「主イエスの復活と聖霊の約束」 ルカ24章36~53節
「イースターおめでとうございます」。
主イエス・キリストの御復活を記念するイースターを心よりお祝い申しあげます。
本日は先ほど読まれ、こどもメッセージもありましたルカ福音書24章36節~53節から「主イエスの復活と聖霊の約束」と題し、イースターのメッセージとして聞いていきたいと思います。
「肉体をもった復活の主イエス」
私たちの信仰の土台は、主イエスの十字架と復活にございます。
もしイエスさまのご復活がなく、十字架の死で終わっていたならどうだったでしょう。
私たち肉なる人間には、十字架の罪の贖いと神さまの救いのご計画を理解し、希望をもって信じることなど到底できなかったでしょう。
そういうことから、私たちは主イエスがどういうお姿で復活されたのかを、今日のルカ福音書による証言から今一度しっかりと確認してゆきたいと願っております。
今日の箇所のはじめのところには、「イエスご自身が彼ら(弟子たち)の真ん中に立たれたので、弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。
亡霊という元の言葉は、単に霊と言う言葉です。
霊は霊でも、彼らは亡霊だと思った。まあ肉体のように見えるけど、いやそんなはずがないと、主イエスが亡霊、幽霊のようになって現れたのだと、弟子たちは思ったのです。
私たちは死んだ後、どのように復活するのか、深い関心を持つでしょう。
まあ人間は例外なく肉体が朽ち果て死ぬ時が訪れます。そのことから死後どうなるのか。肉体は滅んでも霊魂は死後も生き続けるという思想は世界中どこでも根強いものがあります。
それで死んだ人を拝んだり祀ったりするのですが、実際のところその霊はどこにどのようにあるのか人にはわかりません。
死んだら亡霊になるという世にあってそういう考え方が多くを占める中で、聖書はそれとは異なる「復活の命」を、イエスさまの「肉」のからだをまとったお姿を通して示します。
それは何かわけのわからない幽霊のようなおどろおどろしいものではなく、人格をもった存在としての姿です。
ここには主イエスが「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」とおっしゃって、イエスさまご自身であることをはっきりとお示しになります。
けれど、弟子たちは喜びのあまりまだ信じられず不思議がっていた、とあります。
喜びのあまり信じられないなんてどんな状態だろうと思いますが、まあ俗な話ですみませんけど、高額の宝くじでも当たったら、喜びつつも、うそ!信じられない!と、ほっぺたをつねるというようなことがあるんじゃないでしょうか。
そんな喜びつつも半信半疑の弟子たちに、主イエスはさらに、御自分がまぎれもなく肉のからだを持って復活されたことを明らかになさるために、「焼いた魚一切れを、彼らの前で食べられた」というのです。
肉体があるからこそ、食べることができる。亡霊や幽霊という有るか無いか分からないような存在ならば、そんなことはできません。
十字架にお架かりになる前イエスさまは復活を否定するサドカイ派の人たちと復活についての問答をなさいましたが。ルカ福音書20章27節以降ですけど。
そこを読みますとイエスさまは「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかるものとして神の子だからである。
神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての人は神によって生きているからである。」とおっしゃいました。
神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神!
復活のイエスさまのお姿は、まさにそのお言葉を体現なさったものであるといえます。
肉体をもって主イエスが復活されたとの聖書の証言は、死んだ者のためにではなく、今まさに生きている私たちと、生ける主がともにおられのだとのメッセージであります。
肉体をもって苦闘しつつ生きる私たちとともに、生ける神が、死んだ後などではない、今、すでに共にいてくださっている。
これが復活の主のお姿からのメッセージであります。
私事で恐縮ですが。一か月前に集中治療室でその生と死のさかいにあった義父を見舞い祈ってきましたが。もう口にくだを入れて今日か明日かというほどでしたが、神さまの御憐みとみなさまのお執り成しの祈りをいただき、くだを外しても不思議にマスクで呼吸して、そのあと一つ一つ体につけていたものが外れていって、ほんとに奇跡的に先日集中治療室を出て一般病棟に移ることができました。お医者さんは3回も繰り返し「ビックリです、ビックリです、といったそうですが。私は木曜日帰りで見舞ったのですが、ちょうどその移動の日で感謝でした。
まあまだ痰がからんで苦しい中にも、昨日はひと月ぶりに腰掛けることができたということでした。
このことを通して「主が祈り依り頼む私たちと共にいてくださっている」ということを私もあらためて知らされる日々でございます。
今を生きる私たちと共におられる、生ける復活の主を賛美しますとともに、主にありますところの兄弟姉妹のみなさまの愛とお祈り、家族、病院関係者の方々のたゆまない看病と見守りに、ただただ感謝であります。
聖書に戻りますが。初めのほうで復活の主イエスご自身が弟子たちの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われました。
口語訳では「平安」と訳されていますが。
それは単に心の平安ということだけではなく、体も心も生活もさらには地域社会全体に至りますまで、つまり人の生の全領域に及ぶ平和を示すものです。
そこに復活の主イエスが共にいてくださる、そこから与えられる真の平和、平安なのですね。
肉体をもって主イエスが復活されたとの聖書の証言は、私たちの生の全領域、肉体をもって生きる私たちの生活の端々にまで、主が共にいてくださる、そこに本当の平安、真の平和があるのだという救いの約束そのものでありますことを覚え、イースターの喜びを分かち合いたいと思います。
「心の目が開かれる」
次に、復活の主イエスは弟子たちに聖書のことをお話になります。
44節「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
