による脅威に絶えずさらされることとなっていました。
主の御使いがやって来た時、ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、これは奴隷として連れて行かれることを恐れてということでしょうが、酒ぶねの中で小麦を打って身を隠していました。
彼は「主がイスラエルの民をミディアン人の手に渡されたのだ。自分たちはもう神に見捨てられんだ」と、もはやどうしようもないことだと、いわばあきらめの境地にあって、脅威から逃れただ生き延びるためだけのその日一日を過ごすことしかなかったのです。

主の御使いはそんなギデオンの前に現れるのでありますが。その御使いが開口一番にギデオンに告げたのは、「勇者よ、主はあなたと共におられる」という一言でした。
まあ、酒ぶねにひっそり身を隠すギデオンを、はたから見れば臆病者で無気力で、弱々しく思えたでしょう。そのギデオンに「勇者よ」と言っているのは何ともユーモラスに思えます。
ただ、このところを正確にヘブライ語の原文順に訳せば、「主はあなたと共におられる。勇者よ」となっているんですね。そうすると、「主があなたと共におられる。ゆえにあなたは勇者」と、随分ニュアンスが違って聞こえてきますよね。

ギデオンはその主の御使いの言葉に大変驚き、戸惑います。
もはや戦いに出向かずこっそりと身を隠しているような自分が、どうして「勇者」などと呼ばれるのか。きっとたじたじとなったに違いありません。
それでも彼は気を取り直し、「わたしの主よ、お願いします。主なる神がわたしと共におられるのでしたら、なぜこのようなことがわたしたちにふりかかったのですか。先祖が、『主は、我々をエジプトから導き上られたではないか』と言って語り伝えた、驚くべき御業はすべてどうなってしまったのですか。今、主はわたしたちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれました」と、主に抗議し訴えます。

まあここを読みますと、ギデオンにはこれらのことが、主の救いを忘れ、主に逆らい罪を犯し続けてきたことが、このような事態を招いていることや、自分もそのイスラエルの民の一人であることの認識や自覚があまりなかったとも思えるのですが。
主の御使いはその彼の疑問に直接は答えられず、彼の方を向いてこう言われるのです。
「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか」。

ギデオンはその主の御使いの言葉に戸惑い、「あなたのその力をもって行くがよい」と言われても、わたしに何ができるでしょうか。わたしが一体「どうすればイスラエルを救うことができましょう」と言い。さらに「わたしの一族はマナセの中で最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です」と訴えます。

しかし主はそんなギデオンに、「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」とお語りになるのです。

ここで、整理してみましょう。
ギデオンに対して、主の御使いが「勇者よ」といわれたのは、酒ぶねに隠れる彼をからかったわけではありません。それは「あなたは勇者だ」との宣言、宣告なんですね。
彼が勇者とされるのは、優れた理解力と対応ができるからとか。又有力な立場にあるからというのでは決してありません。彼がたと強かろうが、彼に後ろ盾があろうが、そういうこととは関係ありません。
それは唯、「神があなたと共におられる」というその一点において、彼は勇者なのであり、「主」が彼をお用いになる、ということなんですね。

今日の宣教題は、14節の「あなたのその力をもって行くがよい」という御言葉をそのままつけました。
その力とは、その人が兼ね備えてた能力とも読むことができますが。けれども、私はむしろ人の能力を指しているのではないと思うんですよね。
出来る事、出来ない事、弱さも足りなさもすべてひっくるめて、いわばそのありのままの「あなたのその力をもって行くがよい」とおっしゃっているんではないかと思うんです。そして、「あなたのその力をもって行くがよい」との御言葉と、「主があなたと共にいる」との御言葉は一対であるということですね。主は「ギデオンよ、わたしが共にいるから、あるがままのあなたの力をもって行くがよい」と、おっしゃているのではないでしょうか。
新約聖書で使徒パウロは、救い主イエス・キリストを伝える困難な折、コリントの信徒への第二手紙12章にありますように、。『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われる主の御声を聞きます。パウロは「それゆえ。わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と言って主の救いを伝え続けました。「わたしは弱いときにこそ強い」と。
ギデオンもまた、酒ぶねの中に隠れるというような不甲斐なさをと弱さを覚える中で、「あなたのその力をもって行くがよい」というその御言葉に心奮い立つ思いが与えられたのではないでしょうか。

さて、今日の箇所はさらに続きます。
16節の「わたしがあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」との主のお言葉に対して、ギデオンは、その語られたことが正しく信頼に価するものであるかを判断するために「しるしを見せてください」というのですね。
主の約束の言葉は、すぐに形をとって目に見えるものではありません。約束なんですから、目に見えるのはまだ先です。だから信仰って、主の御言葉に信頼するか、否かのどちらかでしかないのです。
しかし主はそのギデオンの要望を聞き入れて、目に見えるしるしをお見せになられたのですね。するとその瞬間、主の御使いは消えていたとありますが。
彼はこれまで自分の目の前に共にいたのは主ご自身であられたことを確認するのです。

祈祷会の聖書の学びの時にも出ましたが、この箇所と重なって思い起こされますのは、ヨハネ20章の復活のイエスさまが、疑い惑うトマスに、御自分の御傷を示された場面であります。
イエスさまトマスに「あなたは不信仰だ」などと責めたりはなさいませんでした。
「トマス、わたしの手の釘のあとにあなたの指を差し入れて見なさい」とおっしゃって、疑うトマスであっても全面的に受け入れておられるんですよね。
その上でイエスさまはトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と諭されるんですね。ギデオンにせよトマスにせよ、そんな主のご慈愛に触れた時に、目が開かれて「主なる神よ」「わたしの主よ」と言って主を礼拝したんですね。
このように、主の愛と憐れみを知ること、体験していく中で、御言葉への信頼は深くされていくのであります。

さて、ギデオンは「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました」と言います。神を直接見たので死んでしまうのではないかと、大変恐れたのです。
けれども主は彼に「安心せよ。恐れるな。あなたは死ぬことはない」と言われます。
「安心せよ」「恐れるな」。これも又、あの復活されたイエスさまが弟子達の前に現れなさいます。そしてその開口一番「あなたがたに平安(平和)」があるように」とおっしゃったその愛と平和を弟子達が受け取っていくのです。
ここで何よりも大切なメッセージは「あなたと共にいる」とおっしゃるその主とわたしとの信頼関係です。その信頼関係の中でギデオンは主の勇者として用いられていくんですよね。

最後に、今日のこのギデオンの召命の記事を読んで思わされますのは、私たちもギデオンのように、どちらかといえば酒ぶねの中にひっそりと身を隠していたいように思えたり、自分が何の後ろ盾もなく、弱く小さいもののように思えるということがないだろうかということです。
そういう現実の中にあってなお大切なのは、主が慈しみをもってあるがままにわたしを受け入れ、共にいてくださる神さまとの信頼関係であります。

聖書は、あなたの弱さや欠けをもすべてをご存じの生ける神さまが、あるがままの私たち一人ひとりを愛し、受け入れ、共におられるというこの上もない祝福の約束と平安の道を、私たち一人ひとりに示しています。主は今日も私たち一人ひとりに救いの主との信頼関係の中でその一歩一歩を歩んでいくことを願っておられます。
「主があなたと共にいる。勇者よ」。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」申命記7:6-8

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