礼拝宣教 詩編46編1-12節
① 「自然の猛威と災い」
10月を迎えようやく秋らしくなってきました。朝晩もぐっと冷え込み体温の調整が難しくなってきましたが。和歌山や関東では何と桜が咲いているのをニュースで知りました。まあ昔から10月桜というのはありますが。どうも今年は年の始めから気候の乱れが著しかったこともあり春桜の開花ができなかったため、葉のない桜が今ごろになってちらほらと咲きだしたということです。驚きです。
とにかく今年は地震・台風・豪雨が日本列島を襲いました。4か月前には大阪北部地震が起こり、8月には大阪市内にはめったに直撃したことのない台風、それも非常に激しい台風21号がもろに襲来し、今までにない恐怖と危機感を経験しました。
今日の3節に「地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移る」とか。「海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震える」とありますが。あたかもそのような出来事が現実となって今世界中に起こっています。地震、大津波、豪雨、洪水によって山々までも無残に崩れ、海には火山が出現する。そんな映像を頻繁に目にするようになりました。まあそれはSNSなどの文明の利器によって世界中どこにあっても生々しい状況が瞬時に伝わるようになった、ということはあるでしょう。けれどそんな科学文明の発達が自然災害の規模を拡大させ、自然のままなら起こり得なかった2次災害や環境汚染を引き起こしています。
私たちは、自然の脅威を知らされる時、人間はほんとうにちっぽけな存在だなあと考えさせられますし、同時に自然や環境を自分たちの思うままコントロールし、支配できるかのような錯覚をしてきたことを思い知らされます。
先日ニュースで観たのですが。高級魚トラフグの生産がより安価に効率的にでき、将来の私たちの食卓にも手軽にのぼるようになるための研究をある大学の研究グループが進めているということでした。まあ私も防波堤から魚釣りをしていると小さな毒のあるクサフグがよくかかり、針まで飲み込んで、大変やっかいものなんですが。そのクサフグの体内にトラフグの遺伝子を組み入れて、大量のクサフグからトラフグを生み出すようにするという、まあいってみれば遺伝子組み換えによって効率よく、手軽にトラフグが食べられるようにしているということなんですね。まあ、こういった野菜や家畜の肥料に関しては、もう普通に出回っているわけですが。遺伝子組み換えは、命の操作です。それは神の領域を侵すことにもなりまねません。本来神が造られ「良し」とされた命を、人が思うままに作り変える。それは本来ないはずのものですから、生態系にどういう影響を及ぼすのか。又、それらを食べ続けるとき人の体にどんな影響を及ぼすのか。不気味さや不安を同時に覚えますよね。いずれにしろ、神さまが良しとしてお造りになられた動物や植物を、人が管理を怠ったり、身勝手に扱うなら、これこそ人のおごり、高ぶりといえるでしょう。
今日の4節には「海の水が騒ぎ。沸き返り」とありますが。最近解ったことは、温暖化によって引き起こされる大型台風等による気圧の大きな変動によって海水温や潮位が上がったり、さらに地殻変動まで誘発して地震になったり、海底火山が噴火したりすることがあるようです。
ある聖書注解書には、この詩編46編は預言の歌である、とありましたが。まあそのような事態を実際目にすることが多くなる中、この46編は私たちに益々重要な意味をもって迫って来るように思えます。
人類は天地万物をお造りになられた主、生ける神を知り、御前に立ち返って人としての領分をわきまえ知らなければ、自ら滅びを招くことになるでしょう。
先週も申しましたが、恵み豊かな地上の良き管理者として神の御前に務め、生きる。天地万物の創造の主はそれを「良し」とされ、祝福してくださるのです。そこに私たち人間の命と平和があるのです。
詩編の作者は、天地にあらゆる事象が起こり、「すべての民は騒ぎ、国々は揺らごうとも、わたしたちは決して恐れない」(3節)と言っています。それは、なぜなら8節「万軍の主はわたしたちと共におられる」からです。「万軍」と聞くと何か軍隊のようなものをイメージしますが、そうではありません。それは「全宇宙を司る主」という意味です。天上の星々、流星をも司られるような力あるお方がわたしたちと共におられる。
だから、恐れる必要などない。私たち主を信じるものの平安はまさにここにございます。詩編の作者は、およびもつかないような状況にたとえあったとしても、「揺るぎない神の都。いと高き神の居ます聖所を仰ぎ見て、万軍の主がわたしたちと共にお出で下さる。だからわたしは決して恐れない、と賛美します。私どもは本当にこの信仰によって生きる者でありたいと強く願うものです。
② 「争いによる災い」
さて、今日のところは自然災害とともにもう一つ、戦や争いにおける災いが記されています。
9節~11節で詩編の作者はこううたっています。