この「モーセの律法と預言者の書と詩編」というのは旧約聖書全体をさしていますが。
その旧約聖書全体が示すメッセージが来るべきメシア、主イエスに関することであるということです。
私たちは特にクリスマスなどにそのことをよく覚えて過ごすのでありますが。
しかしこのときの弟子たちは主がおっしゃることを理解することができなかったのですね。
ですから、復活の主イエスは「彼らの心の目を開かれた」のです。
それはイエスさまが生前弟子たちと一緒に歩んでおられた時に、弟子たちに語り伝えてきたことのすべてが実現したということを確認することでした。
46節、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」
まさに、かつて語り続けていた旧約聖書の言葉、又イエスさまがお語りになっていた言葉が実現したことを、復活の主イエスによって彼らは悟ることができたのですね。そのようにして彼らの「心の目が開かれる」のです。
「聖霊の約束」
私たちも自分で聖書を読んでいても分からない時があります。
心の目が閉じているような時もあります。だからこそこの弟子たちのように心の目を開いていただく必要があります。
私たちはイエスさまをこの弟子たちのように肉眼で見ることや手で触れることはできないかもしれませんが、約束のご聖霊のお働きによってそれを知ることができます。
さらに私たちには生ける主のお言葉である聖書があります。
聖書は人を介して書かれた書物ですが、神の霊によってしるされた神の御言葉です。
これだけ世界中の多くの人々に読まれているのは、そこに聖書のお言葉が人を活かし、支え、救う力がある生きたいのちの言葉であるからです。
聖書を悟らせてくださる力とは、49節で主イエスは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と言われた、その聖霊でございます。。
「高い所から力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と言われた「高い所からの力、それもまた「聖霊」のことであります。
礼拝の始めに、招詞としてヨハネ14章26節以下が読まれました。ここはイエスさまが地上を去っていくにあたって弟子たちに伝えたいわゆる告別説教の部分です。
もう一度25節からお読みしたいと思います。
「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
その主イエスのお言葉どおり、主の約束が実現された日ペンテコステ、聖霊降臨以来、今日に至るまで、今の私たちの時代もまた、この聖霊の臨在とお導きよって、私たちは聖書の真理を悟らせていただき、主の御業を日々仰がせていただき、ますます信仰を強められて、福音を証し、隣人に、世界に、福音を告げ知らせるものとされているのです。
この聖霊の臨在とお導きによって、私たちはたとえ目には見えなくとも、「主がわたしたちと共にいてくださる」ということを日々体験することが与えられているのです。そこにこの世のものでは得られない、真(しん)の平和、真の平安があります。
「祝福しながら天に上げられる主イエス」
最後になりますが。51節で、復活の主イエスは「弟子たちを祝福しながら彼らを離れ、天にあげられた」とあります。
これがルカによる福音書に描かれている主イエスの最後のお姿です。
それは弟子たちのために祝福の手を上げ続けているお姿です
本当に素晴らしいお姿だなあと感慨深いものがありますが。
まあ祝福というと私たちはそれがどういうことかわかりにくいように思えます。
祝福の反対語について、聖書に「呪い」ということが書かれていて、呪いはなんか分かるように思えますが。まあ呪いにもいろんなものがあるでしょうけど、この呪いとは「お前は要らない」「お前とは関係ない」と切捨て、無視すること。これが「呪い」ということになります。
となると、祝福は呪いの反対語ですから、「あなたは良い」「あなたは必要」「あなたは大切」ということになりますね。
創世記のはじめに天地創造をなさった神さまがすべての創造物をご覧になって「見よ、それは極めて良かった」と宣言されたこの「良い」、「すばらしい」。これが祝福ですね。
そして祝福しながら天に上げられた主イエスのお姿を見た弟子たちは、主イエスを伏し拝み、礼拝を捧げた後、大喜びでエルサレムに帰っていった、ということです。
ここには、主イエスとの別れに悲しみ嘆く弟子たちの様子はみじんも伺えません。
彼らはそれぞれに主イエスの祝福によって大きな喜びにあふれていたからです。
それは主イエスが「あなたは良い」、とストレートに保証してくださっている(主イエスが太鼓判を押してくださっている)その喜びでいっぱいだったからでしょう。
自分の不甲斐なさ、かけや破れを思い知らされた弟子たち。
だからこそ喜びもほんとに大きかったでしょうね。
彼らは絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた、と記されています。
実はこの神を「ほめたたえる」といるという言葉も、原語では「祝福」と同じ言葉なのです。
ただ、人が神さまを「祝福」するということになるとおかしいので、ここでは主をほめたたえ、賛美したということですね。
そうして彼らは聖霊の約束をしっかりと保って、エルサレムにとどまって聖霊の降臨のときを待つのです。
大変な思いをした、そして危険なエルサレムで聖霊の降臨を待つという弟子たちを支え続けたのは、「あなたは良い」「あなたは大切だ」と、主イエスが保障してくださった祝福にあったのですね。
こうして聖霊の降臨によって、彼らの上に主に集められたエクレシア、教会の群れに聖霊が降臨し、弟子たちは使徒となってエルサレムから各地に派遣されて、証と伝道の業に励み、主の教会が建てられていき、世界中に福音が拡げられていくのであります。
今日はイースター。
主イエスが死より復活されたことをお祝する日です。
たとえ主イエスを肉眼で見ることはできなくとも、確かなる聖霊の臨在とお導きによって私たちは主が生きておられること、共におられること、その体験を日々与えられています。
ここに主イエスさまが「あなたがたに平和があるように」とおっしゃった真の平安、平和が、決して何ものも奪うことのできない平安、平和があります。
今週も主の平安、主の平和、シャロームの挨拶をもって、このイースターのメッセージからそれぞれの日常へと遣わされてまいりましょう。