主日礼拝宣教 イザヤ40・1-8
一昨日と昨日は台湾の音楽劇と台湾より蔡焜霖さんを迎えての貴重なトークライブが行なわれました。長い戒厳令が解かれてもなお言論の自由と民主化が封鎖されていた時代、最期までその自由と解放を訴え続けた台北市の鄭南榕さんの音楽劇、又、長い戒厳令下で弾圧を受けたご経験のある蔡焜霖さんを迎え、貴重な証言をとおして台湾の歴史から「言論の自由」や「民主主義」の尊さについて知り、学ぶ機会となりました。
それは何か異国の遠い過去の話ではなく、私たちの信仰の自由、福音宣教の自由と深く関わり、又、広い意味でのすべての人の尊厳や思想信条の自由と関わることです。
このような今の時代だからこそ、改めていのちと平和の大切さについて考え、平和を次の世代に引き継いでいく。そんな願いをあらたにいたしました。
神の創造の業であるひとり一人の命の尊厳。この世界にはそれを圧迫し損なわせる力と、それを保ち取り戻そうとする意志が働いています。
今日から読みますイザヤ書の中に語られるいのちと平和、そして希望の呼びかけに耳を傾けてまいりたいと願っております。
「希望の宣言」
今日は一気に40章となりましたので少々戸惑いを覚える方もおられるでしょうが。
このイザヤ書40章は、イスラエルの南ユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、多くの者がその捕囚とされた時代。この民の中から主に召し出された第二イザヤとされる人物によって書かれたものとされています。バビロニアの地で捕囚として生きるほかなかった人々と、南ユダの崩壊した都エルサレムに残された民。彼らへのそのメッセージの核心は、「神の救いと回復の希望」であります。
それはやがてその長い年月を経た後、遂に主の導きによる捕囚の人々のエルサレムへの帰還という形で実現されていくのでありますが。それは今日の2節に「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを受けた」との先立つ宣言が成就するのであります。もはや、神の激しい憤りと裁きの時代は終わり、神から慰めを受ける新しい時代が始まるのであります。
エルサレムの滅亡以降、神から見捨てられた者のようであった捕囚の民と南ユダに残された民。その彼らに主は1節にございますように、第二イザヤを通して「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と語られます。この「わたしの民」という呼びかけにどれ程彼らは救われたことかと思うのでありますが。
さらに2節で、「エルサレムの心に語りかけ 彼女(エルサレムのことですね)に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と」いう語りかけがなされています。
これは神の御心に背を向け滅びを招いたことへの後悔と未だ厳しい現実の中にある、主の民に向けての先立つ主の解放の宣言であります。しかし、全く先行きが描けない人々。将来に希望が持てない人々が、。どうしてこの言葉を「解放の宣言」「希望の言葉」と受け取ることができるでしょうか。
新約聖書ヘブライ書11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありますが。創世記の天地創造のところも同様ですが、神の言葉はその発せられたときに、すでにそのとおりに成った、と確信し、そのみ言葉に立って、未だ見えないけれども、もうそれを得たように生きていくところに、主の御業は現されていくのです。
私たちはときに厳しい現実を突きつけられることもございます。
常識や人間的な理解では到底困難といえるような問題を前にして、祈る思いまでも削がれてしまうようなこともございます。
けれども、こんなときに聖書なんか読んでる場合じゃないとか、如何に現実がどうであろうとも、神はすべて知っておられる。神の言葉は生きており、力がある。そう信じて、3節のように「呼びかけるみ声に聴いていく」なら、荒野に道が備えられ、荒れ地に道が切り拓かれるような出来事が起こされてくる。山も谷も平らとなるような「主の栄光が現わされ」てくる。私たちはそれを見ることが出来るというのです。
その5節の「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」の「現れる」とは、「隠されていたものが顕わになる」という意味であります。
かたくなに神さまの愛とゆるしを拒む人には、神の栄光は隠れていて見ることができません。しかし、神さまの愛とゆるしに向き直り、それを受け入れた人には、神さまのお働きがあらわにされ、それを体験して生きる道が与えられるのです。
「神の言葉はとこしえに立つ」
6節~8節には「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けるのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という有名な聖句がありますが。
