礼拝宣教 ヨブ記19章
今月は、来週が「SOUND CLOSERVOL.10」コンサート、再来週が木下春樹先生(網干キリスト教会牧師・国立音大卒フルート演奏者、児童養護施設長)をお迎えしての特別礼拝&昼下がりのコンサート、第五週が賛美&あかしの礼拝(青年主催)と行事が盛り沢山です。祈りつつ、主に期待しております。
さて、本日はヨブ記19章より「正しい者がなぜ?」と題し、御言葉に聞いていきます。
それまでの流れを少しおさらいしますと。最愛の息子娘と財産を失うという苦難に見舞われたヨブでしたが。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神を賛美します。
ところが2章ではさらなる試練に遭い、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に罹り、素焼きのかけらで体中をかきむしって自分自身の体に大変な苦痛を受けるのであります。
そういう中でヨブは妻から「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」といわれるのですが、それでもヨブは「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って「神を非難せず、罪を犯さなかった」と記されています。
主がサタンに「ヨブは無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」とおっしゃったことがここでもまた証明されることになるのでありますが。
さて一方で、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞いて見舞い、慰めようとそれぞれの国からやって来た3人の友は、ヨブの激しい苦痛を見ると、嘆きの声をあげ、塵をかぶって七日七晩、ヨブと共に地面に座って、話しかけることもできなかったのですが。
しかしヨブは、どんな言葉よりも唯黙って側に居て、自分の痛みを思いやってくれる友の存在にどんなに慰めを得ていたことでしょうか。
「神になり代わる友」
ところが、そのヨブも苦痛が長引くと、遂に口を開いて「自分の生れた日を呪い」、神のみ前に自分のうちにあるあらゆる思いをさらけ出します。
するとそれまで、ただ激しい苦痛に見まわれるヨブの傍らに無言で座っていたエリファズ、ビルダド、ツォファルの3人の友らは、まるで何かのスイッチが入ったかのように、ヨブに対して議論を吹きかけ始めるのです。
それはあたかも自分たちが神に成り代わったかのような口調でした。少なくともヨブにはそう聞こえたのです。口では立派なことをいいながらヨブを断罪し、責め立てるように彼らは熱弁をふるいました。
たとえば、「神の懲らしめを受ける人は幸いだ」とか。「あなたの子らが神に対して過ちを犯したから、そういう事態になったのだ」とか。さらには「あなたが悔い改め不正を正していくなら、もう晴れ晴れと顔を上げ恐怖にとらわれないで平安になるだろう」とか。一見信仰的に聞こえるこれらの言葉ですが、しかしそれがヨブの魂を苦しめ、痛みを与えていくことになるのです。
本日の19章は、友人ビルダドが投げかけた議論にヨブが答えているのですが。
まずヨブは、3人の友らがその言葉をもって、自分の魂を苦しめ、侮辱し虐げていることを訴えます。
この3人の友が共通して主張しているのは、「ヨブの災難はヨブに原因があり、ヨブが犯した罪がその罰として及んでいる」と言うものでした。
それに対してヨブは、「断じて罪を犯していない」「苦痛に価するようなことはしていない」と友らに反論していくのでありますが。
ここで彼は100歩譲って、いやそれ以上に譲ってこう言うのです。
「わたしが過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。ところが、あなたたちは、わたしの受けている辱めを誇張して論難しようとする」と。
つまりヨブの過ちはヨブの問題であり、友人たちは口出しをしたり、ヨブを非難し、断罪する権利はない、ということですね。
このヨブの場合はっきりしていることは、神がヨブを悪人と呼ばれたことは一度もないということです。ヨブに咎や恥ずべき行いはありません。それどころか、ヨブは「正しい人として生きている」と主はおっしゃっているんですね。
神がそうであられるのに人である3人の友らは、ヨブが正しい人として生きているならこのような災いがふりかかることなどない。きっと彼に問題の種があるから起こっているに違いないというんです。まあ言ってみれば、因果応報律によって災難の原因を探し出し、ヨブを責めているのですね。
