日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

天の故郷

2017-09-03 14:08:03 | メッセージ
礼拝宣教 ヘブライ11:1-16

本日は9月第一主日ということで、先に天に召された会員と会友を偲びつつ、召天者記念礼拝を主に捧げております。
先ほど、先に天に召された方々のお名前が呼ばれ、ご遺族のご紹介をさせていただきました。
私たちの信じる神は、天地万物をお造りになられ、今もすべ治め、生ける命も、又召された命も司っておられます。
私たちはその神のもとにある兄弟姉妹として故人を偲びつつ、その魂の神の御前における平安を祈ります。又、故人の愛するご遺族の方々の守りと導きを主に執り成しお祈りいたします。
この生ける神さまにある望みが、すべてのご遺族と、又ここに集われたみなさまのうえにございますよう祈念いたします。

本日は、ヘブライ人への手紙11章より御言葉を聞いてまいりますが。まずその冒頭1節で、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と、信仰の定義がなされております。この「見えない事実」というのを口語訳聖書では「まだ見ていない事実」と訳していますが。
2節にあるように、そのような「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」と説かれています。
神は天地万物をお造りになるその業の初めに、混沌とした闇に向かって「光あれ」と御言葉を発せられると、「光があった」と、創世記は語ります。
混沌とした闇に覆われた絶望的な世界に発せられた「光あれ」との御言葉は、事実又実体として存在するものとなった。こうして神は創造の業を始められたのです。
この神に望みをおき、信じて生きる。それが信仰であります。

さて、4節以降に、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラという5人の「信仰のゆえに、神に認められた人々」の紹介がなされています。
それは「信仰の先達のリスト」であるといえます。
先ほど私たちも大阪教会の召天会員会友の名簿に従って、そのお一人おひとりのお名前を読みあげさせていただきました。
お一人お一人の地上でのあゆみとご生涯はみなそれぞれ異なるものであったことでしょうが。
ただ、天地万物を創造し、生と死を司り治めたもう主なる神さまとその命に、主イエス・キリストによってつながるものとされた。そこに天の国のゆたかさと希望がございます。
アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラは、みな、その信仰によって神に認められたということですが。
彼らはそれぞれ人生の課題があり、目に見える現実は非常に厳しいものでしたけれども、主なる神への信仰を持ち続け、祈りつつ行動したのです。

まず、最初のアベルについてですが。
4節に「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」とありますけれども。

彼は神へのささげものをめぐり、嫉妬深い兄カインに妬まれて殺害されるという悲惨な最期を遂げました。しかし彼は「カインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明された」というのであります。
この「優れたいけにえ」とはどういう事でしょうか?それは献げもの自体のことではなく、そのおかれた状況の中で「如何に神に喜ばれるようにささげた」かという意味であります。
彼は大切にしていた羊の群の中から、最もふさわしいと思える肥えた初子を選び、神に献げました。アベルは神のみ前に喜びと犠牲をささげた。それは「信仰によって」最も善きものを神に献げたということです。彼は死んでも神の目に価高いものであり、彼の信仰の真実は今もこうして語り継がれています。
次に、エノクという人物ですが。
5節に「信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです」とあります。
創世記5章21節以降に、「エノクは65歳になったとき、メトシュラをもうけた。エノクは、メトシュラが生まれた後、300年『神と共に歩み』、息子や娘をもうけた。エノクは365年生きた。エノクは『神と共に歩み』、神が取られたのでいなくなった」とそう記されています。この年齢の標記については諸説あるところですが。ともあれここで強調されていますのは、エノクはその長い生涯において絶えず『神と共に歩んだ』ということです。「神に喜ばれる」あかしの日々があったということであります。ただここで単に生きがが幸いなことなのではなく、生涯が長くとも短くとも「神と共に歩む」ところに真の幸いがあるということであります。

さて、3番目のノアについては、次のように述べられています。
7節「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神にお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。

8月には礼拝で創世記のところから「大洪水とノアの箱舟の物語」を読みましたけれども。ノアは、「大洪水が地の表を覆う」と神からのお告げを受けたとき、人間的な思いとしていろいろな戸惑いがあったはずです。
なぜなら、十分な雨も降らないようなその所で地を覆う大洪水が起こるとは、想像を遥かに超えることでしたし、ましてや示されたような大きな箱舟を川からも海からも離れた自分の家の前で作るなど、常識では考えられないことでありました。
しかしノアは、そのまだ見ていない事柄、想像も及ばないような事柄を、信仰によって受けとり、行動に移すのです。
そこには心の内なる葛藤や外との闘いがあったに違いありません。
内陸で舟を造るなんて、当然世間の人びとにとってみれば馬鹿げた行為であります。神のときが訪れる迄の永い歳月、ノアはずっとそういった人々の冷たい視線や中傷にさらされ続けたことでありましょう。
ノアは想像を絶するような信仰の闘いの中で試みを受けました。しかしノアは信仰によって、まだ見ていない、神の約束の御言葉は必ずなる、実現することを日々確認しつつ、自らを神に従わせたのです。罪に満ちた世界で命をつないだ人間は、ノアとその箱舟に入った家族と様々な生き物たちだけでした。

