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深い淵の底から・・・

2019-10-20 14:12:50 | メッセージ

礼拝宣教  詩編130編1~8節

 

先週は詩編121編から、私どももそれぞれの人生における巡礼者であり、信仰の友と互いに呼びかけ合いつつ、この旅路を歩んでまいりましょう、との奨めでありました。

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ、わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」。

「人生、山あり谷あり」と申しますが。先週はそびえ立つ山々。本日の詩編130編は「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」で始まります高い山々とは対照的に、深い淵の底に目が向けられています。                                                                  実はこの詩編130編は、神の御もとに「立ち帰る」、「悔い改め」の詩編の一つとされていまして、先ほど宗教改革者であったマルチン・ルターが作った讃美歌を歌いましたが。この讃美歌を見ますと、如何にルターが詩編130編を黙想しながらそれを作ったかが感じられます。ルターは宗教改革前、この詩編の作者の「深い淵の底」にも通じる、同様な苦悩を経験していました。130編の詩人の苦悩は、修道士時代のルター自らの嘆きでもあったのです。どんなに敬虔な祈りの修道生活を送っても、又どんなに立派で善い行いをしても、それまでの信仰理解と行いによっては、救われているという確信が持てない。又、当時のカトリックにおける組織体制のあり方にも、腐敗や民衆の反発があることを強く感じていた。そういったルターの苦悩が、この130編の詩人の言葉と重なり合ったのです。

「深い淵の底から・・・」1-2節「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」。詩人は今、深い淵の底から、主を叫び求めています。この「深い淵」とは、どのような所なのでしょうか。まあ、様々な解釈があるでしょうが。ある人は、死んだ人が行く陰府(地獄)を指すともいいます。又、個々人に起ってくる様々な苦悩。「災い」や「災害」、あるいは「人間関係の泥沼」なども、「深い淵」を見るような思いにもさせられることがあろうかと思います。因みに詩編69編3節では、「深い沼」というものがでてきます。「わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流がわたしを押し流します。

一度、底なし沼に足を踏み入れますと、自らの重さによって、さらにもがけばもがくほど、どんどん沈んで行く。もう底なしの深みというような絶望感。そういう泥沼状態に陥ったら、自分で自分を救い上げることは出来ません。そういう底なし沼にともすればもう転げ落ちてしまうような、その深みの淵にいるこの130編の詩人。この人はいったいどうして、そんなところにいるのでしょうか。

それは3節、「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」とあるように、この人に罪があるからです。この人は全き聖なる神のみ前に、自分の罪が露わにされていることを強烈に自覚しているのです。「罪」をギリシャ語原語で「ハマルティア」と言いますが。それは、神さまから離れた的外れな生き方を差します。まあ通常、「あなたに罪がある」と面と向っていいますと、言われた方としては「何てこというんだ」「失礼な者か」と思われて当然でしょう。まあ、不法や犯罪を犯していない人からすれば「罪がある」と指摘されれば誰もが、心外であり反感と怒りすら持つでしょう。けれども、目に見えないところで、自分の無意識のうちにわたしたち誰もが人を傷つけたり、つまずかせたりする言動を日々犯しているのです。又、この旧約の「罪」という言葉は「不義」とも訳すことができます。それは「曲がる」という意味をもちます。人は主なる神さまに向って心が真っ直ぐになれない。自己中心に生きることを求め、心が曲がり、神さまから離れてしまう。それは「罪」「不義」があるからです。それが神を、また他者を悲しませるのです。自分を満たすためだけに生き、自分を正当化して、神など要らないと曲がった心、即ち「不義」に生きるなら、たとえいっとき楽しい思いをして過ごしたとしても、結局は虚しさと後悔しか残りません。わたしどものうちに一点の曇りなく「正しい」といいきれる人がいるでしょうか。神がわたしどもの罪に目を留められるならば、神の審きに誰が耐え得るでしょうか。この詩人は幸いです。なぜなら主であられる神さまを知っていた。だからこそ立ち返って生きていきたい、何とかして罪を赦されて平安を得たいと望むことができたからです。                               

深い淵の本当の恐ろしさは、それが深い淵だということを知らない、自覚していないことにあります。実に多くの人が自分が今どういうところに立っているのかに気づきません。神さまとの断絶の、深い淵に立っていることを知らないでいる人が、ある時突然、自分がどういうところに立っていたかを自覚するような時が来て、まさに引きずり込まれるように底なしの沼に落ちてゆくような絶望に陥ってしまう。わたしの考えは正しく、不義などない。神など自分は要らない、信じる必要などない。そんな風に自己完結して、この世の不確かな価値観だけを頼りとする自分中心の世界。しかし誰も完全なお方、全能者のみ前に自己正当化など出来はしません。

世には様々な突発的な出来事、予期せぬ出来事が起ります。世の価値観によって得たものがことごとく失われてしまうこともあるでしょう。そこで人はなってちっぽけな者であるのかを知らされることもあります。さらに、わたしたちすべての人間は、例外なく死ぬべき存在であるということが定められています。弱く、有限な存在であるのです。そこで自らの罪を認め、主である神さまを見出して人生を歩んでいくのか。それとも、この世で好き勝手に私利私欲の限りを尽くす人生を送り、底なしの沼、深みの淵の底へと沈んでいくのか。天と地のそれは違いです。                                

