日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

キリストに倣い、信じ愛し望む

2020-06-08 09:39:57 | メッセージ

礼拝宣教  テサロニケ一1・1~10 

4月12日から大阪教会での主日礼拝が8回・約二ヶ月間も休会となり、その間イースターやペンテコステの礼拝を集まって行うことがきませんでした。まったく私も、みなさんも初めての経験であったかと存じます。
しかし、今日こうして主日礼拝の再開へと導かれましたことを、主に感謝します。
みなさんも礼拝再開を祈り、どんなにか待ち望んでおられた日々であったことでしょう。
教会に集まり礼拝や祈祷会を共にもつことが生活の一部となっていた私たちですが。
それがままならないこの8週間という日々を通して、主からどのようなメッセージを受け取られたでしょうか。当然のように思っていたそのことが、そうならなくなった時に、それが如何に尊く大きな恵みであることに改めて気づかされます。同時に自分にとっての信仰の本質とは何なのかという問いに直面した方もおられるでしょう。そういう中で迎えた先週のペンテコステでしたが。
聖霊降臨に際し、イエスさまの弟子たちや婦人たち、イエスの母や兄弟たちが一つになって集まり、心を合わせて熱心に祈り続けていたところに聖霊が降り、そこから偉大な神の業が彼らを通して語られていった、ということです。
私たちはこの大阪教会に集まって礼拝することができませんでしたが、その期間、主に結ばれるきょうだいしまい一人ひとりをおぼえ、また共に社会の状況をおぼえつつ主にとりなし、祈り続けてきました。そうして今日の主の日の礼拝を迎えることが叶い、感謝に満ちあふれています。
今年度の私たち教会のテーマ憶えておられますか。「心を一つにして」です。
どのような状況下にありましても、引き続き主にあって心を一つにして祈り、支え励まし合いつつ、共に主イエスにあって歩んでまいりたいと願います。その主にあるところの交わりの中に、今日の5節にもあります、神は私たちをゆたかに恵み支えられる「力と、聖霊と、強い確信」とをお与えくださるのです。

さて、本日から7月末までテサロニケの信徒への手紙を礼拝で読んでいきます。
この手紙は、新約聖書の中に納められた使徒パウロの書簡の中で最も古いものとされており、紀元50年頃、パウロがコリントに滞在していた時に書き記されたものです。
当時のテサロニケは、ローマ帝国の支配下にあったギリシャのマケドニアの首都、ローマと東方を結ぶ主要な政治、商業、軍事の中心地として栄えていました。
パウロ一行がテサロニケで福音を伝えたのは、第2伝道旅行の途上でした。
使徒言行録17章によると、テサロニケにあるユダヤ人の会堂で3回の安息日にわたり聖書を解き明かして福音を伝えたとあります。
そのテサロニケで、幾人かのユダヤ人、神を敬う多くのギリシャ人とその地方の有力な多くの女性たちが福音を信じ、回心して、クリスチャンとなったのです。
こうしてパウロらの働きとその新生した信徒たちを中心に、テサロニケの教会は立てあげられます。
まあ、このマケドニア州の主要都市テサロニケの地に福音が届けられることによって、さらにアカイア州、やがてギリシア全土に福音が拡がっていったのです。
テサロニケの教会はそういう意味で、ギリシャ全土への福音宣教のためにゆたかに用いられたのです。その信徒たちの生きた信仰の証は、「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信」に満ちたものとなって、全ギリシャ地方を行き巡ることとなるのです。

まず、この手紙の書き出しは「パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ」との挨拶から始まっています。
それは、パウロたちとテサロニケ教会が信頼に満ちた関係であったということを物語っています。
ここで注目すべきは、信仰の種を蒔いたパウロもテサロニケの信徒たちも、父なる神と主イエス・キリストにあって互いに結ばれている、ということです。
パウロはその教会の設立に貢献した人であります。しかし彼はそれを誇ったりすることなく、テサロニケの教会の信徒たちは、共に主に結ばれた福音の同労者であると、言い表しているのです。私たちは誰もがみな主に結ばれ、主と人に仕える神の福音の同労者なのです。
パウロは続けてテサロニケの信徒こう書き記します。
「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」
パウロは遠く離れた地よりテサロニケの教会の信徒たち一人ひとりの顔を思い浮かべながらとりなし、祈り続けていました。
5章に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい」と書かれているとおり、それは時折思い出したように気まぐれに祈るのではなく、絶えずテサロニケの教会の信徒たちのことを主イエスに結ばれる者としておぼえ、祈り続けていたのです。

先にお話ししましたように、私たちも8週間という礼拝に集うことのできなかった間、主に結ばれた一人ひとりを覚え、主にとりなし、祈り続けてきました。
主が私たちのことを覚えてくださり、今日の礼拝の再開へと守り導いてくださったことを心から感謝します。

さて、パウロがテサロニケの教会のことを祈る時、絶えず思い起こし、神に感謝していることがありました。
それは「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐している」ということでした。
「信仰をもって各々働きをなし」「愛のために労苦をいとわず」「主イエス・キリストに対する希望をもって忍耐している」パウロは、これらテサロニケの教会のきょうだいしまいの信仰をいつも思い起こして、喜びと共に、主に感謝を捧げていたのです。

先週バプテスト連盟へようやく昨年度の教勢報告をまとめ送ることができましたが。
教会の恵みや喜びは、単に活気があるとか教会に人が増えたかというもので決して計ることができるものではないように思います。かえって困難があっても、課題があっても「信仰によって働き、愛のために労苦している」一人ひとりが主にあってつながり、祈り合い、「主イエス・キリストにある希望をもって忍耐している」事がキリストの教会の証しとして立てられていくのではないでしょうか。
使徒パウロが神に感謝したというこのようなテサロニケ教会の信仰の背後には、教会の信徒たちを襲うひどい苦しみ、艱難があったということです。
それは先にも触れましたように、テサロニケの教会はユダヤ人もいれば、ギリシャ人もおりました。ユダヤ教からクリスチャンとなったユダヤ人たちは、一部の原理主義的ユダヤ教徒たちから「ねたみ」をかい、妨害があったのです(使徒言行録17章)。
又、テサロニケ教会のギリシャ人の信徒たちは、ギリシャ社会の同胞からの非難や排除や攻撃に遭っていたと考えられます。偶像に満ちた世界からクリスチャンとなることには大きな闘いがあったのですね。
けれども、その艱難の中でテサロニケの教会は主にあってユダヤ人もギリシャ人もなく、心を一つにして、「信仰による働き」「愛のための労苦」「主イエス・キリストに対する希望から生まれる忍耐」と、それらの実をゆたかに結んでいくのです。

ところで、テサロニケの教会の信徒たちの実のある信仰は、2つのことに起因していることが読み取れます。
それは4節にあるように、「神に愛され」「神に選ばれている」という事実であります。
その根拠は、パウロがテサロニケの人々に伝えた福音が、言葉だけによるものではなく「力と、聖霊と、強い確信によるもの」だったところにあります。
神の選び、その祝福は、旧約聖書の時代においてはユダヤ人だけに限定されていました。
しかし預言されてきたとおり、時満ちて、主イエス・キリストによる救いと祝福の道が、ユダヤ以外のすべての人にも開かれたのです。
それは人を分け隔てるものではありません。人の計画、人の思いではなく、神の計画と聖霊のお働きによって実現されていくのです。
パウロ自身、聖霊による幻に導かれてマケドニア州に入り、福音を伝えるようになったのでした(使徒16章)。だからパウロはユダヤ人以外の異邦人のテサロニケの人々も神に愛され、神に選ばれている存在であることを強く確信していたのです。

又、神がテサロニケの人々のうちにそのように救いをもたらされたのは、彼らに何か優れた要因があったからというのではありません。
彼らは福音を知らなかった以前、唯虚しく偶像を礼拝していたのです。そんな物質的世界に心奪われ囚われていた彼らが、真に解放され、救われるため、神はただ愛と恵みをもって実現してくださったのです。
テサロニケの教会の信徒たちは、その素晴らしい神の救い、イエス・キリストの福音を受け入れて、自らも「力と、聖霊と、強い確信」に満たされる経験をするのです。
私たちも又、唯、主の力と聖霊のお働きによって救いに与ったという確信によって、神に愛され、神に選ばれていることを互いに喜び合うものとされています。

パウロはこのテサロニケの教会の報告をテモテから受けての事だったと想像しますが。
次のように書き記します。
「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。」
パウロがここで「わたしたちに倣う者になりなさい」といっていますが、それは何も自信過剰でこう語ったのではありません。
ここに「主に倣う者となり」とも書き記されていますように、パウロ自身、主イエスの示された神の愛といつくしみ、その言葉と行いに倣う者として生きていたのです。

パウロをはじめは使徒たちのそのような信仰の姿勢は、テサロニケの教会の信徒たちに大きな影響を与える証しとなったことでしょう。パウロに倣い、キリストに倣う者とされたテサロニケの教会の信徒たちは、そうして「マケドニア州とアカイヤ州とギリシア全土にいるすべての信者の模範となるに至った」と、パウロは伝えています。
この模範というのは「型」ということです。つまりキリストの姿を帯びるという事です。
私たちクリスチャンは、それぞれこのキリストの似姿とされていくということですね。
キリストの香りを放つ私、主の教会とされてまいりましょう。
このようなテサロニケの信徒たちを通して、主イエスにある信仰は破竹の勢いでギリシャの町々に広まっていきます。
なかでも際立っていたのは、彼らが偶像から立ち返ったことです。
ギリシャといえば、パウロがその都市を訪れた時に、市中で目にしたのがおびただしい数の偶像です。それはこのテサロニケにおいても同様でした。
けれどもパウロから福音を聞いて、信じた者は空しい偶像から離れて神に立ち帰り、活ける真の神に仕え、テサロニケ教会の基礎を築くのです。
テサロニケの信徒たちの主イエスに倣う証の生活が、テサロニケからマケドニアとアカイア地方へ、それがギリシャ全土の町々にも伝わり、拡がっていくのです。
まさに、「力と、聖霊と、強い確信」によって神の救いの計画が実現していくのです。

偶像といえば何も石造や木像だけを指すものではありません。それは主なる神よりも大切な拠り所とすることです。
たとえば財産、名誉、地位、立場、主義主張、人物などを心の最高位に据えるなら、これらも偶像に変わりありません。
今のこの世界的状況下において、これまでの私たちを取り巻く社会が如何にそのような偶像を取り込んで、神と人、人と人との関係性を蔑ろにし、蝕んできたかが露わになっています。
まさに神に造られた人間が主を畏れ、主に立ち帰り、主に倣って生きるところに本来の神と人の「恵みと平和」(1節)が実現する、と信じます。
困難なこの状況の中にあっても、主イエス・キリストにある信仰、希望、愛(コリント一13章)は変わることはありません。
この福音を日々の生活において、具体的に分かち合って生きる者とされていきましょう。

祈ります。
「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」
慈愛の神さま、今日8週間の時を経て、礼拝の再開が導かれました。感謝します。
私たちにとって、偶像の満ち溢れる世にあって、活ける真の主であられるあなたに礼拝を捧げること、又、共に集まってあなたを礼拝できますことは、私たちの生きる力、喜び、希望です。
現況下において、世界、又国内においてこれまで抱えていた様々な問題が露わになってきています。
あなたはすべてをご存じであり、すべてを治めておられます。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
私たちがどうか世にあってあなたの子どもとして御心に聴き従って生きることができるよう導いてください。
主の御名によって祈ります。

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