礼拝宣教 詩編8:1-10
今年も集中豪雨、地震、台風と各地に大きな被害が出ていますが。都会に住み慣れますといかにも便利さや情報によって守られているかのような生活をしており、自然への畏敬やそれをいつくしむ感性も鈍くなってきている気がいたします。
宣教後に「輝く日を仰ぐとき」という賛美をいたしますが、その歌詞に「輝く日を仰ぐとき月星ながめる時、いかずちなりわたる時、まことのみ神を想う」とございます。
そのように自然界の美しさ、壮大さを覚える時、人は森羅万象すべてを生かし治めたもう、創造主なるお方への畏敬の念が湧いてまいります。
以前にもお話しましたが、大阪市内ではなかなか夜空に輝く美しい星を見ることが少ないですが。私が小学5年生の時でしたか。山口県の秋吉台で北九州地方連合の夏期聖書学校のキャンプに参加した折、秋吉台の草原に横たわって夜空に輝く満天の星を見て大変感動したものです。星があまりに美しく間近に迫ってくるような感覚であったことが今でも忘れられません。
先週関西地方連合壮年会の呼びかけでホームワーク、主に草刈作業ですが、京都のバプテストホームで行われたのですが、家族で参加してきました。
もう秋を漂わすススキが所々に生えており、周辺の山からは美しい鳥のさえずりや秋の虫たちの泣き声が響いてきて心が和みましたが。その帰りの道、京都から大阪までの高速道路を車で走らせている途中、車窓から天空を見上げると、まるで海面に群れをなして泳ぐイワシの大群のような秋のイワシ雲が、大空に見事に映えている光景を目の当たりにすることができました。
4節「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も星も、あなたが配置なさったもの」とうたわれてあるとおり、秋は神さまの御手の業の素晴らしさに感嘆する時節ですね。
まあそのような神さまの創造のみ業の壮大さを知らされる時、私たち人間ってほんとうにちっぽけな存在であるということを思わされます。
が、今日の詩編8編のところには、その私たち人間に神さまが与えられた「大いなる恵み」と「大切な使命」が語られているのです。
まず「神さまが私たち人間に与えられた大いなる恵み」。
それは5節に「そのあなたが御心に留めてくださるとは。人間は何ものでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」とこううたわれていますように、他の動物とは違う特異な存在として創られているということです。
ヘブライ語で「人間」はエノシュという言葉、それは「無力な存在」とか「弱い存在」であるという意味がございます。又、「人の子」はアダムという言葉で、創世記のあの最初の人であるアダムに由来します。アダムはアダマー「土のちり」という言葉からなり、人はそんな土のちりで造られたようなもろく小さき存在であることを表しています。
この詩人であるダビデ王は、人間の「無力さ」や「弱さ」、又人の子の「もろさ」や「小ささ」を、その様々な経験を通して自ら思い知った人でありました。ダビデはそういう無力さの中で、神さまがそのような者を「御心に留めてくださる」「顧みてくださる」という主の御憐みを経験したのです。
御心に留める、顧みるとは、「主がこんなちっぽけな人間の苦悩や苦闘を知っていてくださり、主により頼む者を決してお見捨てにならない」ということです。その力強い確信によってダビデはその生涯を全うしたのですね。
苦難や痛みの中で天を仰ぐ時、自分はなんて砂粒のようにちっぽけななんだろう、と思います。しかしこの大空を造られたお方が私を知っていて下さる。決して見放すことも見捨てることもなさらない。この確信こそ、まことの神さまを信じて生きる者にとっての大いなる恵み、真の幸いです。
次に、「神さまがそのような人、人間に与えられた使命」についてでありますが。
6節のところで詩人ダビデはこううたっています。
「神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました」。
祈祷会の聖書の学びの中で、この「神に僅かに劣るものとして人を造り」という言葉に対して、劣るという言葉をめぐり、どういう意味なのか?等の議論がありました。
口語訳聖書では「ただ少しく人を神よりも低く造って」と訳されておりますが。
そのことを解くヒントが、創世記の天地創造の記事にあるかと思います。
その一つは、1章26節以降で、創造主である神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言われ、神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造されたと、記してあることです。
しかし神の似姿とはなんともかけ離れたような私たちの存在ということができないでしょうか。どんなに修練を重ね努めても到底完全なものにはなり得ない、聖なる全き義なるお方の前に、主のゆるしがなければ到底立ちえない、それが私たち人の存在であります。けれどもこの欠けたる人に神は、人にしかなし得ない使命をここで託されます。
本日の詩編8編6節後半から8節にかけて、詩人ダビデはこううたいます。
「なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も/空の鳥も、海の魚、海路を渡るものも」。
御手によって造られたものをすべて治めるように。
それは先ほどの創世記1章26節で、創造主である神さまがおっしゃった「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」とのお言葉をまるでダビデが受けてうたっているかのようにも思えますが。
人間には、神さまがお造りになられたこの世界、自然界、そこに生きるあらゆる被造物を治める使命が託されているのです。
それは他の動物にはない、神の似姿として造られた私たち人に与えられた特別な使命なのです。
もう一つは、人の創造に関する創世記2章6節では、他の動物の記述には見られないある特徴が記されているということです。
それは、神さまご自身が「その鼻に命の息を吹き入れて人は生きる者となさった」ということです。人たるゆえん、それは神の息吹によって生かされている霊的存在であるということです。
霊的存在というと何か神秘的体験のように思われるかもしれませんが。そういうことではありません。
霊的存在というのは、スピリチュアルとも訳せますが。私たち人は神さまとの関係性をもって生きる者とされている存在だということです。神を仰ぎつつ礼拝し、感謝と賛美を捧げ、祈り語り合う者として造られた存在なのです。それがダビデのうたう「栄光と威光を冠としていただかせ」という事ではないでしょうか。
人は本来そのように霊的存在でありますから、この地上での歩みにおいて目に見える物質的な面が如何に満たされようともそこに神との関係がないのなら恐れや不安があり、平安を得ることができません。いつの日か息をひき取られるその時に、神さまの愛のうちにおかれていることを知っているか。神さまに生かされる恵みを経験しているかどうかで、その状況は大きく異なるでしょう。
霊的存在たる人間は本来そのように創造主の御手のうちにいつもおかれおり、その信頼の関係性の中で、主を仰ぎ見て生きることを幸い、平安として造られているのです。
ここが人の創造の過程においての特筆すべき点であり、たとえ人がどんなにか神に劣る存在であったとしても神の似姿として造られたといわれるゆえんでありましょう。
まあ、いわゆる人によく似た霊長類や哺乳類の動物がおります。人はサルが進化したものだとの説もありますが、このサルやゴリラが神の息を吹き入れられて生きるものとされた霊的存在であるなら、進化論も通用するでしょうが。
しかし聖書は人以外の動物に対して神の意志に従って生きるように、などと命じていません。神は人に対しては、特別な使命を与えています。それこそが、神がお造りになった世界・自然界・すべての被造物を、「治める」という使命なのです。
今日、世界の各地域で異常気象によるさまざま災害が連日のように起こり、甚大な被害が生じています。確かに神さまは時を定められ、地殻変動も天地のすべての事象もすべて司っておられます。
しかし、その被害の拡大の多くは、これは自然災害というより、地球環境や自然界の破壊を繰り返す人災によって引き起こされている面も多いと専門家からの警鐘が促されています。科学技術の発達とともに大気汚染や環境破壊の規模も大きくなり、生態系が崩れすべての生きものが生きにくい世界になっているのは皮肉なことです。
本日の詩編にうたわれた、「神に僅かに劣るものとして造られた人」が、霊的存在であることを忘れ、神から賜ったその使命を軽視し、神の意に反して地球のゆたかな資源や自然の環境をむさぼり続けてきたことへのツケが、回ってきているといっても過言でないでしょう。
あのノアの時代、人々は神に背を向け思うままに生き滅びを招いてしまいました。神に従い、無垢な人であったノアは、家族ともに箱舟に入り難を逃れます。
神さまはノアの前で、地のすべての生き物と祝福の契約を結ばれ、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはない、とおっしゃいました。神さまは空に虹が現れるとその契約を心にお留になるということでしたが。そのように、いつまでも虹がかかる美しい空が保たれるように、と願うものです。
この神の祝福の契約は、まさにこの詩編8編にもうたわれているのです。
それは、創造主であられる神と人と全被造物との関係の回復にあるということを、現代に生きる私たちに向けて語りかけているのです。
詩人ダビデは、「天に輝くあなたの威光をたたえます。幼子、乳飲み子の口によって」と、うたっていますが。
幼子や乳飲み子というのは、世にあって小さく弱い立場にある存在、軽んじられているような存在を表しているようです。幼子や乳飲み子は母親を必死に慕い求めますが。
そのように主に助けと窮乏を訴え、求める者を主は顧みて下さり、天に輝く主の威光を仰ぎ見て、ほめたたえるのです。
私たちもこの幼子や乳飲み子のように、主に慕い求めて続け、主の恵みによる育みが不可欠な存在なのであります。
今日の御言葉をしっかりと留め、霊的存在として生かして下さっている主の恵みに感謝しながら、主の使命を果たすために、ここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。