因果応報とは、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」ということです。
確かにそういったことはあるでしょうが。しかし、それは神の領域です。人がそれを解釈しあてはめようとするなら矛盾が起こるでしょう。
ヨブのように「正しい者になぜ災いがふりかかるのか」ということについてのそれは回答になり得ないからです。
私たちの現実の世界においても、無垢で正しい者に災難や災いがふりかかるようなことがあります。そのことをたとえ身近な人であれ、因果応報によって説明づけようとすればどうなるでしょうか。それはその災いや災難を被っている人の心を苛み、苦しめ、深い傷と禍根を残していくことになるでしょう。
ヨブがここで言っているのは、たとえ自分に過ちが(それが無意識のうちにも)あったとしても、その問題は自分の問題であり、友たちが因果応報による説明でもって「おまえのうちに罪があるからこうなったんだ。悔い改めろ」と言われる筋合いのものではないということなのです。
こういう事は私たちの人間関係の中にも実際に起こり得ることではないでしょうか。
その人自身の問題、当事者同士の問題であるのに、他者が思いやりや配慮の欠いた介入をしてしまうことによって、心痛み、その問題がかえってこじれて人間関係が崩れてしまうことがございます。
ヨブの場合、信仰の友でもあった3人の友らの言葉は、ヨブの心にさらに深い苦痛を与えるものだけであったのです。
「傾聴」
では、苦難の状況下にあったヨブが必要としていたことは何だったのでしょう。
それは、今日のこのやりとりの後の21章冒頭のところで、3人の友らに向けてヨブがこう答えているんですね。
「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。我慢して、わたしに話させてくれ。わたしが話してから、嘲笑うがいい」と。
ここには、私たちの日常における人と人との関係における問題について示唆に富むことが記されています。
ヨブにとって何よりも必要だったのは、自分の思いを聞いてくれる友だったんですね。ただ側にいて聞いてくれることがどんなにヨブにとって慰めと平安となったかということです。
たとえばヨブのようにどん底に落ち込んでしまった友人や知人を前にすると、何か慰めになるような言葉を見つけて語らないと、という思いに駆られるようなことはないでしょうか。けれどそれが、祈りもなく、唯口先だけのものになってしまうのなら虚しいだけです。さらにそこに思いやりに欠いた強い自己主張が入ったなら、その相手をさらに傷つけてしまうことも十分あり得るのです。
たとえば、もうこれ以上頑張りようのないほど頑張っている人に対して、「頑張れ」ということばは酷ですよね。ヨブが「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ、聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。我慢して、わたしに話をさせてくれ」と言った言葉を心に留めたいと思います。まずはじっくりと話を聞くことの大切さ。また聞いてくれる友をもつことの慰め。そういった関係性を対話の中に祈り求めたいものです。
「ヨブの孤独」
さて、そのヨブ自身のことですが。彼がもし何か悪事を行なっていたのなら、自らを責め、神の前に悔い改めたことでしょう。しかし彼は日々神を畏れ、敬い、罪から遠ざかって歩んでいた。何ら心責められられることは思い当たりません。次々と凄まじい災難がふりかかって来ることに対して、ヨブは当然「正しい者がなぜ?」という問いと深い嘆きに苦悩し続けるほかなかったのです。
本日の6節から22節には、その思いを直接神御自身にぶつけていくヨブの姿があります。「神がわたしに対して非道な振舞をしている」「怒りを燃やし、苦しめ、敵とされている」「神が兄弟を遠ざけ、知人を引き離した、親族もわたしを見捨て、友だちもわたしを忘れた」「わたしの家に身を寄せている男や女すらわたしをよそ者とし、敵視する」「妻に嫌われ、子供にも憎まれ、幼子もわたしを拒み、親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった」などと、切々と神への訴えと嘆きが続くのであります。
ここを読みますと、地上におけるありとあらゆる関係性が断ち切られしまったことへの嘆き。さらに22節にあるように、友である3人に「なぜ、あなたたちまで神と一緒になってわたしを追い詰めるのか」と訴えているように、ヨブの深い孤独の極みともいえる心情が語られいます。
彼は自分の正しさ、無罪の主張を弁護し、助けてくれる存在がいないという絶望に陥るのですね。
「主に祈れる望み」
