礼拝宣教 詩編1編1-6節
またまた今回も台風25号の影響を案じていましたが、今日も礼拝をこうして共に捧げることが許され感謝であります。が、先の西日本豪雨や北海道地震で災害に遭われ、二次被害におびえながら、生活の復旧がままならない方々が多くいらっしゃることを、心に留め、お祈りいたします。今月21日礼拝後は台風24号による関西地方の被災教会を覚えてのチャリティーコンサートを開催いたしますが、主がお用いくださいますよう願っております。
10月は詩編にはいります。4週だけですのでざっと終わるのがもったいない思いもいたしますが、讃美歌の原点ともいえるこの詩編から私たちに語りかける主のメッセージを共に聴いていきたいと思います。
今日の詩編1編を読みますと、これはまさに歌だなぁと感じられる方も多いのではないでしょうか。先ほどこの詩編の御言葉のままのワーシップソングを一緒に歌い、主を賛美いたしましたが、流れるようなその御言葉であります。
この詩(うた)は「いかに幸いなることか」で始まっていますように、そのテーマは「祝福の約束」といっても過言ではありません。主イエスはのどかな山の上で人々に「幸い」を語られました。ちょっと開けてみましょう。新約聖書マタイ5章3~12節。少し長いですがご一緒に読んでみましょう。「3~12節朗読」。
このイエスさまの幸いも又、「祝福の約束」にほかなりません。
さらに、イエスさまのお言葉と今日の詩編の共通点として語られていることは、「主の前にあって、2つの道がある」ということです。それは「神に従う人の道」と「神に逆らう者の道」であります。
神に従う人の道について、1節に、「神に逆らう者の計らいに従って歩まず」「罪ある者の道にとどまらず」「傲慢な者と共に座らず」と3つの「歩まず」「とどまらず」「座らず」と、悪と罪を避ける人の幸いを歌っています。それはイエスさまも又、ルカ福音書の方の平野で語られた「幸いと不幸」のところで、神に背を向けて生きる者の不幸を示しておられます。
それら、神に逆らう者の道に歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢なものと共に座らないという行動、あるいは選び取りといったものは、何か強いられてなすものではありません。
それは2節にございますように、祝福に与る人は強いられて窮屈な思いからしかめっ面でそうするのではなく、むしろ「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」、つまり主の教えを自分の喜びとして日夜愛しているから、世の悪や罪から離れる。そうやって生きていくというのです。イエスさまの教えもそうですね。ゆるされている喜びと感謝をもってゆるしていく。主の愛を受けて愛する者とされる。
「主の教え」とこの詩編が言っているのは、当時はユダヤ人たちが信仰の基盤としていた「モーセ五書」律法のことです。その律法をユダヤ人たちは重荷というのでなく、神からの恵み、賜物として愛している、ということであります。
ユダヤ教の人たちは今でも慣習として、幼児が物心つくと御言葉が書かれた上に蜂蜜をたらし御言葉を蜜のように甘いといってそれをなめさせるということです。まあそれくらい「主の教えを愛する」ということが幼い頃から身につけられているということであります。
その根底に流れておりますのは、まさに民数記7章7節にあるとおり、神は彼らを「わが宝の民として選ばれた」からです。
旧約聖書の時代に生きる人たちは、そのような神への感謝をもって主の教え(神の律法)を喜びとし日夜口ずさむのでるのです。ちなみにこの口ずさむは、「思いめぐらす」とも訳せます。ただ単に気持ちよく歌うのではなく主の教え、御言葉を思いめぐらし、これは何度も何度も噛みしめ反芻するようにして生きる人のことですね。
このように神が愛してやまない民として選ばれた、その信仰と実践を抜きにしてはこの詩編を理解することはできません。
こうして先行する神の愛によって、湧き上がる信仰の喜びが「神に逆らう者、罪ある者、傲慢な者」から離れる力となり、罪と滅びからその人を守るのです。
私たちも又、主イエスによって救われ、神の民に連なる喜びがあるからこそ、御言葉に生きる力が働いて、人を滅ぼす悪から離れるように生かされているのです。
さて、そのような人は「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない」とあります。
今年初めて希望の家の庭に、食べて甘いいちじくが実りました。
私がここに移り住んでかれこれ13年になりますけれど、ビワの実は結構実るのですが、いちじくの実は13年以上年月が経って食べられるものが成ったのは今年が初めてです。
