日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

人知を超えた神の御計画

2017-11-12 16:23:59 | メッセージ
礼拝宣教 イザヤ44:24-45:7 バプテスト福祉ディ
              
私どもの3代目の新会堂が建築されて今月で丁度4年を迎えました。新しい教会堂となってから様々な方々との出会いが多く与えられていることは喜びであり、感謝です。特にアジアの諸国から若い青年たちがこの教会の礼拝に集い主にある交わりを与えられていることは喜びであります。
又、新会堂が建ってからほんとうに様々な企画が興されるようになり、特別集会やコンサート、音楽劇等の催し等も開かれて、連合・連盟の集会等も含め、毎日のようにこの教会に足を運ばれる方々が起こされています。
来週もハワイのバプテスト教会の伝道隊が来られてゴスペルフラ&証の特別集会がもたれます。これらはすべて主のお導きによるものだと本当に思わされます。

本日は、バプテスト福祉ディとして京都の「バプテストホーム」、福岡の「久山療育園」、さらに大牟田の「敬愛園」、大阪のしんもり福祉会の「平和の子保育園」を礼拝で覚えます。
主イエスは、神の慈愛の現れとして、世に小さくされている人と共に歩まれ、救いと解放を宣言されました。今後も主イエスにあるバプテストの精神を引き継ぐこれらの事業をもって、主と人に仕えていかれることを願い、私たちも支え、お祈りに覚えてまいりたいと思います。

これらの活動、又先程の教会の様々な出会いと働きのすべては、伝道や福音を分かち合うこと。そしてそれは、主の御心である「いのちと和解による平和の実現」という方向性をもっています。たとえ小さくともそれらを分ち合い共有していくところに「人知を越えた神の御計画」に参与していく道が備えられています。

先程イザヤ書の44章24節から45章7節にかけて読まれましたが、今日はこのところから「人知を超えた神の御計画」と題し、御言葉に聴いていきたいと思います。

①「主は言われる」との声に聞き続ける。
イスラエルの民の一部を南ユダから捕囚として連行したバビロニア帝国。しかしその繁栄は、後に頭角を現したペルシャ帝国の王キュロスによって崩壊していきます。
そのことによってイスラエルの民は永きに亘る囚われと苦しみの生活から解放されるのですね。そうしてエルサレムの故郷に帰り、神の民としての国を再建していく道が拓かれていくのであります。

44章28節には「キュロスに向かって、わたしの牧者 わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建されると言い 神殿には基が置かれる、と言う」と預言されています。

ペルシャのキュロス王が、バビロンを滅ぼし権力を得たのは、(ここか肝心なのですが)、神がイスラエルの捕囚の民を解放し救い出すためだ。キュロスをお立てになった主なる神さまの御計画である、と語ります。
しかしイスラエルの民にとって、そんな外国の王を神さまがお用いになるなど聞いても信じがたいことだったでしょう。それは彼らの理解を遙かに超えるものだったからです。
救いは民の中から「神に油注がれた人」が起こされることによって実現していくのだ。そう彼らは考えていたのです。しかし、神はイスラエルの民だけの神ではなく、44章
24節にあるように「天地万物の創造の神、全世界の主」なのです。
民の解放の出来事は、そのような「万物の造り主」「贖い主」なる神の御計画によって成し遂げられていくのであります。
今日の箇所を読みますと「主は言われる」「わたしは主」と、主なる神さまが主体となっている言葉が何度も何度も出てまいります。
すべての出来事は「主の先立ちと導き」「主の御手のうちにある」「主が司っておられる」。私たちは目先のことしか考えられなくても、すべての出来事の中に主は働いておられるのです。

②「恐れからの解放と主の平安」
さて、バビロンという地にあって、25節にあるように、捕囚とされていたイスラエルの民の中には「占師」や「知者」に心惹かれ、神のように崇める人々も多くいたようです。その背景には捕囚の民の抱えている恐れや不安があったからです。
まあバビロニアの捕囚は半世紀にも及び、それもペルシャに移りゆく中で、どんなにか人々は異教の地における先の見えない不安と恐れを抱えていたことでしょう。
そういう状況の中で、目に見える保証や答が欲しいといった弱みにつけ込んで「むなしいしるしを告げる者」がいたのですね。

