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人の子よ、帰れ

2019-10-06 15:01:23 | メッセージ

礼拝宣教 詩編90編1-17節

 

「序」

先ほど今日の詩編90編の聖書交読をご一緒にいたしましたが、その見出しが「召天・葬儀」となっていることにお気づきになられたでしょうか。

私たちは週ごとの主日礼拝で、主イエスの十字架と復活をおぼえます。罪の性質をもつ私たちが主イエス・キリストの十字架とともに死に、キリストのよみがえりと共に、私たちも復活のいのちに新たに与ることがゆるされている。この信仰の確認と更新の時として礼拝を捧げつつ、今日の御言葉に聞いてきたい願っております。

 

今月は詩編を礼拝で読んでいきますが、今日は90編、「祈り、モーセの詩」からメッセージを聞いていきます。

主なる神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の状態から導き出し、その指導者としてモーセを立てられました。モーセは神の御心に聴き従いつつ、民の指導者として40年間彼らと共に荒野を旅しました。しかしモーセはイスラエルの民と神との間に立って苦悩するその重圧から怒りを発し、神はその出来事のゆえにモーセをお咎めになります。

彼は約束の地・カナンに入ることがゆるされず、世を去らなければなりませんでした。

その詳細については民数記20章の「メリバの水」の問題があったとされます。

この詩編はモーセが、カナンの地を目前にしながらも、そこに足を踏み入れることができず、ピスガの高嶺から「神に祈った歌」ものと読みとれますが。よく礼拝や祈祷会で歌います新生讃美歌430「しずけき祈り」の一節に「ピスガ」とありますが。それはヘブライ語で「裂け目」を意味し、これはモーセをしても渡り得ない裂け目、断絶をそこに表わしているのですね。そのピスガの高嶺は、モーセが留まったとされるヨルダン川を挟んで東側のヨルダンのネボ山の頂のことであったのです。

この詩編はモーセがまさにそのピスガの高嶺にあって主なる神に相対して、その生涯を回顧しつつ、願い、祈ったものなのです。

 

この「モーセの祈り、詩」は、私たちに向け何を語っているのでしょうか。

①  「人の子よ、帰れ」

まず1節に「主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」とあります。

それは主なる神さまこそが、私たちの永遠の住まいであるということですが。それは地上の祝福の地に入ることができなかったモーセの心情を思えば感慨深いものがあります。

2節には「山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」と言っています。
聖書で「山」は、創造主である神さまが造られたものの中で最も古く、変化しないものとして記されており、永遠にその場所にあり続けるかのように見えますが、それらをお造りになられた神さまは、山々が造られる前から存在しておられたのです。つまり、世に存在しているすべての源は神であり、神さまから出たものなのです。すべては神から成り、神によらないものは何一つないのです。

人がこのすべての源であられる神さまとの関係なしに生きようとするのなら、その人生はほんとうに虚しく、不確かなものとなるでしょう。どんなに偉業を成し遂げようとも、多くの富を築こうとも、人から賞賛を受けようとも、すべてを造り、すべてを司っておられる方とその御心を思わず、背を向けて生きるなら、その人は本来の自分の存在意義を見出すことが出来ません。それを聖書では「罪」と申します。ギリシャ語でハマルティア「的外れ」という意味です。

 

そんなアダム以来の罪の性質をもつ私たち人間に対して3節で、こう記されています。

「あなたは人を塵に返し『人の子よ、帰れ』と仰せになります。

「塵に返る」とは死であり、「人を塵に返す」のは神さまであります。又、ここでの「人」はヘブライ語のエノシュ、「一般的な人」を指します。その一方で、『人の子よ、帰れ』と呼びかけられている「人」は、ヘブライ語のアダム、創世記2章の初めの人アダムです。その初めの人以来の「罪」「的外れ」という性質を帯びている状態の「人」を指します。神さまはそのような私たち人間に対して、「人の子よ、帰れ」と、わたしに立ち帰れ、と呼びかけておられるのですね。

4-6節に、「千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。

あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れていきます」とありますように、私たち人が神との関係性なしに生き、独りで存在しようとするのなら、この移ろいゆく草花のように、その人の生涯も人生も虚しく、はかないものだということであります。

的外れな罪の性質をもつアダム、すべての人間が虚しい人生から救われ得ためには、私たち「人」のいのちの源、永遠の住まいとなられる神さまのもとに、「立ち帰る」ことこそが、最も重要なのです。