川の流れのないような丘ですが、雨が降り、太陽の光が長く差して、よく育ったということなんでしょうが。でもやはり時が巡りくればの「時」というのがあるということなんですね。
ここを読みますとき、私たち主イエスの愛と慈しみによって救いに招き入れられ、その御言葉に生きているということは、この命の川の「流れのほとりに植えられた木」とされているということであります。
その私たち一人ひとりは時宜に適って実を結ぶものとされている。又、そのように神に期待されているということです。
さて、その一方で、4節「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」とあります。
「風に飛ぶもみ殻」というのは、収穫した麦を脱穀し、熊手のようなもので救って空中に放ると風がふわっともみ殻だけ飛んでいって麦を収穫できるということで。そういう何か風が吹けばどこかに飛んでいって跡かたもなくなるような生き方を指しているようです。
神に逆らう人生、神に背を向け自我の欲望に走る人生は、「神の裁き」に堪えないということでしょう。
ただここで、「神に逆らう者」、又「罪ある者」というのは、読みようによっては全く主なる神さまのことを知らない者というのではないように思えます。なぜなら知っているから逆らうのであって、知らないのなら逆らい様もありません。
神の教えを知っていながら逆らい罪を犯す者にとって裁きの座は堪え難いもの、又、神に従う人の集いに居ることが堪えられなくなる、ということです。
主は光でありますから、闇の中にいる者を照らし、罪を露わにされ、聖なる集いに堪えられなくなってしまうということでしょう。
一度主の愛と憐みによって救いに招き入れられたクリスチャン、信仰者となっても、その初めの愛から離れ去っていく者、神ではなく人を見て心かたくなになって、その主の恵みの重さと尊さを忘れ去っていく人たちも残念でありますが、確かにいます。
しかし、主はそのような人であったとしても、いつでも初めの愛に立ち返っていこうとする人には、再生と立ち直る道を備えていてくださっている。これが十字架の罪のゆるし、あがないの主イエス・キリストの福音です。ここにクリスチャンの大いなる祝福があります。
体調や諸事情でしばらく礼拝にもお出でになっていない兄弟姉妹もおられますが。
この前の「もっと大阪教会を知ろう~ともに語り祈り合う」会の場で、「自分一人で祈るより、みなで一人ひとりのことを覚えて祈りがささげられるなら、きっと大きく主がお働き下さるにちがいない」というような発言がありました。そうですね。主にある兄弟姉妹として共に祈り合うことは、教会の大きな恵みです。
私たち一人ひとりの祈りを、できる限り多くの兄弟姉妹で共有し、覚え、祈り合っていくように具体的に努めていきましょう。そして今は礼拝に集うことが難しい方々のためにも祈りとりなす、神の愛に溢れる教会でありたいと願います。
最後に今日はもう一つのことをこの詩編の御言葉から導かれました。
それは、主の教えを昼も夜も口ずさむ「その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」ということですが。これはもちろんこの地上にあって主を信頼して私たちが主に従って生きるなら、主の祝福とお守りが与えられると信じていますし、そこに立つ私たちの祈りに主が答えてくださり、主の御業を見ることが与えられるわけです。
しかし、時に祈り願っていたこととは違う結果になることもあるのではないでしょうか。詩編の前に記されているヨブ記のヨブはまさにそのような体験をした人でした。神の前に正しい人であったヨブが、世にある祝福をことごとく剥ぎ取られていくわけです。信仰者である彼は大変苦悩するのであります。しかしヨブはその最終章で、究極にすべてをおさめ導いておられるお方を目の当りにし、伏して「自分を退け、悔い改めます」と言うのであります。
それは今日の6節に記されているところの、「神に従う人の道を主は知っていてくださる」という最も根源的な「祝福」であります。究極の統べおさめたもうお方が「神に従う私の道を知っていて下さる」。
実はこれこそが、何ものにも代えがたい私たちにとっての最大の祝福なのです。
11月3日からいよいよ待望の「パウロ」の映画が上映されますが。主に従って生きる者の道も決して平たんなものではありません。時には祝福と到底思えないような険しく、厳しい道を通らねばならない時もあることでしょう。
新約聖書のヤコブの手紙1章12節にはこうあります。「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」。
「いかに幸いなことか。主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす」。
今週もこの祝福の約束をもって、ここから遣わされてまいりましょう。