「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを絶ち/弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。『力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる』」。イエスさまがお生まれるになる700年くらい前の時代、イスラエルの民が周囲の大国の脅威にさらされる中で、大国との軍事協定を結んでいこうといたします。そういう中で神の預言者イザヤは、軍事力により頼まず、ただ主にのみより頼んでいくように指導者はじめ民に警告していきます。
けれど結局、イスラエルの民は神の御言葉に従わず、その都は滅ぼされ囚われの民となっていきました。
その後、イスラエルの民は捕囚から解放されて都を再建していくのでありますが。しかしそれからも周辺諸国との軋轢の中で神に頼るのではなく、武力に依り頼んでゆこうとする誘惑に絶えずさらされていくのですね。
現代も世界のいたるところで紛争が絶えないわけですが。そういう中で、この詩編の作者はどのような時代においても真の平和をもたらすのは、万軍の主、すべてを司り治めたもう生ける神さまである、とうたうのです。
9節「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう」。11節「力を捨てよ、知れ/わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる」。そのように主により頼むところにこそ真の平和が実現されることを指し示すのです。
預言者イザヤも争いの危機に際して大国の武力に頼らないで「主に立ち返って、静まって主に信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30・15)と、預言しました。私たちも又、この詩編の作者のように、イザヤの預言に示されるように主にのみかたく信頼し、主の成し遂げられることを仰ぎ見る、そのような希望を抱いて生きる者でありたいと願います。
「魂の平安」
最後に、宗教改革者マルティン・ルターは1529年に「神はわがやぐら/わがつよき盾/苦しめるときの/近きたすけぞ/おのが力/おのが知恵をたのみとせず/よみの長も/などおそるべき」との讃美歌を作りました。それはまさに実体験の中で望みとした詩編46編から生まれた讃美歌でありました。その後世界中の多くの教会の礼拝においてこの讃美歌は愛唱されてきました。私が持っている日本基督教団讃美歌、バプテスト連盟新生讃美歌にもこの讃美歌は入っており、私たちそれぞれも大きな慰めと力を頂いてきたことではないでしょうか。
6月末に天の神の御もとに旅立っていかれた米澤イサ子さんの愛唱賛美歌でもありました。
それは、この詩編46編1節に「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ず、そこにいまして助けて下さる」とあるように、もろもろの災いから私たちを守る万軍の主、主はわたしたちと共にいますという主への信頼を力強くうたっているからです。
一昨日ですが、止揚学園の2人のスタッフがご訪問くださり、今の園のことやいくつかの証をお聞きすることができ感謝でした。
8月に運動会が開かれたそうですが、毎回それに先立って召天者記念礼拝が行わるそうです。それは止揚学園の先に天に召されて神さまのもとへ帰っていった仲間たちや入所者自身のご家族を覚えての記念礼拝であるわけですが。そういう主にある一つの家族としてのつながりを、今たとえ肉の目で見えないとしても信じている入所者の人や家族にとって「天の国は決して遠い世界のことではなく、日常の事柄とつながっているんですよ」というお証をお聞きしました。そうですね。私たちクリスチャンの生活だけがすべてではないんですね。今日の詩編とルターの讃美歌を思いめぐらす中での、そのようなお証でありました。
詩編の作者は、この世界に自然の甚大な災害、又戦乱による災いが起こることを示します。
主イエスも世の終わりのしるしとして生じる幾多の自然災害や戦乱、悪しき出来事を示しましたが。しかしそういう中で、主イエスは「目を覚まして祈っていなさい」と、ひたすら主に目を留めて生きることをお示しになられています。
いかなる状況の中でもひたすら主により頼むことができる人は幸いです。
今日は詩編46編から主のメッセージを頂きました。信仰はインスタント食品のようにできるものではありません。日常の中における主との祈り、対話、そこで導かれ、聞いた御言葉に実際に応えて生きる、そういう主とつながりの延長線上に、ここでうたわれているような「魂の平安」が与えられ、保たれていくのです。
単なる強がりではない。勇ましいだけの人を鼓舞するかのような歌とは異なる、むしろ人の力の及ばない状況、苦難の中で必ずそこに共にいまして助けて下さる主への希望と信頼をうたう詩編46編。
そのルターの「神はわがやぐら」。命と平和の主を賛美しつつ、今日もここからそれぞれの場へ遣わされてまいりましょう。祈ります。