今の私たちを取り囲む社会においても、経済、社会、家庭、自分の問題と不安や恐れが尽きません。そういった時に、カリスマ的な人が現れてすぐに見える形でその解決方を明快に出してくれるとしたら、どんなにか飛びつきたいという思いになるでしょう。
けれども所詮それは人の知恵に過ぎず、25節にあるとおり「主は知者を退けてその知識を愚かなものとされる」のです。
人の知恵も知識も限界があり、移ろいゆくものですが、万物を創造された神の御計画
は揺るぎないものです。その主の御言葉に聞き、信頼をもって生きていくところに、
「恐れと不安」を解き放つ「主の平安」があるのです。

③「人知を超えた神の御計画」
先にイスラエルの捕囚の民が偶像と滅びから解放されるために主が外国の王キュロスをお用いになったと申しましたが。私たちも自分が予期しない形で神さまの働きが起こるということがあるでしょう。しかし私たちは自分の予期しない形で神さまの働きが起こった時に、受け入れ難くなってはいないでしょうか。自分の計画が思い通りに実現することこそ最善だと思いがちではないでしょうか。
45章2-3節にはこう記されています。
「わたしはあなたの前に行き。(「あなた」とはイスラエルの民であり今の主にある私たち一人ひとりのことです)山々を平らにし 青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを折り、
暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる。わたしは
主、あなたの名を呼ぶ者。イスラエルの神である、と。」

主こそが私たち一人ひとりの最善を導き出すことがおできになるのです。安易に占い
やカリスマ性をもった人や物に頼るのではなく、又自分の考えや思いどおりに行かないと不満や心配を抱え込むのではなく、主があらゆる手を尽くし、様々な手段を用いてくださる。その最善になしたもう主に信頼する。そこにこそ力がある、と言っているのですね。
又、この「暗闇」とは、移りゆく状況の中での人々の恐れと不安を表しているのでしょう。さらに「隠された富」」というのも、どこに救いがあるのかと探すも見出せない。そういった状態を表しているのでしょう。
しかし、主はこのような暗闇と思える所、救いはどこにあるのかいえる所に、明るい所では見いだせない宝や富を見出すことができる、と言うのですね。
その「宝」と「富」とは3節にありますように、「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者と言われる」神御自身のことであります。「それをあなたは知るようになる」とおっしゃるのです。

戻りますが43章1節以降には預言者イザヤを通して次のように告げられています。
「恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」「わたしの目にあなたは価高く、貴い」。

バビロニアの地に捕囚として連行されたイスラエルの民らは、かの地で人としての尊厳を損なわれるような状況におかれてきました。
人は世の価値観で人の価値あるかどうかを判断し評価します。しかし、造り主であられる神さまは「わたしがあなたを贖い、愛するからこそあなたは価高く、貴い」とおっしゃるんです。
私たちは暗闇で主なる神とその御救いという宝を見出すのでありますが。ここでは主が私たちを宝として見出してくださるのですね。主は私たちを十字架で流された血によって滅びと囚われから贖いとってくださいました。その主が私を御自分の宝として愛してくださる。それこそ良き知らせ、福音であります。
「わたしがあなたを贖い、愛するからこそあなたは価高く、貴い。」
今日も私の名を呼び、宝としてくださる主に信頼し、歩んでまいりたいと願うものであります。

最後に7節にこう語られています。
「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである。」

ここで示されていることは、主なる神さまは光だけでなく、闇をもお造りになられたということであります。闇はサタンが造ったと思いがちですが、主が創造されたものなんですね。又、平和をもたらされる主は災いをも造られるというのですね。
このイザヤ書を読む前に読んだヨブ記もそうでしたが。人の目に良い事、悪い事と思える出来事も、すべては神のご経綸、「人知を超えた神の御計画」の中におかれている、ということがこのイザヤ、ヨブもそうですが、語られているのであります。

主イエスの救いと解放、贖いによって神の宝とされている私たちも又、「暗闇のような状況の中だからこそ見出し得る、そこに置かれた宝、隠された富」に与っていく者とされてまいりましょう。

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