パレスチナ地方では4月頃、東から吹く強い熱風によって植物が枯れることがあるそうです。この風はとても乾燥している上に砂を伴うと約3、4日ですべての植物が枯れるほど強力だということですが。それと、主の風が吹きつけると人の世の命はなんとはかないことか、ということを重ねているようです。
平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり云々」という言葉がございますが。この世界がいくら人工知能が発達し、人体機能に効く万能薬が開発されて人の寿命を長く伸ばすことができたとしても、人には必ず死が訪れます。こればかりは天地万物を造り、すべ治めておられる主なる神によって人は生かされている存在であるからです。
私たち人間は肉なる存在として弱さやもろさをもつ者、有限的な者でありますが、主なる神さまは、そんな私たちの何もかもを知っておられ、見ておられます。
私たちは人の痛みや苦しみを自分で体感することはできません。苦しみ痛む人の代りになることもできません。しかし、主なる神さまだけはすべてをご存じであられ、人のあらゆる苦しみ痛みをも知っておられるお方なのです。
キリストの苦難と贖いの十字架を見上げるとき、私たちはそれが真実であることを知らされる者であります。
おごれる者も久しからずや。この地上に名を残すようないかなる栄華を極めた王や英雄や勇者であっても、草や花が枯れしぼむのと同様、例外なくいずれは皆朽ち果てていきます。この地上のもの、肉なるものを頼みとしてそれにしがみつき、固執することは真に虚しいことであります。
新約聖書のヨハネ第一の手紙2章17節には、「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と記されています。「神の御心を行なう人は永遠に生き続ける」。アーメン、これこそ朽ちることのない神の希望の言葉ですね。
私たち肉に属するものは朽ちていきますが、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。
神さまは私たちの世の虚しさ、荒れ野のような私の人生にも希望の道を備え、永遠の命に通じるその道を拓いて、その「真理の御言葉」によって歩ませてくださるのです。
ここに真の「希望の道」がございます。
最後に10節-11節とイエスさまの御言葉を読んで本日の宣教を閉じます。
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前に進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13章31節)
一昨日と昨日は台湾の音楽劇と台湾より蔡焜霖さんを迎えての貴重なトークライブが行なわれました。長い戒厳令が解かれてもなお言論の自由と民主化が封鎖されていた時代、最期までその自由と解放を訴え続けた台北市の鄭南榕さんの音楽劇、又、長い戒厳令下で弾圧を受けたご経験のある蔡焜霖さんを迎え、貴重な証言をとおして台湾の歴史から「言論の自由」や「民主主義」の尊さについて知り、学ぶ機会となりました。
それは何か異国の遠い過去の話ではなく、私たちの信仰の自由、福音宣教の自由と深く関わり、又、広い意味でのすべての人の尊厳や思想信条の自由と関わることです。
このような今の時代だからこそ、改めていのちと平和の大切さについて考え、平和を次の世代に引き継いでいく。そんな願いをあらたにいたしました。
神の創造の業であるひとり一人の命の尊厳。この世界にはそれを圧迫し損なわせる力と、それを保ち取り戻そうとする意志が働いています。
今日から読みますイザヤ書の中に語られるいのちと平和、そして希望の呼びかけに耳を傾けてまいりたいと願っております。
「希望の宣言」
今日は一気に40章となりましたので少々戸惑いを覚える方もおられるでしょうが。
このイザヤ書40章は、イスラエルの南ユダの国がバビロニアによって滅ぼされ、多くの者がその捕囚とされた時代。この民の中から主に召し出された第二イザヤとされる人物によって書かれたものとされています。バビロニアの地で捕囚として生きるほかなかった人々と、南ユダの崩壊した都エルサレムに残された民。彼らへのそのメッセージの核心は、「神の救いと回復の希望」であります。
それはやがてその長い年月を経た後、遂に主の導きによる捕囚の人々のエルサレムへの帰還という形で実現されていくのでありますが。それは今日の2節に「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。罪のすべてに倍する報いを受けた」との先立つ宣言が成就するのであります。もはや、神の激しい憤りと裁きの時代は終わり、神から慰めを受ける新しい時代が始まるのであります。
エルサレムの滅亡以降、神から見捨てられた者のようであった捕囚の民と南ユダに残された民。その彼らに主は1節にございますように、第二イザヤを通して「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と語られます。この「わたしの民」という呼びかけにどれ程彼らは救われたことかと思うのでありますが。