そういう中、彼は23節で無罪について確信に基づき、「どうかわたしの言葉が書留められるように、それがいつまでも残る碑文として刻まれるように」と神に祈るように訴えるのであります。
25節「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついに塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」
ヨブは後の日には、それは彼の生きている間か、その生涯を終えた後なのかはわかりませんが。必ずや、きっと、「贖う方」が自分の「正しさ」「無罪」を立証してくださるであろう、という望みを堅く握っていたということを、この訴えは示しています。
さらに言えば、「贖う方」つまり、たとえヨブに非があったとしても最終的には、すべてを受けて解放をもたらして下さるであろう主に、ヨブは望みをかけていたんですね。「神はすべてをご存じである」。これこそがヨブの唯一つの、しかし確かな希望であったのです。
まさにそれはヘブライ人への手紙11章1節の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」との御言葉そのもののような信仰の祈りであったといえるでしょう。
ヨブは自分の痛み、苦しさを神にぶつけながらも、「神を仰ぎ見る」「神を自分の目で見る」と、3度も繰り返して口にしてそのように祈るんですね。
その祈りに対する神からのお答えについては、今月の第五週42章の御言葉から聴いていくことになるのでありますが。
本日は「正しい者がなぜ?」という宣教題のもと御言葉を聞いてきましたが。その正しい者がなぜ災いに遭うのか?という問いに対して聖書は即答していません。
ただこの19章から読み取れますのは、最悪ともいえるような状況に至ってもなおヨブに「わたしは神を仰ぎ見る」と、祈る希望が残されていた、ということであります。
翻って、私たちも日々の生活の中で「なぜ?」と思うような、まあヨブに比べれば小さななぜ、なぜ、なぜが、又人生、時には大きな「なぜ」という出来事があるかも知れません。
そんな時、このヨブが主なる神に全身全霊をかけて訴え、祈った祈りが自分の祈りとなり、神への信頼が生きる力となりますようにと願うものです。
神の御子イエスさま御自身が、十字架上で「なぜ」と絶叫しながら執り成し、贖ってくださったその救いの御業に信頼し、今日もここから遣わされてまいりましょう。
今月は、来週が「SOUND CLOSERVOL.10」コンサート、再来週が木下春樹先生(網干キリスト教会牧師・国立音大卒フルート演奏者、児童養護施設長)をお迎えしての特別礼拝&昼下がりのコンサート、第五週が賛美&あかしの礼拝(青年主催)と行事が盛り沢山です。祈りつつ、主に期待しております。
さて、本日はヨブ記19章より「正しい者がなぜ?」と題し、御言葉に聞いていきます。
それまでの流れを少しおさらいしますと。最愛の息子娘と財産を失うという苦難に見舞われたヨブでしたが。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神を賛美します。
ところが2章ではさらなる試練に遭い、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病に罹り、素焼きのかけらで体中をかきむしって自分自身の体に大変な苦痛を受けるのであります。
そういう中でヨブは妻から「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」といわれるのですが、それでもヨブは「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って「神を非難せず、罪を犯さなかった」と記されています。
主がサタンに「ヨブは無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」とおっしゃったことがここでもまた証明されることになるのでありますが。
さて一方で、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞いて見舞い、慰めようとそれぞれの国からやって来た3人の友は、ヨブの激しい苦痛を見ると、嘆きの声をあげ、塵をかぶって七日七晩、ヨブと共に地面に座って、話しかけることもできなかったのですが。
しかしヨブは、どんな言葉よりも唯黙って側に居て、自分の痛みを思いやってくれる友の存在にどんなに慰めを得ていたことでしょうか。
「神になり代わる友」
ところが、そのヨブも苦痛が長引くと、遂に口を開いて「自分の生れた日を呪い」、神のみ前に自分のうちにあるあらゆる思いをさらけ出します。