さて「主よ、あなたが罪をすべて心に留めるなら、主よ、誰が耐え得ましょう」と訴えた詩人は、4節でこう言います。「しかし、赦しはあなたのもとにあり 人はあなたを畏れ敬うのです」。この人には「罪からの助け」、救いの確信が語られているのですね。ここに希望があります。それは、もう自分の力ではどうしようもない、ずぼずぼと深い罪の泥沼の底にはまりこんでいくしかない者の手を、神さまがグッと握りしめて引き上げてくださると言う事です。深い淵の底に、罪の滅びに沈み込むわたしを、主は「赦し」という名の力強い御腕を持って救い出してくださる。この4節の「赦し」と「畏れ」という言葉について、水曜日の聖書の学びの時に出された事ですが。ゆるしにも2つあると。一つは許可するとかの許しですね。それはまあこれくらいの範囲ならよろしいですよと言う限定的な許し。確かにそうかも知れませんね。そしてまあ多くの場合日常において何かあって許すと言う事に使われます。けれども4節で使われている赦しは違います。これは、罪や過失を咎めだてしない事、また服役中の人を方面するときに用いられる、ある意味法的裁きに関して用いられる漢字です。恩赦などにも用いられる言葉です。しかしこの世の恩赦も制限、限定的なものでしかありません。聖書の神の赦しは、もう、神の裁きの座の前においては申し開きの出来ない、罪に滅ぶほかないような者をもはや咎めだてせず、放免してくださる無制限の赦しなのです。それは驚くべき神さまの赦し、御慈悲であります。す それゆえ詩人は4節で、もはや罪の恐怖の恐れではなく、主によってすべてを赦された感謝と平安をもって、唯々み前にひれ伏し、神を畏れ敬う、その畏れ(畏敬の畏れ)へと変えられるいうことです。

詩人は5-6節でこう言います。「わたしは主に望みをおき わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして 見張りが朝を待つにもまして」。                                                                             詩人は深い淵の底から、赦しと慈しみと豊かな贖いをもっておいでくださる主を待ち望んでいます。見張り(ここではおそらく町の城壁に立つ夜回り、あるいは夜営をしている夜警の者であったようですが)、彼らが無事に夜明けを待ちわびるように、詩人は主なる神さまのお言葉を待っているのですね。闇がどれほど深くとも必ず朝が来るように、神はみ赦しをきっと与えてくださる。わたしの魂は主を待ち望むと、詩人はうたっているのです。

「主が共におられるから・・・」

7-8節には「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに 豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを すべての罪から贖ってくださる」と讃美しています。   これまで詩人は個人的な神と私の関係における罪の問題、その深い淵の苦悩と神の赦しについて語ってきました。しかしこの7、8節からは、イスラエルという民、その共同体の罪と苦悩。その事における神の慈しみと贖いについて語っています。「贖い」、それは代価を払って買い取り、囚われた人に自由を与え、赦しを得させるということです。

今日の詩編130編に繰り返されているのは、4節「赦しはあなたのもとにあり」、7節「慈しみは主のもとに」「豊かな贖いも主のもとに」と言う、「もとに」という言葉です。この「もとに」とは、「神、我らと共にいます」「インマヌエル」の「イン」原語で「共に」を表わす言葉です。つまり、聖書の限りない赦しと慈しみ、罪を贖ってくださった神さまは、高い所から遠く隔てをもってまあしょうがない許してやろうと言う様なお方ではなく、わたしたちの罪から生じる苦悩を知ってくださり、深く憐れみ、慈しみをもって、自から深い淵の底にまで共に下って、泥沼にのめりこんで滅ぶしかないようなわたしたちを引きあげ、助け出してくださる共なるお方なのです。詩人が6節で「わたしの魂は望みをおき 御言葉を待ち望みます」と祈り、讃美した、この「御言葉」とは何でしょうか。その豊かな赦し、そして贖い。それは言うまでもなく来たるべき救い主、イエス・キリストに他なりません。ヨハネによる福音書1章14節「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とありますように、御言葉がいのちをとって、わたしたちのもとに「インマヌエル」の救い主として来て下さった。それが、救いの主、イエス・キリストであられます。

この神の御独り子イエス・キリストによってもたらされたのです。そしてこのキリストにある「赦し」「慈しみ」「贖い」は、単にわたしだけにとどまるべきものではありません。この130編のように、多くの人の祈りやお奨めや執りなしの中で、わたしのもとにも福音が届き、救われ、今こうして豊かな恵みに与っているのですね。そうであるなら、この救いの福音は、わたしだけのもでなくて「わたしたち」という拡がりをもって分かち合われていくことが期待されているのですね。主の救い、福音を私のもとにだけとどめておくことは残念なことであります。わたしたちそれぞれが出来るところで主の恵みとみ救いをあかししていくことは、さらに幸いなことではないでしょうか。今週も今日のみ言葉をもって、この礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。                      

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