さらに2節で、「エルサレムの心に語りかけ 彼女(エルサレムのことですね)に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と」いう語りかけがなされています。
これは神の御心に背を向け滅びを招いたことへの後悔と未だ厳しい現実の中にある、主の民に向けての先立つ主の解放の宣言であります。しかし、全く先行きが描けない人々。将来に希望が持てない人々が、。どうしてこの言葉を「解放の宣言」「希望の言葉」と受け取ることができるでしょうか。
新約聖書ヘブライ書11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とありますが。創世記の天地創造のところも同様ですが、神の言葉はその発せられたときに、すでにそのとおりに成った、と確信し、そのみ言葉に立って、未だ見えないけれども、もうそれを得たように生きていくところに、主の御業は現されていくのです。
私たちはときに厳しい現実を突きつけられることもございます。
常識や人間的な理解では到底困難といえるような問題を前にして、祈る思いまでも削がれてしまうようなこともございます。
けれども、こんなときに聖書なんか読んでる場合じゃないとか、如何に現実がどうであろうとも、神はすべて知っておられる。神の言葉は生きており、力がある。そう信じて、3節のように「呼びかけるみ声に聴いていく」なら、荒野に道が備えられ、荒れ地に道が切り拓かれるような出来事が起こされてくる。山も谷も平らとなるような「主の栄光が現わされ」てくる。私たちはそれを見ることが出来るというのです。
その5節の「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」の「現れる」とは、「隠されていたものが顕わになる」という意味であります。
かたくなに神さまの愛とゆるしを拒む人には、神の栄光は隠れていて見ることができません。しかし、神さまの愛とゆるしに向き直り、それを受け入れた人には、神さまのお働きがあらわにされ、それを体験して生きる道が与えられるのです。
「神の言葉はとこしえに立つ」
6節~8節には「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹き付けるのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という有名な聖句がありますが。
パレスチナ地方では4月頃、東から吹く強い熱風によって植物が枯れることがあるそうです。この風はとても乾燥している上に砂を伴うと約3、4日ですべての植物が枯れるほど強力だということですが。それと、主の風が吹きつけると人の世の命はなんとはかないことか、ということを重ねているようです。
平家物語の冒頭に「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり云々」という言葉がございますが。この世界がいくら人工知能が発達し、人体機能に効く万能薬が開発されて人の寿命を長く伸ばすことができたとしても、人には必ず死が訪れます。こればかりは天地万物を造り、すべ治めておられる主なる神によって人は生かされている存在であるからです。
私たち人間は肉なる存在として弱さやもろさをもつ者、有限的な者でありますが、主なる神さまは、そんな私たちの何もかもを知っておられ、見ておられます。
私たちは人の痛みや苦しみを自分で体感することはできません。苦しみ痛む人の代りになることもできません。しかし、主なる神さまだけはすべてをご存じであられ、人のあらゆる苦しみ痛みをも知っておられるお方なのです。
キリストの苦難と贖いの十字架を見上げるとき、私たちはそれが真実であることを知らされる者であります。
おごれる者も久しからずや。この地上に名を残すようないかなる栄華を極めた王や英雄や勇者であっても、草や花が枯れしぼむのと同様、例外なくいずれは皆朽ち果てていきます。この地上のもの、肉なるものを頼みとしてそれにしがみつき、固執することは真に虚しいことであります。
新約聖書のヨハネ第一の手紙2章17節には、「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます」と記されています。「神の御心を行なう人は永遠に生き続ける」。アーメン、これこそ朽ちることのない神の希望の言葉ですね。
私たち肉に属するものは朽ちていきますが、「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。
神さまは私たちの世の虚しさ、荒れ野のような私の人生にも希望の道を備え、永遠の命に通じるその道を拓いて、その「真理の御言葉」によって歩ませてくださるのです。
ここに真の「希望の道」がございます。
最後に10節-11節とイエスさまの御言葉を読んで本日の宣教を閉じます。
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前に進む。
主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13章31節)