するとそれまで、ただ激しい苦痛に見まわれるヨブの傍らに無言で座っていたエリファズ、ビルダド、ツォファルの3人の友らは、まるで何かのスイッチが入ったかのように、ヨブに対して議論を吹きかけ始めるのです。
それはあたかも自分たちが神に成り代わったかのような口調でした。少なくともヨブにはそう聞こえたのです。口では立派なことをいいながらヨブを断罪し、責め立てるように彼らは熱弁をふるいました。
たとえば、「神の懲らしめを受ける人は幸いだ」とか。「あなたの子らが神に対して過ちを犯したから、そういう事態になったのだ」とか。さらには「あなたが悔い改め不正を正していくなら、もう晴れ晴れと顔を上げ恐怖にとらわれないで平安になるだろう」とか。一見信仰的に聞こえるこれらの言葉ですが、しかしそれがヨブの魂を苦しめ、痛みを与えていくことになるのです。
本日の19章は、友人ビルダドが投げかけた議論にヨブが答えているのですが。
まずヨブは、3人の友らがその言葉をもって、自分の魂を苦しめ、侮辱し虐げていることを訴えます。
この3人の友が共通して主張しているのは、「ヨブの災難はヨブに原因があり、ヨブが犯した罪がその罰として及んでいる」と言うものでした。
それに対してヨブは、「断じて罪を犯していない」「苦痛に価するようなことはしていない」と友らに反論していくのでありますが。
ここで彼は100歩譲って、いやそれ以上に譲ってこう言うのです。
「わたしが過ちを犯したのが事実だとしても、その過ちはわたし個人にとどまるのみだ。ところが、あなたたちは、わたしの受けている辱めを誇張して論難しようとする」と。
つまりヨブの過ちはヨブの問題であり、友人たちは口出しをしたり、ヨブを非難し、断罪する権利はない、ということですね。
このヨブの場合はっきりしていることは、神がヨブを悪人と呼ばれたことは一度もないということです。ヨブに咎や恥ずべき行いはありません。それどころか、ヨブは「正しい人として生きている」と主はおっしゃっているんですね。
神がそうであられるのに人である3人の友らは、ヨブが正しい人として生きているならこのような災いがふりかかることなどない。きっと彼に問題の種があるから起こっているに違いないというんです。まあ言ってみれば、因果応報律によって災難の原因を探し出し、ヨブを責めているのですね。
因果応報とは、「人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある」ということです。
確かにそういったことはあるでしょうが。しかし、それは神の領域です。人がそれを解釈しあてはめようとするなら矛盾が起こるでしょう。
ヨブのように「正しい者になぜ災いがふりかかるのか」ということについてのそれは回答になり得ないからです。
私たちの現実の世界においても、無垢で正しい者に災難や災いがふりかかるようなことがあります。そのことをたとえ身近な人であれ、因果応報によって説明づけようとすればどうなるでしょうか。それはその災いや災難を被っている人の心を苛み、苦しめ、深い傷と禍根を残していくことになるでしょう。
ヨブがここで言っているのは、たとえ自分に過ちが(それが無意識のうちにも)あったとしても、その問題は自分の問題であり、友たちが因果応報による説明でもって「おまえのうちに罪があるからこうなったんだ。悔い改めろ」と言われる筋合いのものではないということなのです。
こういう事は私たちの人間関係の中にも実際に起こり得ることではないでしょうか。
その人自身の問題、当事者同士の問題であるのに、他者が思いやりや配慮の欠いた介入をしてしまうことによって、心痛み、その問題がかえってこじれて人間関係が崩れてしまうことがございます。
ヨブの場合、信仰の友でもあった3人の友らの言葉は、ヨブの心にさらに深い苦痛を与えるものだけであったのです。
「傾聴」
では、苦難の状況下にあったヨブが必要としていたことは何だったのでしょう。
それは、今日のこのやりとりの後の21章冒頭のところで、3人の友らに向けてヨブがこう答えているんですね。
「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。我慢して、わたしに話させてくれ。わたしが話してから、嘲笑うがいい」と。
ここには、私たちの日常における人と人との関係における問題について示唆に富むことが記されています。
ヨブにとって何よりも必要だったのは、自分の思いを聞いてくれる友だったんですね。ただ側にいて聞いてくれることがどんなにヨブにとって慰めと平安となったかということです。