四人目はアブラハムについてでありますが。
彼については2つの記述があります。
まず、8節に「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」とありますが。
しかし、創世記12章のアブラハムの召命と移住の記事を読んでみますと、彼が土地や財産を受けるために出ていったなどとは書かれていません。むしろ「父の家を離れて」いくということは、父の家の財産や土地を放棄するということを意味していたということです。
ですから、財産を受け継ぐことになる土地というのは、神の約束の財産、神の約束の土地ということなんですね。
アブラハムは、ただ主の言葉、「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」とのみ言葉に聞き従ったのであります。
彼は、目に見える保証が無いだけでなく、行き先も知らされずに、ただ主なる神の約束の言葉に自分を従わせ、信仰によって歩み出すのであります。

彼についてはさらに9節以降に、「信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、「神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」とあります。

アブラハムは、示されたカナンの地に実際に入ると、そこでは移動しながらの天幕を張り生活したのです。そこで定住することなく、いわば寄留者としての生活を送るのですね。それは、カナンという目に見える土地を仮の住まいとしながら、「神の建てたもう堅固な土台を持つ都を待ち望んでいた」からだと述べられています。

私たちは信仰の生活の中で、時に現実の厳しさを突きつけられます。神の御心を信仰持って踏み出したのに、思い描いたように行かない。思っていたのと全く違う。そういう信仰と現実の狭間で忍耐してなおも待ち望むことができるのは、主の御救いの約束は決して変わらない、との信仰の土台を頂いていればこそです。

アブラハムの信仰は、いまだ見ていない神の約束が、必ず成る、実現するという確信でありました。又、彼が待望していた神の都は、時や空間、又世の規範というような移ろいやすく、はかないものではなく、永遠の基礎を持ち、神の確かさによって設計され建設された都であったということであります。
アブラハムの信仰と祝福はその子孫等に受け継がれます。そして時至って主イエス・キリストによる救いの成就、実現により、今や世界中の人々、この私たちも、誰もが、信仰によって神の都に与れる者とされたのです。私たちは信仰の父祖アブラハムの祝福に接ぎ木されているのですね。

そして最後に登場するサラについてでありますが。
11節「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方である、と信じていたからです」と記されています。
彼女も又、人生の様々な苦しみや痛みを経験いたしましたが、その信仰によって多くの子孫の霊的母となったのです。

今日はアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラのそれぞれの信仰について少し丁寧に読んでまいりましたが。見落としてならないのは、13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」という言葉です。

彼らは「約束されたものを手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。よく人生は旅にたとえられますが。神を信じる者はその人生の目的地がはっきりとしています。

16節、「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。「神は彼らのために都を準備されていたからです」。

先ほどのアブラハムはじめ信仰の父祖たちもそれぞれに、自分の人生に願望や目標をもって歩んでいました。しかし彼らは、たとえそれをこの地上にいる間見ることができなかったとしても、やがて必ず実現する。神の約束の言葉の成就を信じ、望みながら、最終的目的地である天の故郷を熱望し、生きぬいた。何となく「死んだら天国に行くからこの人生はどうでもいい」というのとは違うんですね。神の約束を信じ望んでいるからこそ、この地上の人生を確かな足取りで歩み通していけたんですよね。
神は、そのような彼らを誇りとし、彼らのために天の故郷、天の都を準備していてくださるお方なのです。

さて、イエス・キリストを信じている者にとっての神の約束とは何でしょうか。
それは、キリストによる罪の滅びからの救いです。助け手である聖霊の執り成しと導き、さらなるキリストの復活に与る永遠の命の希望であります。
キリストを信じ受け入れた者は、真に幸いなことに、この人となられた神の子イエス・キリストを通して、先ほどの旧約聖書からの「祝福」を受け継ぐ者とされているのです。

その主イエス・キリストはこのように約束されています。
ヨハネ14章1-3節。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しにいくと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。
それは今やすべての人に対して、救い主イエス・キリストによって「天の故郷」への道が開かれているということであります。

本日は特に、先に天に召された私たちの信仰の先達を偲びつつ、主イエス・キリストにある「希望」を、確認させて頂いておりますが。 

信仰の模範者として列挙されたアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラと私どもの信仰は比べられるものではありません。
けれども。「神の救いの確信」と「生ける神との信頼関係」の中で、生涯の目的をもって生きる。それが有るか、無いかとでは雲泥の差がございます。
からし種一粒ほどの微々たるちっぽけな信仰であっても、その信仰を保ち続けて生きる時、神さまは「天の故郷」に通じる人生の道を整え導いて下さいます。虚しき人生に終らない私たちの希望がそこにございます。

最後に、ヘブライ12章1~2節をお読みして宣教を閉じます。
「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

主なる神さまは今日も、私たちに確かな約束を受け取って歩んでいくように、と招いておられます。全世界に与えられたこの福音を今日受け取って、ゆたかな人生を共に歩んでまいりましょう。祈ります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする