礼拝宣教 詩編121編1-8節
この詩編は「都に上る歌」となっておりますように、聖地エルサレムの都を目指した巡礼者の歌であります。
申命記12章には、「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい」。さらに16章には、「年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない」と記されております。
その戒めは単なる決り事というより、神の救いの御業を思い起こし、その民とされた幸いを喜び祝うことに、その目的があります。
今でもそうですが、エルサレムの都には、世界のさまざまな地域から世界三大宗教の
巡礼者が集まっています。そこはユダヤ教徒の聖地であるとともに、主イエス・キリストが十字架におかかりになられ死をもってあがないの業を成し遂げてくださった、その神の救いの御業を信じるすべての人にとっての聖地となっています。
まあ、私どももエルサレムまで巡礼できればそれはすばらしい恵みでしょうが。けれど、そこまで行かなくとも今や主御自身が私どもの聖なる神殿、天幕となっていてくださるのであり、主がいつも共においでになるのですから幸いです。
その上で、こうして共に主を拝する信仰の同志とともに毎週ごとに捧げる主日の礼拝が与えられているのは、本当に感謝なことです。
みなさんそれぞれに、七日の旅路を主に守られて、その歩みをなし、又それぞれの場所からこの礼拝の場に帰ってこられ、そしてまた新たな一週の歩みへと祝福の祈りのうちに送り出されて行く。そういった信仰者の日常的歩みそのものが巡礼の旅そのものであると思います。
さて詩人は1節で「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか」と歌います。
エルサレムの都へ至るその道のりを思いますとき、当時の旅人の不安や覚悟は相当なものであったでしょう。パレスチナの山々は険しく、自然の環境も大変厳しいものです。当時のことですからむろん車も鉄道もありません。コンビニも自動販売機もありません。
さらには、おいはぎに襲われることさえ、しばしばあったようです。
エルサレムの都を目指す巡礼者は、旅路においてそれらの苦難をも乗り越えていかなければならなかったのであります。険しい山々を前にして、巡礼の期待と共に、大きな不安を抱く、そんな巡礼者の祈りと、互いに励まし合う声とがこの詩から聞こえてくる気がいたします。
先週の詩編90編に「山々が生まれる前から 大地が、人の世が、生み出される前から 世々とこしえに、あなたは神」とありました。そこでお話ししましたが。聖書で「山」は、創造主である神さまが造られたものの中で最も古く、変化しないもののように記されており、永遠にその場所にあり続けるかのように見えます。しかし、それらをお造りになられた天地創造の神さまは、その山々が造られる前から存在しておられたのです。
日本では山の神、海の神と、自然の中に神々が宿られているとの自然崇拝が根強くありますけれども、しかしこの聖書の詩人は2節に、「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」と歌います。
その崇高で清らかで威厳をたたえたように見える山々も、それらをお造りになられたのは主であられる。天地万物の創造者なる神。その主に信頼するところに、わたしの助けがある、と歌うのです。
6節では、「昼、太陽はあなたを撃つことはなく、夜、月もあなたを撃つことがない」とも歌っています。「それらを造られた主が巡礼者を見守ってくださるから」。そういう信仰が詠まれているのですね。
ところで、この詩を見ますと1、2節迄は「わたし」の助けはと言うように、主を頼みとする巡礼者個人の心情が歌われていますが。3節以降は、「主」が「あなた」をという他者への呼びかけに変わっております。
それは、巡礼の旅を続ける者同志が互いのことを気遣い、励まし、お互いのために主に執り成し祈っている、かけ合いの声であります。
「主があなたを助けて」「主はあなたを見守る方」。ってくださるように」。7、8節「主があなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように」。そのように、1節2節の巡礼者一人ひとりの祈りの信仰が、旅で出会った巡礼者たちとの、祈りの呼びかけ合いと拡がっていくのですね。そこにこの詩編のゆたかさ、美しさがありますよね。
6節に「昼、太陽はあなたを撃つことなく 夜、月もあなたを撃つことはない」とございますけれども。
私は2000年のミレニアムの年の1月の末にエジプト・イスラエルのツアーに参加する機会を得ましたが。
カイロのピラミットの石段に立ったとき気温は30度をゆうに超える熱さでした。まさに日差しがとても強く太陽があなたを撃つというその人を射るような日差しを体感しました。
その後、シナイ半島の砂漠路を横断するようにバスで走り、シナイ山のふもとのホテルに泊まって翌早朝シナイ山の山頂で初日の出を見るということを経験いたしましたが。夜中の午前2時半にホテルを出発し、徒歩で山頂を目指します。まだ周りは暗く、道も結構アップダウンがあり険しかったうえ、気温は0度以下で手がかじかみ、持参したカメラのリチウム電池があまりの冷たさで度々起動しなくなるほどでした。一日に30度以上の気温の差がゆうにあるシナイ、パレスチナ地方なのですね。
ほかの国々からシナイ、パレスチナ地方を経由してエルサレムの都を目指した巡礼さんたちは、その旅路において熱中症や凍死、野獣や追いはぎにも襲われるトラブルにも巻き込まれるといういのちの危機に何度もさらされるようなことが確かにあっただろうとリアルに感じました。
そうした自然の厳しさや険しさ、いのちが危険にさらされる中で、巡礼者たちが、主にあって互いに励まし合い、とりなし祈りあいながら、巡礼の旅を続け、エルサレムの都を目指していく、それを信仰者の喜びと歌っているのですね。
私たちも又、それぞれの人生における巡礼の旅路にはさまざまな困難や苦難、危険や災いにも思えるような日があります。けれども私たちは自分の力だけで人生の旅路を続けているのではありません。
同行二人(どうぎょうににん)というお遍路さんの言葉が日本にもあります。もうひとりその旅路を共にしてくださっている弘法大師が共におられるということでしょうが。私どもにとってそれは主なる神さまであられます。そしてさらにその主を信じる同志の励ましがあって、私たちの歩みは支えられています。自分が気づかないうちにもだれかが祈っていてくれる。集会の場が備えられ、掃除がされ、様々にご奉仕くださる方がいて、いつも待っていてくださる。又、私も今日は~さんいらっしゃるかなと待っている。それは集会ごとに備えられた主の愛と恵みの具体的な表われでもあります。
私たちも又、この詩編121編の「都に上る歌」のように、主の愛と恵みによって、麗しい呼びかけ合い、祈り合いを祝福の思いの中で益々深めていきたいと願うものです。
毎週水曜日の祈祷会は多くの方が集われ祈り合いの時をもっておりますが。お仕事諸事情で祈祷会に集うことが難しい方もおられるでしょう。
どうぞ、この祈祷会の時間、又その日をそれぞれの場で祈りの心を合わせてくださいますか。主は必ず祈りを通して私たちをつないでくださり、ゆたかな恵みと祝福を分かち合わせてくださいます。
又、教会には礼拝に集いたくても病気やさまざまな事情のために集えない方もおられます。
その昔イスラエルの民は他国の侵略により捕囚となった後、エルサレムに帰還できた人もいれば、それがかなわず異国の地に散らされ離散の民として生きていった人々も多くいました。
そのような人びとにとってエルサレムの都に上るというのは悲願のようなものであり、望みつつも行くことの出来ない人は旅立つ人に思いを託したのです。
行きたくとも行くことのできないそういう一人ひとりのためにも、「主がすべての災いを遠ざけて、あなたを守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」と祈る。執り成しの祈り。
ちなみに「とこしえに」とは、「どこにあっても」という意味です。それは具体的にはこの限られた地上の生、日常のどこにあってもということです。主はわたしたちの生の全領域を見守ってくださるお方なのです。
私たちも、この詩人の歌のように、主の見守りを期待し、互いの祝福を祈り合う者でありたいと願います。
もう一つこの詩編121編から来るゆたかなメッセージがあります。
この詩の中には、「主の見守り」というフレーズが6回も繰り返されます。殊に4節の「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」という言葉は強いインパクトをもって心に迫ってきます。
熱射病や凍死、自然災害、追い剥ぎや、猛獣などによるいのちの危機に、恐れや不安を抱えながら旅を続ける者たちを単に見守るというのではなく、眠ることもなく見守っていてくださる。まあ子どもが熱でうなされ苦しんでいる時というのは親御さんは寝ずに、というより眠れずに看病されるのではないでしょうか。
もう「何とかしてこの子を守ろう」という強い意志が「寝ずの番」「寝ずの看病」になるんですよね。
かつてイスラエルの民が荒野の路なき路を進む時、「主は昼は雲の柱で射るような日差しから民を守り、夜は夜で火の柱をもって凍てつく寒さから守られました」。
主はまどろむことなく眠ることなくその民を守り導かれました。その民を愛するがゆえに主自ら寝ずの番をされたのです。
その恵みに満ちた父なる神は、罪にさまよい救いを求めるすべての人が滅びることがないようにと御独り子を地上に送り、十字架に引き渡してまで、私たちをあがない出してくださいました。「とこしえに」、どこにあっても昼も夜もまどろむことなく見守ってくださる主。神は愛なるお方であられます
私たちは御子イエスさまの十字架を仰ぎ見るとき、「まどろむことなく、眠ることなく見守っていてくださる」主なる神さまの愛を知ることができるのです。
私たちには人生の旅路において山のように立ちはだかるさまざまな問題があります。
「わたしの助けはどこから来るのか」。「わたしの助けは天と地を造られた主からくる」。
今日の詩編、賛歌にありますように、主は決して私たちのことを見捨てることなく、私たちの抱えている恐れや不安、痛みや苦悩をご自身のものとして感受され、子のために寝ずの番を親の心にも増して私たちを見守ってくださる愛のお方であられます。
このような活ける主が、私たちと共にいてくださることは何ものにもかえがたい力、支えであります。
私たち一人ひとりは主と顔と顔を合わせるその日に向って旅を続ける巡礼者です。
けれども決して孤独ではありません。キリストの教会の何よりも素晴らしい恵みは、十字架と復活の主イエスの救いを共に仰ぎ、主の御名によって、互いに呼びかけ合い、祈り合うという信仰の友、主にある同志が与えられていることです。
人間ですから時にはすれ違いや意見の食い違いもあるでしょう。不快な思いをすることもあるかもしれません。けれどもそれにも増して、あまりあるところの恵み、互いを大切に思い、祝福し祈り合い、執り成し合う中に、人知では計り知れない神さまの守りと祝福の出来事が起こされていくのです。これまでもそうでしたし、これからもそうです。
この人生の巡礼の旅路を共にこれからも進んでまいりましょう。
「主がすべての災いから遠ざけて、あなたを守り、あなたの魂を見守ってくださる。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに」。今週もこの礼拝からそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。