たとえこの肉体、身体が朽ち果てエノシュ・人として塵に返ったとしても、私たちが「人としての罪の性質」を知り、認め、神に立ち帰って生きるのなら、「神は私たちの宿るところ」であり、それは変わることのない平安に至る道につながっていくのです。

 

しかしそう言いながらもモーセはこのように言うのです。

7-8節、「あなたの怒りにわたしは絶え入り あなたの憤りに恐れます。あなたはわたしの罪を御前に 隠された罪を御顔の光の中に置かれます。わたしたちの生涯は御怒りに消え去り 人生はため息のように消え失せます」。

モーセは素晴しい信仰者であり、指導者でしたが。人としてこのような苦悩を抱えていたんですね。

11節にあるように、神を畏れ敬うにつれて益々自分の罪深さを知って、「神の人」と呼ばれていたモーセは、御前に恐れおののくです。

だからモーセは「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と祈り求めます。

 

10節には、「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません」とあります。まあ現代の世界の最たる長寿国である日本では100歳を超える方々も多くいらっしゃるわけですが。けれど、どんなに長く生きたとしても、神さまの御前に自分の生涯を正しく数え、知恵ある心をもって生きてこなかったとしたなら、その得るところは労苦と災いに過ぎない。あっというまに時が過ぎ終わりを迎え、「私の人生はいったい何だったのか」ということになりはしないか、とそのように問いかけられているように思います。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。

それは、人を創造し、日々いのちを与えられる神の御前に、私たちの一日一日が的外れなものにならないように、どうか主の御心に沿う正しい歩みとなりますように、という切なる祈りです。

人を造られ、生かしておられる神を知っているか、知らないか。日々神と向き合って生きるか否かの生涯は、もう雲泥の差であるということは言うまでもなく、ここにおられるお一人お一人が実感しておられることでありましょう。

人生、健康、家庭も、経済も恵まれていることが、幸せだという世の価値観のみに生きる人は、それが崩れた時どうでしょう。逆にそれらの価値観によって苦しむことになるでしょう。又、たとえ神を信じていても、救いの道を知らなかったならどうでしょう。11節にあるように、畏れ敬うにつれ自分の罪深さと神の憤りを知るばかりです。

モーセは祈ります。「生涯の日を正しく数えて生きられますように」滅びではなく、いのちへ至らせる「知恵ある心を得させてください」と。

私たちにとっての「救いの教え」と「知恵の心」。それが、救い主イエス・キリストによってもたらされていることを心から感謝します。

 

②「神に対する訴え、祈り」

さて、13節には「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」という訴えが記されています。

さらに15節には「あなたがわたしたちを苦しめた日々と苦難に遭わされた年月を思って、わたしたちに喜びを返してください」とまで言っています。

「あなたがわたしを苦しめた、苦難に遭わせた」というのは、一見すると不満や怒りを表わしているようにも思えますし、また「喜びを返してください」というのも、その責任を問うているような感がいたします。

それは又、私たち一人ひとりの人生の苦しみ中で祈らずにおれない祈りの言葉でありましょう。

詩編22編にも「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という一節がございます。これは、私どもが救いの主とあがめるイエス・キリストが、十字架上において苦しみの極みに絶叫された言葉でもあります

しかしこれらの神に訴えかける叫びは、決して神に対する不信や恨みを示したものではありません。

むしろそれは、如何に絶望的な状況におかれようとも、すべてのことを御手のうちに治めておられる主なる神がおられる。「主よ」と叫び、訴えるお方がおられる。この主である神への信仰があるがゆえに、このように訴えているんですね。

私たちも、時として「どうしてこんなに苦しまなければならないのか」「なぜこんなに苦難ばかり続くのか」と、思うことがあるのではないでしょうか。

そのような時、このモーセのように、私たちは訴えつつも、14節の「朝にはあなたの慈しみに満ちたらせ、あなたによって生涯、喜び歌い、喜び祝わせて下さい」と生けるまことの主に願い求めることができるのは、真に幸いなことです。

 

最後の16-17節で、「あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことができますように。わたしたちの神、主の喜びが、わたしたちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものとしてください」と祈られています。

 

「人の子よ、帰れ」とのみ声に答える私たちは、救い主イエス・キリストによって、もはや虚しい生涯を送るものではなく、神の作品として日々新しく創られた人とされています。

今週もこの礼拝からそれぞれが遣わされる場で、私たちの手の働き、それは祈り、奉仕、とさまざまあるでしょうが。それらの働きが主にあって確かなものとされますように。主の救いのみ業を喜び、讃美しつつ、生きる者とされてまいりましょう。

 

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