たとえばヨブのようにどん底に落ち込んでしまった友人や知人を前にすると、何か慰めになるような言葉を見つけて語らないと、という思いに駆られるようなことはないでしょうか。けれどそれが、祈りもなく、唯口先だけのものになってしまうのなら虚しいだけです。さらにそこに思いやりに欠いた強い自己主張が入ったなら、その相手をさらに傷つけてしまうことも十分あり得るのです。
たとえば、もうこれ以上頑張りようのないほど頑張っている人に対して、「頑張れ」ということばは酷ですよね。ヨブが「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ、聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ。我慢して、わたしに話をさせてくれ」と言った言葉を心に留めたいと思います。まずはじっくりと話を聞くことの大切さ。また聞いてくれる友をもつことの慰め。そういった関係性を対話の中に祈り求めたいものです。
「ヨブの孤独」
さて、そのヨブ自身のことですが。彼がもし何か悪事を行なっていたのなら、自らを責め、神の前に悔い改めたことでしょう。しかし彼は日々神を畏れ、敬い、罪から遠ざかって歩んでいた。何ら心責められられることは思い当たりません。次々と凄まじい災難がふりかかって来ることに対して、ヨブは当然「正しい者がなぜ?」という問いと深い嘆きに苦悩し続けるほかなかったのです。
本日の6節から22節には、その思いを直接神御自身にぶつけていくヨブの姿があります。「神がわたしに対して非道な振舞をしている」「怒りを燃やし、苦しめ、敵とされている」「神が兄弟を遠ざけ、知人を引き離した、親族もわたしを見捨て、友だちもわたしを忘れた」「わたしの家に身を寄せている男や女すらわたしをよそ者とし、敵視する」「妻に嫌われ、子供にも憎まれ、幼子もわたしを拒み、親友のすべてに忌み嫌われ、愛していた人々にも背かれてしまった」などと、切々と神への訴えと嘆きが続くのであります。
ここを読みますと、地上におけるありとあらゆる関係性が断ち切られしまったことへの嘆き。さらに22節にあるように、友である3人に「なぜ、あなたたちまで神と一緒になってわたしを追い詰めるのか」と訴えているように、ヨブの深い孤独の極みともいえる心情が語られいます。
彼は自分の正しさ、無罪の主張を弁護し、助けてくれる存在がいないという絶望に陥るのですね。
「主に祈れる望み」
そういう中、彼は23節で無罪について確信に基づき、「どうかわたしの言葉が書留められるように、それがいつまでも残る碑文として刻まれるように」と神に祈るように訴えるのであります。
25節「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついに塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」
ヨブは後の日には、それは彼の生きている間か、その生涯を終えた後なのかはわかりませんが。必ずや、きっと、「贖う方」が自分の「正しさ」「無罪」を立証してくださるであろう、という望みを堅く握っていたということを、この訴えは示しています。
さらに言えば、「贖う方」つまり、たとえヨブに非があったとしても最終的には、すべてを受けて解放をもたらして下さるであろう主に、ヨブは望みをかけていたんですね。「神はすべてをご存じである」。これこそがヨブの唯一つの、しかし確かな希望であったのです。
まさにそれはヘブライ人への手紙11章1節の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」との御言葉そのもののような信仰の祈りであったといえるでしょう。
ヨブは自分の痛み、苦しさを神にぶつけながらも、「神を仰ぎ見る」「神を自分の目で見る」と、3度も繰り返して口にしてそのように祈るんですね。
その祈りに対する神からのお答えについては、今月の第五週42章の御言葉から聴いていくことになるのでありますが。
本日は「正しい者がなぜ?」という宣教題のもと御言葉を聞いてきましたが。その正しい者がなぜ災いに遭うのか?という問いに対して聖書は即答していません。
ただこの19章から読み取れますのは、最悪ともいえるような状況に至ってもなおヨブに「わたしは神を仰ぎ見る」と、祈る希望が残されていた、ということであります。
翻って、私たちも日々の生活の中で「なぜ?」と思うような、まあヨブに比べれば小さななぜ、なぜ、なぜが、又人生、時には大きな「なぜ」という出来事があるかも知れません。
そんな時、このヨブが主なる神に全身全霊をかけて訴え、祈った祈りが自分の祈りとなり、神への信頼が生きる力となりますようにと願うものです。
神の御子イエスさま御自身が、十字架上で「なぜ」と絶叫しながら執り成し、贖ってくださったその救いの御業に信頼し、今日もここから遣わされてまいりましょう。